樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件4

 十八時をまわり、構内からは加速度的に学生の姿が消えていく。

 全ての講義を終えた私は、恐る恐る大工芸室に戻ってきていた。室内には、誰一人残っていない。それを確認した途端、身体からドッと力が抜ける。

「誰もいないなんて都合が良いねえ」

 梶谷さんが、照明のスイッチをパチンパチンと押していく。たちまち、はじけるようにして白い光が満ちていった。

「それで……察するに、あれがくだんの『せん塔』かな?」

 私の返事を待たず、真っ直ぐに橘くんの作品を目指す。私は、慌てて後を追った。

「さてと。一体どんなものなのかな、っと」

 白い布が取り払われる。

 連休前には二メートル近くの高さを誇った螺旋塔は、今や私の身長よりも低い。折れ曲がった箇所も、その先の部分も解体済みで、新聞紙の上に積まれていた。おそらく再利用は出来ないだろう。

「へえ、これはすごい!」

 腕を組んだ梶谷さんは、螺旋塔の周りを歩き、四方から観察し始める。高さを手で測ったり、しゃがみこんで見上げてみたり。その顔つきは、真剣そのものだった。

「それじゃあ、あざみ。朝のことをもう一度最初から話してほしいんだけど」

「……わかりました」

 何から、そしてどれを話せば良いのか、頭の中でざっくりと整理する。

「私は、授業開始の一時間前ぐらいにここへ来ました。大工芸室には誰もいなくて……カーテンも閉まっていたと思います」

「あ、閉まってたんだ?」

 すかさず梶谷さんがカーテンを閉めに走る。もしかして、朝と同じような状況を作るつもりだろうか。

「自分の制作を進めようと思ったけど、作業台がずれているような気がしたんです。私だけじゃなく、みんなの作業台も」

「連休中に作業台の位置が変わった、ってことか。でも、なんでだろう」

「お掃除とか害虫駆除の業者さんが入ったんでしょうか? その方たちの道具がぶつかったりして、螺旋塔が……」

「そういう業者は、大学を閉める時に呼ぶはずだよ。たとえばお盆休みや年末年始、それに春期休暇とかね。でも、どうしてあざみはそう考えたんだい?」

「連休前日の夕方、なんだか怪しげな人たちがこの部屋をのぞいてたんです。『面倒』とか『時間が無い』とか話してたような気が、して、……」

 あれは何かの下見だと感じたけど、螺旋塔が曲がったことと関係はあるのだろうか。

「それから──そうだ、床に赤い何かが付いていたんです! べたべたしていて、なかなか落ちなくて、大変でした」

「塗料かな? それとも、まさか血だったり……」

 私は、すぐさまゴミ箱へと走った。ふたを外し、腕を突っ込んで目的の物を探す。紙クズや木片、お菓子の袋をかきわけていくと、おがくずまみれのティッシュが見つかった。

「これですっ」

「赤いべたべた、か。どれどれー」

 受け取った梶谷さんは、ちゆうちよなく赤色に触れる。指に移った色を確かめるようにして眺めたのち、次は鼻を近付けた。

「水彩でも油絵具えのぐでもインクでもないようだねえ。何かの薬品かとも思ったけど、匂いもない。なのに色が鮮やかすぎる。……なんだ、これ?」

 不思議そうな面持ちでティッシュを見つめた梶谷さん。

 次の瞬間、それをべろんとめていた。

「か……梶谷さんっ!?」

 危険かも、毒かも、なんて少しも考えないらしい。あかく染まった舌を突き出し、「なんだか甘くてお得な気分」と悪びれずに笑ってみせる。

「お腹が痛くなったら、すぐに病院へ行ってくださいねっ!?」

「ごめんごめん、ついうっかり。でもあざみを涙目にはしたくないから、今後は善処できるよう努力したいと決意を新たにしようかなと表明するつもりもあったりする」

 政治家のような言い回しで、梶谷さんはティッシュをエプロンの前ポケットにしまう。

「それでさ、他に何か気付いたことは?」

「……そういえば赤いべたべた以外にも、床にビニールテープが貼ってありました」

 私は、親指と人差し指とで、七、八センチほどの長さを示してみせる。

「このくらいの長さで、色は青とか黒とか。あちこちに貼ってあったんですけど……」

「ビニールテープか」

 梶谷さんが、床にいつくばる。こんせきを探しているようだけど、テープは欠片かけらも残っていない。授業が終わった後、助手さんあたりが掃除してしまったのかもしれない。

