樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件

 翌日。

 恐る恐る大工芸室に入ったものの、誰も私をなじったりはしなかった。それどころか、「昨日は悪かった」「なんか、ごめん」と謝られてしまう。どうやら橘くんが何人かにメールを送ってくれたようだ。

 だけど螺旋塔を駄目にした真犯人が判明しない限り、居心地の悪さはなくならない。いつ、また嫌な雰囲気に戻ってしまうかわからないのだ。私は、がけの端っこでギリギリ踏みとどまっているような心細さを覚えつつ、なんとかその日をやり過ごした。

 そして、夕方。指定された場所──旧一号棟の前には、すでに梶谷さんの姿があった。入り口の段差に座り込み、本を読んでいる。……洋書ペーパーバツクかな。夕陽に照らされる赤っぽい髪が、ひどく印象的だった。

 この旧一号棟には、人数や活動規模が大きなサークルの部室がある。リア充のそうくつたるこの場所に、どんな用事があるというのだろう。

 私たちに気付いた梶谷さんは、本を閉じ、にっこりと笑顔を返してくれた。

「吽形くんも来たのかー」

 その呼び方はやめてあげてください。

 吽形くんこと橘くんは、「オレも行きたい」とついてきた。何が起きたのかを知りたいらしい。

「それじゃ、行こうか。軒端によれば、目的地は三階にあるそうだよ」

 キリッとした顔で、梶谷さんは四本指を立てる。私はますます不安になった。


 梶谷さんのあとについて、旧一号棟へと足を踏み入れる。

 建物の中は、驚くほどカラフルだった。廊下なんて色の洪水だ。床や壁はおろか、天井の蛍光灯カバーにいたるまで、全てに手が加えられている。

「この建物は創立当初からあったんだけどね、何年か前にエレベータや最新式設備を備えた新一号棟が完成したでしょ? お払い箱になったこの旧一号棟に、サークルの連中が移されたっていうわけ。で、やる気と創造欲に満ちた皆さんが、好き勝手に塗り盛り切り貼りしちゃってさ。……毎年、少しずつ塗り替えられていって面白いんだよー」

 私の疑問を先読みしたのか、梶谷さんが説明してくれた。その光景を想像すると、楽しそうで、少しうらやましくなる。

 どの部屋にも学生がいるらしく、なかなかにぎやかだ。

 笑い声、演劇っぽい台詞せりふの一節、ギュイーンとしたギターのうねり、外国語、テクノ風のリズム……色々な音が建物内に満ちている。階段を上がる間も、それらに圧倒されっぱなしだ。私の後ろを歩く橘くんは、「うるせえな」と顔をしかめていた。

 やがて私たちは、とある部屋の前に辿り着く。

 扉上部のプレートには、《近代映画研究会》とあった。お祭りか何かのようなけんそうの真っただ中にあって、その部屋は、まるで時の隙間に沈んだかのような静けさをたたえている。

 りガラスの向こうは真っ暗だ。暗幕でも引いているのだろうか。

「すーみませーん!」

 梶谷さんがノックするけれど、反応は無い。やたら静かだし、今日は誰もいないのかもしれない。

 だけど梶谷さんは、「お邪魔しちゃうぞーん?」と子供向けアニメのキャラクターみたいな口調で言ってから、無遠慮に扉を開け放った。

 さほど広くもない部屋は、大画面テレビだけが光源だ。暗くてよく見えないけど、テレビの左右には、何に使うのか見当もつかない機械類がごちゃごちゃ並べられている。

「なんだ!?」「ちょっ……、何っ? 誰っ?」──テーブルを囲む学生たちが、ぎょっとして振り返った。その内の一人が、転げるような動きで、照明のスイッチをバチンバチンと跳ね上げる。

「あ……あなたたちは何なんですか!?」

 手前に座っていた男子学生が、顔をしかめて立ち上がった。黒フレームの眼鏡に、白い光が反射している。

「とにかく、出て行ってください。僕たちは今、大事な作品の編集会議中で」

「他人の大事な作品を壊しておいて、どの口でそんなことが言えるのかな」

 梶谷さんの顔は、私の位置から見ることはできない。けれど、きっと微笑んでいるのだろうと思った。

『もう悩まないで、ラオコーンくん! 私はあなたのことが……!』

 テレビの中で、血まみれのせつこう像に抱きついた少女が、愛の告白を始めていた。よく見れば、少女たちがいるのは大工芸室だ。

 ──どういうこと?

