樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件3
私の人生は、大体いつでも間が悪い。
たとえば入学式前日には季節外れのインフルエンザにかかって、友達作りの最初の一歩につまずいた。雑誌に載っていたオシャレな雑貨屋さんに、勇気と電車賃とを費やして行ってみたら、その日に限って臨時休業。この前なんかスカイツリーから飛び降りるぐらいの覚悟で秋物ワンピースを買ったのに、次の日には値下げされてしまった。
今だってそう。橘くんの作品が破壊されたと判明した時に、たまたまドライヤーを持っていたなんて、神がかり的な間の悪さだ。勘違いされても仕方ない。
しかし大多数の意見というのは、時として真実よりも尊重される。私が何を言ったところで、もう何も変わらない。身を縮めて、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。私はいつだって、
あれからすぐにやって来た担当教授も、助手さんも、螺旋塔が折れ曲がっていることに驚きはしたものの、それだけだった。「どうしたの、これ」と事情を尋ねるぐらいで終わってしまう。真犯人を探そうなんて、誰も考えない。
──その日の午前中、橘くんは、螺旋塔を中ほどから切り離す作業に追われていた。時おり、イライラとした様子でアクリル片を床に放り捨てる。
そのたびに「ほんと可哀想」とか「ひどすぎ」と誰かが囁いた。直接的な
青い空には、にわかに雲が湧いていた。
藤棚の柱にもたれ、ズルズルとしゃがみこむ。吸い込んだ息が、肺の手前でわだかまっているようだ。
……でも、大丈夫。だって私には「カミサマ」がついている。
ポケットからスマホを取りだして、ぎゅっと握りしめた。
この小さな機械には、カミサマからのメッセージがある。
今もまた、心の中で呼びかける。
どうかお願いします、カミサマ。昔みたいに助けてください。私をあの場所へ導いてください。そして、教室を昨日までの空気に戻してください──。
「……。行かなきゃ」
あまり制作を中断するわけにもいかないから、震える足を
それから少しして、二限終了のチャイムが鳴ってくれた。
ホッと
早くここを出たい。食欲はないけど、竹林に行けばとりあえず一人になれる。
けれど私の気持ちとは裏腹に、なぜか橘くんが近付いてくる。逃がさないとでも言いたいのだろうか? 彼の
な、なんだろう……何か話があるのかな。
室内が、異様な緊張感に包まれる。みんな、私たちに注目しているようだ。
私は後ずさるけれど、橘くんはさらに距離を詰めてきた。
「なあ長原、おまえ──」
「あ、長原さんってきみのことなんだ?」
突然、一人の男性が、にゅっと視界に入りこんできた。
同級生じゃないし、もちろん知り合いでもない。ゆるゆると波打つ赤茶けた髪や、少し垂れ目でおっとりした雰囲気は、いわゆる「人好きのする」というやつに見えた。
橘くんの視線を遮る形になった男性は、優しげな笑顔で私に話しかけてくる。
「長原あざみさんだよね。居てくれて良かったーというか、思ったより可愛いんだね」
「は……、いえ、……、あの……?」
橘くんに追い詰められた時とは、別の意味で背筋が冷える。
男性は、わざとらしい仕草で橘くんと私を見比べた。
「あれえ? もしかして俺、大事な話を邪魔しちゃったかな。これで友情やら愛情やら何らかの甘酸っぱいアレが壊れちゃったらどうしようっていう、責任の一端を感じたり感じなかったり。でも空気読みたくない気分の時ってあるよね。ていうか、むしろ壊してくれと空気が叫んだわけだから、あえて俺は空気を読まない。……ごめんね?」
立て板に水を流すような、って、こういう時に使うんだっけ。誰も口を挟む隙がないぐらい
「じゃあそういうわけで、長原さんは借りていくね」
「えっ!?」
戸惑う私に構うことなく、男性はさっさと歩き出す。半ば引きずられる形で、私は大工芸室から連れ出されることになる。あまりにも唐突すぎる展開に、みんなが
二号棟を出た後も、手を握られたままだ。
男性の力はそれほど強くないから、逃げようと思えば簡単に出来るだろう。けれど、私にそんな大それたことが出来るはずもなくて。
「すみませんがっ……私はこれからどこへ行くっ、んでしょう、かっ」
やっとの思いで口にすると、男性は振り返ることなく答えてくれた。
「変な空気だったから、思わず連れ出しちゃったんだけど……もしかしてさっきのは、ドS的な告白シーンだったりした? やっぱり邪魔しないほうが良かったのかな」
「! い、いえ、そんなことは……」
あれは絶対に確実に告白の雰囲気なんかじゃない。むしろ断罪だったと思う。
とにかく、あの場から逃げ出せたのは助かった。あのままだと、いじめの種が大木まで急成長したに違いない。もっとも、逃げたところで、現実は変わらないんだけど。
男性は、
この棟には立体造形科の研究室などがある。研究室とは、文系や理系でいうところの大学院。つまり彼は研究生なのだろうか。
大小様々なモノたちに圧迫されまくりの廊下を進み、左の部屋へ足を踏み入れる。
電ノコやら
私たちに気付いたのか、女性が目線を向けてくる。
「珍しいじゃない、誰かと一緒にいるなんて。明日はベニヤ板が降ってくるかな」
「
「意味が分かるよう日本語で言ってくれる?」
「だって半泣きでぷるぷる震えて可愛かったから」
「へえ。あっそう。まあ
女性が、ハスキーな
「その子を連れ込むなら、裏にしておけば? 中庭は
「わかったー。ありがとう」
行こう、と男性は再び歩き出す。しかし彼の向かった先は、意外な場所だった。
もともとこの竹林は、とある教授が「制作用に竹が欲しい」と一本の苗を植えたことが始まりなのだという。今やろくに管理もされず、生い茂るままだ。七夕の季節には、各科がこぞって伐採にくるらしい。
男性が、いつものベンチへと私を促した。
「さあどうぞ、長原さん」
「……あの……?」
「そのベンチは
そういうことを心配しているのではないのですが。
私を座らせた男性は、自らも数歩離れた切り株に座る。
「つかぬことを聞くけど、長原さんは昼ごはん持ってきてる? もしかして学食派?」
……まさか私とお昼を食べようと思ってたの!?
