旅行虫
安良巻祐介
急な雨に追われて駆けこんだ古本屋は、妙に薄暗くて人気もなく、ランプの仄明るさがかえって黴くさい闇を深めているような店であった。
私は濡れたコートを小脇に抱えると、傘を貸してもらうつもりで、誰もいない帳場のベルを鳴らした。
しばらく待ったけれど、うんともすんとも反応がないので、入り口の向こうの雨模様を眺めやり、せめてしばらくの雨宿りだけでもさせてもらおうと、本棚の間へ足を進めた。
適当な棚から何気なく抜き出した本は、何やら外国の作家の旅行記のようであった。
とはいえ、そこに記されてあるのは聞いた事もない国々、聞いた事もない動植物や風物であって、誇張と空想のオリエンタリスム華やかなりし時代のそれを思わせる、眉唾ものの冒険譚と見える。
私は苦笑しながら、その、独特な書体をした英字を目で追って行った。
と、真ん中あたりまで来た時に、私はそこから先が急に空白になっているのに気がついた。
文字がないのだ。巨人の国に入国して、羽ばたき飛行機械に乗せてもらって、真四角な山が並ぶ巨大な渓谷を遊覧している…という、旅の行程の非常に中途半端なところで、文章が急に途切れてしまっている。
おかしいな、と思いながらページを眺めまわしていると、途切れた文字列の下端の方に、インクのはみ出たような小さな汚れがあるのを見つけた。
店の照明が心もとないこともあり、文字のようにも見えるのだが、判別できない。
亡父の天眼鏡を鞄の底に入れていたのを思い出し、取り出して、ランプのもとでレンズをかざしてみた。
それはどうやら、「蝿」のようだった。
指の先ほどの、小さな蝿が、ぺしゃんこに潰れて、あたかも文字のような形になって、ページの下端に貼り付いている。
恐らく、本に挟まれてしまったのだろう。
それにしても、奇妙に首の長い蝿だ。
私は気味悪く思って、レンズをさらに近づけていくと、やがて背の毛の立つような心地がして、アッと声を上げた。
人だ。蝿の上の方に、蝿よりもさらに小さい、ケシ粒のような旅行者のかたちが、くっついている。
帽子をかむり、背嚢を背負い、ステッキのようなものを持って、両手を上げた姿で、蝿と同じく、ぺしゃんこになって潰れている。
まるで、ペンの先で描いた文字の一部分のようになって。
私は、遠くに止まない雨の音を聴きながら、天眼鏡に顔をくっつけたまま、凍りついたように動けなくなっていた。
背後でチリンと音が鳴って、帳場の向こうの闇の中から、誰かが出て来る気配がした。
旅行虫 安良巻祐介 @aramaki88
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