 驚いて口もきけない私たちに代わって、梶谷さんが画面を指差した。

について話を聞かせてもらえるよね?」

 ただそれだけで、映研メンバーの顔が一斉に青ざめていった。

「別に……、僕たちは何も……」

 うろたえる眼鏡の学生の後ろでは、「部長、やっぱりまずかったんですよぉ」と女子学生が半泣きだ。他の部員たちも、青ざめた顔で目をらす。

 もう逃げられないと悟ったのだろうか──眼鏡部長が頭を下げた。

「……、……すみませんでした。あんなことになるとは思っていなくて」

「一体どういうことだ? あんたらがオレのせん塔を曲げたってのか?」

 橘くんの問いに答えたのは、やはり梶谷さんだった。

「そういうことだよ。たぶん悪気はなかったんだろうけど」

「でも、どうして映画研究会の方たちが関わってくるんですか?」

 いまだによくわからない私に、梶谷さんは小さくうなずいた。

「連休前の夕方に、あざみは大工芸室にやって来た数人の男女を見たと言ったよね。それが映研の人たちなんだよ。おおかた、下見に訪れたってところじゃないかな」

「下見?」

「そう。あの部屋が映画の撮影場所として使えるかどうか、のね。ついでに言えば、その映画は、おそらく今度のかしフェスで公開されるはずのものだ」

 私が聞いた『時間が無い』は、そういうことか。大工芸室の使用を前提に映画撮影を進めていた彼らは、まさか立体造形科に使われているとは思わなかったのだろう。

「しかし映研としては、今さら脚本を変えることはできなかったんじゃないかな? なにしろ樫フェスまで一ヶ月を切ってるし、編集の時間もあるだろうし」

 そして映画研究会は、悩んだ末、予定通り大工芸室を使うことに決める。連休中ならば学生も来ない。思う存分に撮影ができるはずだった。

「じゃあ、私たちの作業台が動かされていたのは……」

「僕たちだよ」

 眼鏡部長が、しょんぼりとうなだれる。

「あのままだと役者が演技するスペースもなかったし、機材だって置けなかった。後で背景を合成したくとも、ブルーシートを張る場所さえ難しかったから、どかしたんだ」

「……赤いべたべたも、撮影に使った何かだったのかな」

 独り言のつもりだったけど、しっかり聞かれていたらしい。振り向かないまま、即座に答えが返ってくる。

「甘かったことと、カラーインクに近い鮮やかな色からして、あれはおそらくのりだと思う。はちみつと食紅で作れるやつだ」

 違うかな? と梶谷さんが問えば、映研の方たちが力無く頷いた。

「それから、あざみの見つけたビニールテープは、いわゆるバミ線だったんだろうね」

「……バミ線!」

 それぐらいなら、私も知っていた。ドラマなどの撮影時に、役者さんの立ち位置や機材の場所を示すため、テープで印をつけるらしい。その行為を「バミる」と呼ぶのだそうだ。少し前に、「ドラマ撮影の舞台裏」的な番組で紹介していた。

