樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件2

  第一話 長原あざみは諦めたい


「もしかして、長原さんがやったんじゃないの?」


 ──誰かのつぶやきに、室内がシンと静まり返った。

 違います、と言わなければいけない。私は他人の作品を壊すようなことはしません、と首を振らなければならない。でなければ、きっと同じてつを踏んでしまう。

 だけど、どうしても声が出てこなかった。

 みんなの視線に、肺やのどを突き刺されているようだった。

 震え始めた右手から、ガランと音を立ててドライヤーが落下した。


    ***


 うっすら漂ってくるのは、どこか懐かしくていとおしい匂い。

 今日まで気付かなかったけれど、道沿いにきんもくせいが植えられているようだ。濃緑色の隙間で、オレンジ色の花がぴょこぴょこと開き始めている。

 いつまでも夏が続くような気がしていたのに、すでに秋の入り口にいたなんて。時の流れの速さに負けじと、私は少しだけ歩を速めた。学生たちの波をすり抜けて、二号棟の大工芸室へと急ぐ。

 私が所属する立体造形科の、本来の拠点は、裏門近くの五号棟だ。

 けれど私たち一年生は、来月の学園祭──通称樫フェスで一般向けの展示を行うことになっていた。

 その制作と展示を兼ねる場所こそ二〇一A教室、通称「大工芸室」。二号棟に入ってすぐ、廊下を右に曲がったところ。先週から、午前中はここでの制作に充てられていた。

 いつものように身だしなみチェックをしてから、勇気をもって扉を開ける。室内には、すでに同級生の姿があった。

「……おは、よう」

 緊張して上擦る声であいさつすれば、ぽつぽつと「長原さんか」「おはよ」などと返してくれる。無視されないって、本当に素晴らしい。

 広々とした大工芸室には、大小さまざまな作品が並んでいる。

 驚くほど高い天井に、正門からグラウンドにかけてを一望できる巨大な嵌めごろし窓。カーテン越しに差し込む光が、作業台や床の上に鮮やかな光の海を作りだしていた。

 教室の最奥、私に割り当てられたスペースへと向かう。

 樫フェス展示における制作テーマは自由。材料も大きさも自由。

 だから私は、紙工作を行っている。様々な画材を使って紙に模様を描き、切って貼って組み立てて、ジオラマを作るのだ。何度も夢で見る風景を、再現してみたかった。

 紙から金属までありとあらゆる立体物を制作する立体造形科だけど、この課題においては、せつこうか木材を使う人が多いようだ。最奥のスペースでは、「アクリル」というガラスに似た素材を使って、巨大な塔が組み上げられようとしている。わりとどんな物でも作らせてもらえるのが、この学科の素敵なところだと思う。

 隣の作業台でファッション誌を広げる級友たちは、おしやべりに夢中だ。樫美に有名な読者モデルがいるとかなんとか、楽しげな声が聞こえてくる。

 盛り上がる彼女たちを横目に、私は制作準備を開始した。その合間にクロッキー帳をめくり、進行度合いも確認する。

 樫フェスまであと四週間。おまけに明日あしたからは三連休……。

 やっぱり、どう考えても間に合わない。放課後も残って進めようかな。早起きは苦手だけど、朝も早く来て作業をしたほうがいいかもしれない。落ち込みながら、パレットに絵具えのぐを絞り出す。

 ほどなくして、講義開始のチャイムが鳴った。教授たちの靴音が近付いてくる──。


 お昼休みになると、私は毎日のように三号棟裏手に広がる竹林へと向かう。

 ──言うまでもなく、私は「ぼっち」なのだった。

 なにしろ一緒にお昼を過ごす友達がいない。立体造形科の女子に声をかける勇気も無いし、名前を貸したきり一度も出ていないサークルには、今さら行ける気がしない。それ以外で、どうやって友達なるものを作ればいいのか分からなかった。転勤族の娘なのに情けない、とは思う。

 だけど寂しいのには慣れている。悪目立ちしてハブられるぐらいなら、一人でいるほうがまだましだ。

 枯れ始めた下草を踏みしめて、ぽつんと置かれたベンチを目指す。

 木とアクリルの組み合わせがれいなベンチは、学生が作ったものだろうか。一人で座るには広いけど、二人で腰掛けるにはちょっと狭い。その微妙なサイズが、今の私には丁度良かった。

 静かに腰を下ろし、お弁当箱からおにぎりを取り出す。

 そう、私は寂しいのに慣れている。……寂しくなんか、ない。

 しなやかに伸びる緑の隙間からは、ただ青の色だけが見えていた。


 六限を終えてから、私は大工芸室に戻ってきていた。一般教養や選択実技で疲れ切っていたけれど、それでも作業を進めたほうが良いと思ったからだ。

 室内に同級生の姿は無い。

 白々とした蛍光灯の下、静かに制作を進めていたら、指先にねっとりした感触があった。慌てて紙を見てみれば、赤色の上に指紋が残ってしまっている。どうやらアクリル絵具が乾いていなかったらしい。

