樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件

柳瀬みちる/KADOKAWA文芸

樫乃木美大の奇妙な住人 長原あざみ、最初の事件1



  プロローグ



 ──向こうの空では、巨大な海鳥がくるくると旋回している。

 海まで、歩いて十二分。

 小高い丘のてっぺんにあるのが、私の通うかし美術大学──通称『かし』である。

 今年で創立六十年少々。大きな自然公園が隣接しているせいか構内にも緑が多く、のんびりした雰囲気が特徴だ。学生の数もそれほど多くはない。

 夏休み明けにして連休を控えた今の時期、構内には伸びきったうどんのような空気が漂っていた。何もかも、だらだらゆるゆると溶けてしまいそうだ。

「課題やった?」「やべぇ、USB忘れた!」「近代美術史のレジュメ、コピーさせてよ」「おまえ昼飯買ってきた?」「駅の裏に新しいカフェが出来たって」……恐らくは文系や理系の大学生と同じような会話を交わしながら、大勢の学生が並木道を行く。

 黒いキャンバスバッグの学生は絵画科所属だろうし、カートの学生は立体造形科の先輩方なのだろう。華やかなオーラをまとう女子の一団は、イラスト科に違いない。

 ヘッドホンに眼鏡の男子は、メディアグラフィックス科かな? 彼らの重たそうなかばんには、たぶんノートパソコンが入っているはずだ。

 会話の中で「サンスケ」なる単語を連発しているグループは、スペースデザイン科じゃないかと思う。サンスケというのは、建物の図面を書く時に使う定規「三角スケール」の略称なのだ。

 ……そんなこんとんの真っただ中を、私は静かに歩いていく。目立たないように。海底を滑る深海魚よりも気配を殺して。

 右手に見えるのは、日射しを受けてキラキラと光る緑の海──グラウンド。中央で演劇系サークルが発声練習をしていて、その周りをスポーツ系サークルが楽しそうに走っている。そんな彼らのことが、なぜだかまぶしく見えてしまって、私はためいきと共にリュックを背負い直した。

 目線を前に戻せば、高さも外観もばらばらの校舎たちが、木々の上から顔をのぞかせている。どこか気の抜けた雰囲気は、床に転がる積み木に似ていた。棟の上部には「1」「2」と番号が表示されているんだけど、マロニエの木が邪魔をするので、地上からはよく見えない。

 私が目指すのは、グラウンドの真横に位置する二号棟だ。ヒビとつたで飾られた壁が、どことなく廃校探検系B級ホラー映画っぽい空気をかもしだす。

 構内でもっとも巨大なその建物を前にして、私の胸の真ん中が、今日も今日とてふわふわそわそわ騒ぎ始めた。

 昭和初期が舞台の映画撮影に使われそうなぐらい古くさ……歴史の感じられる玄関を抜け、中に入る。掲示板を横目に廊下を曲がれば、目的の場所に到着だ。

 扉の前で立ち止まり、め込みガラスに映る自分をにらみ付ける。

 肩まである髪は真っ黒。メイクは(うまくできないし)最低限。美人じゃないことは知っているけど、他人を不愉快にさせないよう、身だしなみには気を付けている。アパートから着てきただって、汚れたり異臭を放ってもいない。

 よし。

 今日もまた、私──「ながはらあざみ」は変な意味で目立たずに過ごせるはずだ。

 派手とかにぎやかとかじゃなくていい。ただ、穏やかな日々を送りたい。そんなささやかな願いを、ポケットの中のスマホにささげる。

「カミサマ、……今日も頑張ります」

 小さな声で祈ってから、私は扉に手を掛けた。


 この時の私は知らなかったのだ。

 数日後、大学生活を一変させるような事件に巻き込まれる──なんて。

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