 それにしても、全ての物事がクリアになっていくのは気持ちがいい。梶谷さんの名推理に、私はいたく感動していた。

 対照的に、けんのしわを深めているのが橘くんだ。厳しい顔で、梶谷さんと映研メンバーとを交互ににらむ。

「おい、ちょっと待てよ……。連休中、大工芸室で映研あんたらが撮影してたってのは分かった。でも、どうしてオレの螺旋塔が曲がらなきゃならなかったんだ!?」

 ……そういえば、そうだ。

 梶谷さんは、連休中に映画研究会があの部屋にいたということを教えてくれたけど、なぜ橘くんの作品が壊されたのかは明かされていない。

「まだ冬じゃねえからストーブを使う必要もねえ。それなら、いったいどうしてアクリル板が曲がったんだ? あの場に、他に熱いものなんて……」

「──あったんだよ」

「なんだと?」

「俺たちは普段、それが熱源になってしまうなんて思いもしないんだけどね」

 梶谷さんの指が、眼鏡部長たちの背後をゆっくりと指し示した。

 部屋の隅にあるのは、ちょうど私の身長ぐらいの縦に長い「何か」。カバーをかぶせられ、ひっそりとたたずんでいる。

 その正体に関して、私には一つだけ思い当たるものがあった。

「まさか……照明機材ですか!?」


 梶谷さんの手によって、ほこりけのカバーが外される。

 中から出てきたのは、古ぼけた照明機材だ。スタンドの上に、おおよそ二十センチ四方の大きなランプが載っていた。

「タングステンライトだ。ずいぶん昔に購入されたもので、……今回も、使った」

 徐々に、眼鏡部長の声が消えてゆく。

 タングステンライト。

 ドラマや映画の撮影現場に用いられる、大型の照明機材だ。その光量や放射する紫外線量は、蛍光灯やなんかとは比べ物にならないのだと、後で梶谷さんが教えてくれた。

 最近流行はやりのLEDでもないかぎり、光量の大きさは熱量と比例する。つまりライトの周囲は半端なく熱くなる、ということで。

「そのライトは恐らく、螺旋塔のごく近くに設置してあったんだろうね。連休中、朝から夜までぶっ続けで撮影したとすれば……アクリルがぐにゃっと変形してもおかしくはない、かな」

 大工芸室において、ほとんどの学生は作業台の上で制作を進めていた。

 けれど橘くんの作品は縦に長い。作業台を使うと、想定する高さを出せなくなる。だから床にパネルを固定して、その上で組み立てていた。おまけに、ちょっとでも動かせば崩れてしまいそうな作品だ。パネルを外したところで、動かすのは至難の業。

 映研の人たちは仕方なく、螺旋塔だけは場所を移動させないままで撮影を開始した。

 その結果、橘くんの螺旋塔は、至近距離に置かれたライトの熱をもろに受けてしまったというわけだ。

 眼鏡部長の後ろで、映研メンバーが一斉に頭を下げる。

「本当にすみません! だんだん形が変わってきてることに気付いてはいたんだけど……撮影を止められなかった」

 死にそうな顔で、眼鏡部長も「申し訳ありません」と小さく謝罪した。

 橘くんは、黙ったままだ。何かを言おうとして口を開くけれど、言葉が見つからないのか、すぐにまた閉ざしてしまう。

 何度かそれを繰り返したあと、絞り出すような声で言った。

「……もう、いい」


 それから梶谷さんは、楽しそうな顔で眼鏡部長を説得おどした。ほんの数分で、買い直したアクリル板の代金はおろか、学食の無料ただ券の提供まで約束させたのだ。ヘリクツ成分多めの容赦ない論法は本当に恐ろしいもので、見ている私まで冷や汗をかくほどだった。