「残念ながら、何も無いようだね」

 膝の辺りを手で払って、梶谷さんは立ち上がる。ついでに切り離されたアクリル片をつまみ上げると、目の高さまで掲げてみせた。

「確認になるけど、この教室へやには、他に熱源になりそうなものってあったかな? ここに入るのが久しぶりすぎて、よく思い出せないんだー」

「熱源、ですか……」

 もちろんアクリルを曲げる意味でかれているのだろう。

 私は、室内をぐるっと見回した。

 今はまだ、秋の初めだ。立体造形科が拠点としている五号棟の教室には、早々にストーブが設置されていたけれど、この部屋には見当たらない。エアコンはあっても、螺旋塔から二十メートル以上も離れている。コンロを使って湯を沸かす者もいなかったし、ライターなどの火器を持ち込んでいる人もいないと思う。たぶん。

「熱源になりえるものは何も無いと思います」

「と、すると。螺旋塔を曲げる必要があったんだろう?」

「何のため、って」

 それはもちろん、橘くんへの嫌がらせだろう。彼に恨みのある誰かがやったのだ。

 ゆがんだアクリル片を手の中でひっくり返して、梶谷さんは独り言のように話し続ける。

「嫌がらせあるいはイジメが目的で、この螺旋塔の破壊を考える者がいたとしようか」

「? はい」

「だけど、なんらかの熱を当て続けて曲げるなんて、ビックリするほど回りくどい。たとえばドライヤーを使うにしてもさ、熱風を当てるよりも、本体でぶん殴ったほうが確実かつ簡単にぶっ壊せるでしょ」

「あ……!」

 橘くんの螺旋塔は、ただでさえ極薄のアクリル板をさらに細く切ったもので構成されている。ドライヤーどころか、購買部で買えるアズキバーでも壊すことができそうだ。

 他の熱源についても同じことが言えるよ、と梶谷さんは続けた。

「それなのに真犯人は、『壊す』ではなくて『曲げる』を選択した。……これ、どういう意味なんだろうね」

「曲げなきゃいけない理由があったか──それとも、もしかしたら嫌がらせが目的じゃないのかも、って……、ええっ!?」

 自分で言ったことなのに、少し遅れて驚いてしまう。イジメやふくしゆうではないとしたら、犯人は何がしたかったのだろう。ただの事故ということ?

 ますます混乱する私だけど、靴音が聞こえたことで正気を取り戻す。誰かが大工芸室に向かってきているようだ。嫌な予感に、背中を冷や汗が伝い落ちた。

 中の様子をうかがうこともせず、いたって堂々と扉が開けられる。入ってきたのは、やはり橘くんだった。

「長原……」

 腕にアクリル板らしき包みを抱えた橘くんは、最高に不機嫌な顔をしていた。

「昼にも見たけど、そいつは誰だよ?」

「ええと……、あの……」

 ひたすら委縮する私に代わり、梶谷さんが「ましてー」と不思議なあいさつをした。

「君が噂の『顔がこまいぬ』な橘くんだよね、あざみから話は聞いてるよ。でも狛犬っていうより、むしろ金剛力士像かなー? とうだいとかほうりゆうにある有名なアレ。それもうん形──『んー!』って口を閉じてるほうだ」

「梶谷さんっ……!」

 かろうじて悲鳴を飲みこんだ。

 たしかに私は、橘くんを狛犬みたいだと表現した。でも本人を前に狛犬呼ばわりしてしまうなんて(そのうえ吽形に進化させるなんて)とんでもない裏切りだ。ひどい。

 きっと橘くんは不快に思ったことだろう。先程までとは違う意味で、私の胸がバクバクと暴れ始める。

「あ、ちなみに俺は研究科の梶谷だよー。簡単に言えば、ナイスでナイスなお兄さん。イケメン兄貴でもハンサム先輩でもお好きな呼び方でどうぞどうぞ」

「…………」

 得体の知れないものと遭遇したかのような目で、橘くんは梶谷さんを見つめる。ほどなくして、その鋭い眼光が私に向けられた。

「長原に言いたいことがある」

「!!!」

 肩がびくっと跳ねてしまった。これはやっぱり「腕の一本で済ませてやるよ」とか「死んで償えよ」とか、そういうことだろう。足にも、そろそろ震えがきそうだ。

 だけど次の瞬間、橘くんの口から飛び出たのは、ビックリするような言葉だった。

「オレは、長原がやったんじゃないって知ってっから」

「……え?」

「オレと向き合っただけで涙目になるおまえが、あんなこと出来るはずねえだろ」

 脳に届くまで、かなりの時間が必要だった。

 橘くんは、私を信じてくれるの?