「またやっちゃった……」

 ためいきと一緒に、やる気がぶわっと流れ出る。

 どうも私は、この画材と相性が悪いようだ。次からはドライヤーを持って来て、その場ですぐに乾かしちゃおうかな。もしくは色を塗る方法自体を変えるとか? とにかく失敗しちゃったものはしょうがないし、やれるところまではやって帰ろう。

 ……、……。

 紙を切り出すナイフの音と、カチコチ刻まれる時計の音とが、変なリズムで重なり合う。外はもう、真っ暗だ。早く帰らないと、私のアパート周辺はちょっと怖い。

 と、前触れもなく扉が開く。ハッとして顔を上げれば、

「なんだよ、まだ学生ひとがいるじゃん」──そんな言葉と共に、茶髪の男性が室内をのぞき込んできたから、心臓がドキンと跳ねてしまった。立体造形科ではなさそうだけど、どちら様だろう……。

「けっこう面倒じゃね? どうしよっかー」

 いつの間にか、廊下に数人が来ていたらしい。ここまで話し声が聞こえていた。

「使えないかもよ。やめとく?」「けど、今さら変えらんないし」「時間もないよ」「ずらせば?」「本気で言ってるんですか!?」「冗談だろ」「でも」……いったい何の話? 基本的に臆病チキンな私は、おどおどびくびく様子をうかがうしかない。

 身を縮こまらせて待つこと、数分。彼らが去って行ったのは、閉館時刻を知らせる放送と同時だった。



 連休明けの火曜日、丘のてっぺんを目指して汗まみれで駆け上がる。時折吹き付けてくる潮風が、身体をぐいぐいと押し上げてくれるようだ。

 いつもよりもだいぶ早い時間であるせいか、学生の背中は一つも見えない。

 はやる気持ちを抑えきれず、私は二号棟へ急いだ。速度を落とさないままに大工芸室へ入ろうとして──、でもやっぱり足を止める。ガラスでの身だしなみチェックは欠かせない。いじめの種はどこに落ちているかわからないし、油断なんかできないのだ。

 よし、今日も大丈夫。つなぎも汚れてない。

 一つ大きく息を吐き、私は静かに扉を開ける。思った通り、まだ誰も来ていない。

 でも何かおかしい。室内に妙な違和感があるのだ。椅子にかばんを下ろして、辺りをじっと観察する。

 ──連休前と比べて、作業台の位置がずれているのかな。

 私だけじゃない。他のみんなの作業台もまた、連休前とは場所が異なっていた。

 床にも、人差し指ぐらいの長さをした青色や黒色が見える。どうやらビニールテープが貼りつけられているようだ。だけど……どうして?

 嫌な予感をごまかすように、鞄からドライヤーを取り出した。これは、絵具を早く乾かすために持って来た。もう連休前の失敗を繰り返したくはない。

 とにかく制作を始めて、余計なことを考えないようにしてしまおう。

 作業台の横でしゃがみ、延長コードをたぐり寄せようとして、

「ひゃっ!?」

 びっくりして、思わずしりもちをついてしまう。台の下に、「赤」がべっとりと付着していたのだ。まさか……血、じゃ、ないよね?

 ぬらぬらした赤色は、若干の粘り気があるようだ。それに、血にしては色が鮮やかすぎる気もした。誰かの塗料が飛んできたのだろうか? ドキドキする胸を抑え、それをティッシュでき取っておく。私が汚したと思われるのは嫌だ。

 それから、やっと作業に入ることができた。

 今日はマーブリング技法で紙に色を乗せていく。

 バットに溶液と定着液を入れ、何色かのアクリル絵具を垂らす。水面に広がる絵具に、百均のくしでゆらぎを出したら、紙で模様を写し取る。すかさずドライヤーのスイッチを入れ、慎重かつ大胆に乾かしてしまう。一枚乾かしたら、すぐ次に移る。たまに溶液を新しくして、色を写して……繰り返すこと十数回。

 だいぶ楽しくなってきたところで、おもむろに扉が開かれた。せっかく一人で集中できていたのに、とうとう誰かが登校して来たらしい。

 顔を上げないまま、横目で「誰か」を確認する。

 常にけんしわを寄せていて、こまいぬっぽい雰囲気の男子──たちばなくんだ。たしか名前は、しんいちろう。体格も大きくて日焼けした彼には、会話どころか近寄るのでさえ恐ろしい。