 旧一号棟から出てくると、すでに日は暮れていた。思わぬ肌寒さに腕を抱いてしまう。

 前を行く橘くんが、ふと立ち止まる。

「……、……」

 意外なてんまつに戸惑っているのか、それとも本当のことが判明してスッキリしたのか。大きな背中から、ふわりと力が抜けていく。

 ──最後まで、橘くんは怒ったりとうしたりはしなかった。ただためいきを吐いて、『いいんだ』とつぶやいただけだ。

 だけど、あんなにれいな螺旋塔を壊されて、それだけで済ませるなんて仏すぎると思う。本当は怒鳴りたかったんじゃないだろうか。

「橘くん、……あれでよかったの?」

 こちらを向いてくれないまま、首が上下する。

「起こっちまった事はしょうがねえだろ。それにオレだって、螺旋塔の出来には納得いかなかったんだ。あれ、あんまり綺麗じゃなかっただろ? ツギハギだらけでさ」

「…………。そんなことなかった、よ?」

 むしろ、とてもせいな作品だと思っていたけど……。どうも橘くんは、とことん己に厳しいらしい。

「やり直したいとは思ってたんだが、なかなか踏ん切りがつかなかった。……映研あいつらに壊されて、ちょうど良かったのかもな」

 良い機会だ、と呟きが聞こえた気がする。

 長い沈黙のあと、やっと振り向いた橘くんは、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。そのまま梶谷さんに向かって深々と頭を下げる。

「なんつうか……えーと、センパイが突き止めてくれなかったら、オレはきっと、いつまでもモヤモヤしてただろうし。本当にありがとうございました!」

「それは俺に言うことじゃないよー」

 梶谷さんはひらひらと手を振ってみせる。

「あざみが話してくれたから、本当のことがわかったんだ」

「……そっか。長原、ありがとうな」

 私に対しても頭を下げようとするから、私は慌ててそれを止めた。

「わ、私は何もしていないの! ただ梶谷さんとお話ししただけで……」

 あたふた弁解しつつも、なんだか不思議な気持ちになってしまう。ずいぶん長い間この件に関わっていた気がするけど、始まりは昨日の朝なのだ。まだ二日も経っていない。

 橘くんのせん塔が曲がっちゃって、私が犯人だと思われて、お昼休みに梶谷さんと出会って、泣いて、事件の説明を……、あれ?

 そうだ。まだ、もう一つ疑問が残っていた。

「あの、梶谷さん」

「どうかしたー?」

 建物脇のきんもくせいでていた梶谷さんが、顔だけこちらに振り返る。

「なんであの時、大工芸室に来てくれたんですか? まさか小説に出てくる名探偵みたいに、『事件のニオイをぎつけた』とか!?」

 半分本気で半分冗談の言葉に、橘くんが「マジか!」と目をみはった。うん形が形に変化する。怖い。

 しかし梶谷さんは「そういう能力ちから、真剣に欲しいんだけどね」とまゆを下げる。

「俺はただ、サークルに入ってくれた子にお礼が言いたかったんだ。この時期は大工芸室で制作やってるはずだと思って行ってみたら、ひよこを追いつめる狼の群れみたいな状況になってたからね。……なんだか俺と似てるなーって思っちゃったりなんかして」

「えっ?」

 似てるって何のことだろう。まるで意味が分からない。

 それはともかくとして、

「その『サークルに入ってくれた子』っていうのは、私のことですか……?」

 たしかに私はサークルに所属しているけど、まさか梶谷さんは関係者なのだろうか。

 スーッと血の気が引いていく。半年近くも顔を出せなかったことを、顔も知らない部長さんはそうとう怒っているに違いない。

「す、すみませんでした! あのっ、私、なんだかいつも間が悪くて、一度もサークルに行けなくて……! どうか部長さんにも謝っておいてくださいっ」

「まあ、俺がその『部長さん』なんだけどね?」

 照れくさそうに言って、梶谷さんが微笑んだ。

「あざみには感謝してる。きみが名前を貸してくれたおかげで廃部を免れ、大事な場所を守ることもできたんだよ。……ありがとう」

 心の底からそう思っているのだろう。その笑顔は、とても柔らかなものだった。迷惑をかけたはずの私まで、なんだかうれしくなってくる。お世話になったことだし、今後はなるべく梶谷さんのサークルに顔を出すようにしなければ。

 だけど残念なことに私は、サークルについて知らないことが多すぎた。

「今さら失礼かとは思うんですけど、いったいどういうサークルなんですか? 私、名前さえも知らなくて」

「ふっふっふ……それじゃあ教えてあげようか」

 梶谷さんが嬉しそうに、そして誇らしげに胸を張る。


「──《カジヤ部》っていうんだ!」


「かじ、……え?」

 なんだか間抜けな私の声は、即座に夜空へ溶けていった。

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樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件 柳瀬みちる/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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