「だからまあ、なんつうか……あんまり気にすんな」

 乱暴な口調の奥にも温かさがあるようで、──その温度は私の緊張を溶かしていくようで、思わず涙がにじんでしまう。

「ありがとう、橘く、ぅえっ」

「泣くなって!」

「ごめんなさ……、うう」

 怒られると、ますます泣きたくなる。

 涙と鼻水にまみれて、もうどうしていいのか分からなくなった辺りで、「青春まっさかりのところを邪魔して悪いんだけどね?」と笑顔の梶谷さんが割って入った。

「それでさあ吽形くん、きみは誰かに恨まれたりとかしてる? ここ最近、なんか悪いことやっちゃった?」

 ド直球だった。

「そんなの知らねえよ」

 プイッとそっぽを向いた橘くんだけど、ふとためいきこぼれ出る。

「……でも、あんなのしょうがねえだろ」

「ん、なんで?」

「アクリル板ってのは、『光』でも曲がるって聞いたことがある。きっとオレのも、光でこんなふうになったんだ。天井うえの蛍光灯とか、太陽の光とかな」

「それはないと思うなあ」

 梶谷さんは、首を傾げて否定する。

「この季節、まだ太陽光は真横から差し込まない。カーテンも閉まってたらしいし──ましてや君の作品は部屋の奥だ。たとえ真冬でも、そこまで光が届くかどうか」

「じゃあ蛍光灯だろ。連休中、きっとあれが照らし続けてて……」

「光源に近いところほど、当然ながら多くの熱を受けるよね。蛍光灯が原因で曲がったなら、塔の先端からぐにゃぐにゃいくはずだ」

「じゃあ、なんだってんだ? オレのせん塔は、なんでこんなことになったんだよ!」

 橘くんが、自分の作業台にこぶしを打ち付けた。アクリル用カッターやヒーター棒が、びりびりと震える。かしフェスのパンフレットもまた、台からするりと滑り落ちていった。

 いらちはもっともだ。精魂込めた作品が、なぜ中途半端に壊されなければならなかったのか。その無念さは察するに余りある。もしも私が、作りかけのジオラマを壊されたら?……そんなの、想像さえしたくない。

「もうすぐ樫フェスかー」

 不意の一言で、意識が現実に引きずり戻された。

 パンフレットを拾い上げた梶谷さんが、適当にページをめくっている。あれはたしか、今日の講義が始まる前に配られたものだ。私のはかばんにしまってある。

 興味無さげな顔で前半を読み飛ばした梶谷さんだけど、真ん中あたりで指が止まる。

 ちらりと見えた派手な色使いは、各サークルの告知スペースだろうか。『映画』の二文字があった気がする。

「──ああ、なるほど。もしかしたら、なのかな」

 顔を上げた梶谷さんは、静かに微笑んでいた。


 あの後、梶谷さんは、『確認とってみるから、明日あしたの夕方にまた会おうね』と去っていった。

 でも何の確認なんだろう。さっきの「調査」で、何か分かったことがあるんだろうか。

 十九時をまわった帰り道。頭上には、真円に近くて惜しい月だ。

 左側が欠けた月を、何と呼ぶんだっけ。たしか下弦の……いや上弦の月? その「弦」ってバイオリンに使う糸のこと? あの糸に塗るのってなんだっけ? ココナッツオイル? さすがにサラダ油じゃ駄目だよね?