 その橘くんと二人きりだなんて、今日はとことん間が悪い。

 ここは「集中するあまり、彼の存在に気が付かなかった」ことにしておこうか。決意した私は、無言でドライヤーのスイッチを入れた……のだが。

「おまえ、ずいぶんはえぇんだな」

 うなりにも通じる低い声。……もしかしなくても、話し掛けられているということでしょうか。こうなると、先ほど考えた「気付きませんでした」作戦が使えない。

「長原は作業してたのか?」

 橘くんに名前を把握されているとは思ってもみなかった。音速でドライヤーのスイッチを切る。とりあえず何か言葉を返さなきゃと焦るあまり、

「た、たてぃばなくんこしょ」

 思い切りんだ。……恥ずかしい。

「……橘くんこそ、作業が進んでるようなのに、ええとなんていうか……すごいね!」

「オレが?」

 そうですそうです! がくがくとうなずく私を、しかし橘くんは見てもいない。

「進めるのが早いだけで、出来には納得してねえよ。もっと綺麗に作りてえんだ」

 淡々と言った橘くんは、私の前を横切って、自分の制作場所へと移動した。

 床に固定したパネルの上に、堂々とそびえ立つのは、通称「せん塔」。DNA螺旋をイメージしたらしい。中央に立てたしん棒の周りを、透明の螺旋が取り巻く大作だ。

 染めたアクリル板を切ってつなげて組み上げられた螺旋塔は、もう少しで二メートルに届くのだという。橘くんの雰囲気とは真逆のはかない美しさに、担当教授も感嘆の息を漏らしていた。

「……なんだ?」

 ふと聞こえた声に、私も思わず顔を上げた。

 作品の前で、橘くんが動きを止めている。彼が見つめているのは、もちろん螺旋塔だ。ほこりけの布をかぶせられているそれは──直線でなければならないのに、なぜか今は、いびつな台形に膨らんでいた。

「まさか」

 鋭く息をのみ、橘くんが布を取り払う。

 下から現れたのは、まるで六時五分を指す時計の針のようにして、途中でぐにゃりと首を曲げる螺旋塔だった。


 一気に、空気が冷えていく。

「な、なんでっ!? どうしてそんな……!」

「…………」

 答える代わりに、橘くんののどが上下した。

 ぼうぜんとした様子で螺旋塔に顔を寄せ、折れ曲がった部分に手を添える。

「オレの作り方が悪かったってのか? それとも……」

 その直後、

「あ、橘じゃん」

 大工芸室の扉が開け放たれ、どやどやと級友たちがなだれこんでくる。

「はよーっす」「おはよー」「あれぇ、長原さんいる」「橘、おまえ今日は早……、んんっ?」──一人の視線が、螺旋塔に留まる。

「おいおい……なんだそれ!!」

 それをきっかけに、みんなが異変に気付いたようだ。橘くんを取り囲み、一斉に声を上げる。「なんで曲がってんの!?」「どうしたんだよ!」「もったいなーい!」……。

「知るか。来たらこうなってたんだよ」

 素っ気ない口調だけど、橘くんのこぶしは小さく震えていた。

「あ、あのね」

 私は思い切って口を開いた。

「私もさっき気が付いたんだけど……、他にも変なことが色々あったの」

 連休の間に、何かあったのかな? 誰か、何か知らないかな?

 そんなふうに問いかけることは、出来なかった。


「もしかして、長原さんがやったんじゃないの?」


 ……え?

 誰かの言葉をきっかけに、みんなの視線が私に集中する。

 いや、違う。彼らが見ているのは、私の持つドライヤーだ!

「長原さんが?」「え、マジで」「やめなよ」「でも、あれならアクリル板も」「あー、たしかにね」──内緒話というにはあまりにも大きな声でささやかれ、私は慌ててドライヤーを背後に隠した。

 だけどそれは、私という人物をますます怪しく見せたのだろう。本気とも冗談ともつかない言葉は、いつしか、そこにいるみんなの総意となってしまっていた。

「本当に長原さんが……?」

 どうしよう──否定しなければならないのに、喉にぞうきんが詰められたみたいに声が出ない。胸が苦しい。息が浅い。涙が出そうになるのを、必死になってこらえた。

「ち、違うよ! 私はそんな……、こと……」

 どうにか絞り出した言葉も、口先ですぐにはじけてしまう。

 わずかに首を振り、半歩後ずさったところで、お尻が作業台にぶつかった。乾きかけの紙が、床に滑り落ちていく。みんなの目が、痛い。怖い。

 私の身体は、意思に反して震えはじめた。指から離れたドライヤーが、床に激突して派手な音を立てる。

「長原……」

 橘くんが小さくうめいた。

 意識の外側で、チャイムが高らかに鳴り響く……。

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