予想外の展開に、驚いてばかりだ。慌てて鞄からお弁当包みを取り出し、返事の代わりに掲げてみせる。男性が、ホッとしたように微笑んだ。
「大丈夫みたいだね。それじゃあお腹もすいたし、食べちゃおうか」
「は、はい。……いただきます」
包みを開きながら、気付かれないよう慎重に、かつ大胆に男性を観察する。
マドラスチェックの
最悪の可能性に、目の前が暗くなる。おにぎりを口元へと運ぶ力も失せてしまった。
「照れるなあ」
いきなり、男性がそんなことを言う。何事かと思い、のろのろと顔を上げてみれば、
「自覚はないんだけど、俺って食欲を失くすほどのイケメン? そんなにウルウルした目で見つめられると、さすがに照れるっていうかー困っちゃうっていうかー」
「はい?」
「ん?」
一瞬の沈黙を経て、男性が照れくさそうに目線を
「……今の、ジョークなんだよ? 大爆笑は求めていないものの、できれば可愛く笑ってくれたら、俺のささやかな『笑顔を見たい欲』も満たされるんだけど」
本当に、なんなんだろうこの人……。
いぶかしむ私に気付いたのか、「あ、忘れてた」と男性が背筋を伸ばす。
「俺は
男性──梶谷さんは、そこで
「長原さんにはお世話になってます。君がいなければ大事な場所を守ることができなかったよ。本当にありがとう。そして願わくは今後もよろしくねー」
「お世話になってるも何も、お会いしたのはこれが初めてなんじゃないかと思──」
「ところで、一つ長原さんに
「! なんでしょうか」
ついに本題だ。身構える私とは対照的に、梶谷さんはサンドイッチをもぐもぐしながらのんびりした口調で話し出す。
「『長原さん』ってちょっと呼びにくいから、あざみさんって呼んでもいい?」
あやうく、おにぎりを落としそうになった。
「『さん』は要らないです。私のことなんて、呼び捨てで構いません」
脱力した私の言葉に、梶谷さんが笑顔を浮かべた。
「じゃあ、あともう一つだけ。……さっき、何があった? どうしてあんなに思い詰めた顔をしてたのか、訊いてもいいかな」
「……え」
「
そう言われたって、すぐに話せるはずもない。だって私が話すことで何か新たな問題が起きてしまったら、どうすればいいの?
「だけど」と頭の中の冷静なもう一人が声をあげる。
どうせこの人は部外者だ。何を知ったところで、あの事件には関わりようがない。教授たちから何かを指示されたわけでもなさそうだし、……話してしまおうか。
そう決めても、話し出すのには多大な勇気と時間と思い切りが必要だった。
「実は、今日の朝……」
「──なるほど。朝来てみたら、同級生のアクリル造形が曲がってたのか。それは確かにびっくりだね。でも、それでどうしてあざみが疑われる羽目になったんだろう?」
「私は地味だし、友達もいなくて……空気だから。きっとみんな、『そういうこと』をしそうな奴だと思っていたんです」
口に出してみると、とたんに胸が痛くなる。
「それに、今朝はたまたまドライヤーを持っていたから」
「ドライヤーか……」
梶谷さんが、初めて難しい顔をした。
アクリルという素材は、熱を用いて曲げるのが一般的だ。専用ヒーター棒の他に、ストーブを使うとか、湯せんで曲げる人もいるらしい。言い方を変えれば、たかが湯せんの温度でも曲がってしまう。ドライヤーといえど、当て続ければ馬鹿にならない。
「だけど、あざみはそんなことやってない……よね?」
唇をきつく嚙み締めて、
「でも、あんな状況であんな物を持っていた私が悪いんです。疑われても仕方ないし……、
「本当にそう思う?」
「…………」
目の裏側が、急に熱くなってきた。何かが
「私なんかが何をしたって、大きな流れは変わりません。そんなの、中学の時から知ってます」
あの頃の私には、
きっと今回も同じ。何もかも諦めてじっとしていれば、いつか嵐は過ぎ去るはずだ。
「だから、もう、どうでもいいんです。私は卒業まで静かに過ごせれば……」
「本当に本当にそう思う?」
梶谷さんは、同じことを訊いてくる。
「おそらく君は、この件に関して、心の深いところでは諦めたくないと思ってる。だって、そうでしょ? 心底『どうでもいい』と思うなら、事件のことを事細かに話したりなんかしないよ。面倒くさいしね」
「っ!」
そんなの絶対に違う。
私は、この先に待ち受けているはずの暗い運命を受け入れた。いじめられる覚悟だって出来ているし、悲しくもない。それにカミサマだっているのだから。
だけど気持ちとは裏腹に、涙は止まってくれなかった。
「わ、私だってこんなの嫌です! だって私は──本当に何もやってないのにっ!!」
「……そうだよね」
それは春の日の木漏れ日みたいに、温かな
「じゃあ、ちょっと調べてみようか」
「しら……べる?」
「そう。調べる。本当は誰がどんな目的でアクリル工作を破壊したのかをね!」
君の無実を証明するんだよ、と言われたけれど。
まさか本当にそんなことが出来るなんて、その時の私は信じていなかった。
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