 ……と、必死になってどうでもいいことを考える私の隣を歩くのは、どういうわけだか橘くんだ。帰る方向が一緒だから、途中まで送ってくれるらしい。

 しかし入学以来、誰かと帰るなんて初めてのこと。ただでさえ緊張レベルが高いのに、その相手が橘くんだなんて、もう何かの試練としか思えない。

 だからこそ私は頑張って、「考え事に集中している」フリを続けていたのだが。

「なあ、長原」

 努力もむなしく、話しかけられてしまった。

「おまえ、サークルとか入ってる?」

「……一応、入ってるよ。たぶん、きっと。おそらく」

「なんだよそれ。まさか名前だけ貸してんのか」

「う」

 まさしくご指摘の通りだった。

 あれは入学式から一ヶ月経った日のこと。立体造形科の助手さんが、私に頼みごとがあると言ってきたのだ。『名前だけでいいからさ、あるサークルに入ってやってほしいんだけど』──。

 私は、少し考えてから了承した。

 アルバイトもしていない。教職課程を取るつもりもない。遊ぶような友達もいないから、わりと暇だった。それに、断れば、助手さんにも嫌われると思った。

 どこでどんな活動をしているサークルなのか、何一つ聞いた覚えはない。それでもちょっと楽しみだった。壁の花どころか壁のシミっぽい存在感の私でも、サークルの方と知り合い以上友人未満な関係ぐらいになれるかもしれない、と期待していた。

 しかし初めて顔を出しに行こうとした、その日。空気を読まない私のお腹が、急激に猛烈に痛み出したのだ。脂汗を流しながら、私は帰路につくことになる。

 以来なんとなく気まずくて、一度も顔を出せていない。模範的幽霊部員である。行ってみたい気持ちはやまやまだけど、それ以上に、今さら行ってとうされたらどうしようという恐怖がたにたに(?)だった。

 ──なんて馬鹿正直に話せるわけもないので、あいまいな笑みで誤魔化しておく。

「大学生活って難しいよね」

「なんだよそれ」

 もう一度、橘くんがつぶやいた。

 私たちの間を、びゅうっと北風が吹き抜ける。静かで寂しい住宅街には、秋の気配が降り積もっていた。

 しばらくの間、無言で夜道を歩く。というか、会話を再開する方法が分からなかった。

 頭の中で、大学で出会った人たち(社交的属性)の話し方を検索する。──辿たどり着いた答えは、『相手にも同じ質問を返す』。

「あの……、橘くんは」

「オレは入ってねえ」

 何も言っていないのに察してくれた。

「何か面白い、他には無いようなサークルがあったら入ろうかと思ってた。でも、どれもこれもつまらねえから、いっそ自分で作ったほうが早いのかと考えてる。なんつうか、その時の気分に合わせて、色々なことをやりたいんだよな」

 意外だった。友達に合わせるとか、そういう行動原理を持ち合わせてはいないらしい。

 もしかしたら、顔ほどには怖い人じゃないのかもしれない。

「それで長原は、どうしていつも一人でいるんだよ?」

「……、……えっと」

 一瞬、口の中に苦い味が広がった。

 中学の時にひどいイジメに遭ったので──なんて、やはり馬鹿正直に話せるわけがない(二度目)。

「私、一人でいるのも好きなんだ」

 まるっきり噓というわけでもない。

 すると橘くんは、

「そっか。オレもだ」

 と、こまいぬのような顔で笑った。

 それから少しして、アパートに辿り着く。

 私たちは、小さく手を振って別れた。「また明日」って声に出して言うのは久しぶりのことだった。

 赤茶けた階段を、カツンカツンと上っていく。

 その音を、私は初めて、寂しいと感じてしまった。


 四月から暮らしているこの部屋には、まだ家具が揃っていない。必要最低限の物だけが置かれた六畳間は、外よりもずっと冷えていた。

 鞄を置いてテレビをつけると、タレントたちの楽しそうな笑い声が響き渡った。慌ててリモコンを連打し、音量を下げる。

 スマホを取り出してみれば、メールが一件──お母さんからだ。いつも通りにわたしを心配する文面がずらずらと続いている。体調を崩していない? とか、あざみ一人を残して行ってごめんね、とか。

 ふう、と小さく息を吐く。

 上手な返信って、どんな言葉だろう? 毎日考えているけど思いつかないから、いつも通りに「大学は楽しいよ」とだけ返すことにする。

 それから私は、習慣的にスマホのうらぶたを外した。

 外した蓋を引っくり返してみれば、そこにあるのは「がんばれ」の文字だ。

 四年前、まるで魔法のようにいきなり現れた四文字は、まさにカミサマからのメッセージとしか思えない。

 ……今日もありがとうございました、カミサマ。変な先輩と知り合いになったり、橘くんと仲直り(?)できたりと色々あったけど、私はもう少し頑張れそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る