決断の時・2
朝の祈りが終わり、エリザはフィニエルを従えて母屋の食堂で食事をとっていた。
外は風が強い。時々、隙間に風が舞い込み、笛のような音を立てる。
しかし、母屋の暖炉には薪とともに熱量の高い薬草が燃されていて、ほんのりとよい香りが漂っている。
母屋の暖かさと食事の温さに、エリザはほっとしていた。
最高神官の結界があるおかげで、祈りの祠までの道は守られているが、凍えるような寒さだった。これからの行は、ますます辛い仕事になるだろう。
向こうのテーブルにいるリュシュと目が合った時、エリザは微笑んだ。
霊山に来た当初、エリザは仕え人たちを見分けることが出来なかった。それほど、彼らには特徴がなく、よく似ていたのだ。
しかし、一度見分けがついてしまうと、今度は見間違えるのが難しい。
リュシュはムテにしてはややふっくらとしている。甘いお菓子作りの名手である彼女は、サリサお気に入りの一人である。
そのことを、エリザはほんの最近になってから知った。
「先日のお菓子、美味しかったです」
そう心話で伝える。
リュシュも微笑み返した。
「次回はもっと美味しいものをご用意しますよ」
彼女のお菓子のおかげで、サリサとの時間はますます楽しいものになった。
甘いものが大好きだという最高神官の意外な一面に、エリザは驚き、呆れ、そして母性本能をくすぐられている。
リュシュの心話に再び答えようとして、エリザはフィニエルに軽く手を掴まれた。
「……もうおよしになったほうがいいでしょう……」
小声でフィニエルが呟いて、エリザは初めて気がついた。
この母屋を両断する不思議な気に……。
エリザとサリサの仲を快く思う者と、今までの慣習を守りきろうとする者の気が、ぶつかり合っている。
今までの伝統を守らなければ、ムテに将来はない。そのような強い気のほうが、やや優勢にすら感じて、エリザはビクッとした。
穏やかな空気は、食堂の半分だけで留まっていたのである。
誰も嫌がらせをしたりはしない。話し合いで決まったことに文句をつけたりもしない。
だが間違いなく、仕え人の幾人かが強い不快感を押し隠して日々を過ごしていることは明らかである。
特に、唱和の者は――彼女と気を合わすことは、ほとんど毎日できないでいるエリザなのだが――巫女姫に冷たい視線を向けてはばからない。
まるで、すべてを透かし見ようとでもするかのようだ。
「エリザ様、戻りましょう」
フィニエルも何か嫌な感じがしたのか、まだ飲みかけの湯をそのままに立ち上がった。
まるで冷たい視線を阻むかのように、彼女はさっとエリザの背後に回る。その仕草がいつもと違うと感じて、エリザは振り返った。
フィニエルは、厳しい顔をしていた。
巫女姫の部屋に戻ってきてすぐ、医師の者が面会を求めてきた。
彼が部屋に入ったとたん、フィニエルがあたりを確かめてすばやく扉を閉めた。少し、奇妙だった。
いつもの診察と違う。ところで、今日は診察の日だったかしら? と、エリザは暦を確かめた。
診察日ではない。
どうも医師が間違えたらしい。珍しく動揺している顔にも、エリザはおかしくなって微笑んでしまった。
「いったいどうしたのです?」
そう聞いたのは、エリザではなくフィニエルである。
エリザがかけようとしていた言葉と同じだったが、フィニエルの顔にはエリザと違って笑みはなかった。
「おそらく……読まれたかと思います。例のことが……」
医師の言葉に、フィニエルの眉がピクリと動いたのを、エリザは見逃さなかった。
「例のこと……って、何なのですの?」
医師とフィニエルが同時に恐ろしい顔をしてエリザを睨んだので、エリザは縮み上がってしまった。何か、悪い予感がする。
フィニエルがそっとエリザの手をとる。
「動揺なさらぬよう」
そう言われたら……ますます不安になる。
医師が慌てて口を挟んだ。フィニエルの物言いのきつさを案じたのであろう。
「私が説明しましょう」
巫女姫を降りることになる――
その言葉を、エリザはすぐに理解できなかった。
でも、確かにおかしかったのだ。
月の物が遅れていたし、最高神官との夜の逢瀬もしばらくなかった。日中に会うことも多くなっていたので、エリザはすっかり忘れていたのだが……。
「エリザ様は、おそらく故郷に帰ることになりましょう」
フィニエルがそう付け足した。
それでも、エリザはぴんと来なかった。
「エリザ様、何も心配なさることはありません」
痛いほどに強く握るフィニエルの手に、気が篭る。かすかに、暗示のようなものを感じる。
「あ……大丈夫。フィニエル……」
エリザは、不思議なくらいに落ち着いている自分に戸惑っていた。
とはいえ、医師という第三者がいるにも関わらず、フィニエルの名を呼んでしまったことを思えば、かなり動揺していたのだろう。それすらもエリザは気がつかなかったのだ。フィニエルの顔が、一瞬歪んだ。
先日、最高神官との別れの図を見せられて動揺し、寝込んでしまったエリザである。フィニエルが心配してくれていることは、痛いほどわかっている。
自分の身の上にこれから降りかかるだろうことを説明されても、エリザは落ち着いていられた。
むしろ、医者と結託してこのことを丸々一ケ月もとぼけていたという事実は、本当にフィニエルらしくない。
「私、巫女姫ですもの。その……覚悟はついていました」
といいつつ、エリザの手は震えたのかもしれない。
「エリザ様……」
フィニエルが、見せたこともないような不安げな顔をするので、エリザは微笑んでみせた。
「私、あの……本当に大丈夫。でも……少し一人にしてもらっていい?」
フィニエルは少し躊躇したが、医師に促されて部屋を出て行った。
扉がパタンとしまった時、エリザは軽くため息をついた。
巫女姫ではなくなる。
それって……。つまり……。
エリザは、引き出しの中から香り苔をだした。そして、部屋を暖めている小さなストーブの中に入れた。
安らかな香りが立つ……と、教えてくれたのはサリサだった。
霊山にはじめてきて、戸惑っていた日々が懐かしく思い出される。
初めての夜。そして、初めて会った苔の洞窟での出来事。マール・ヴェールの祠での会話。そして……。
「もう過去のことなんだわ」
そう呟いたけれど、実感はわかない。感覚が麻痺してしまったよう……。
エリザは次から次へと苔をくべていった。
香り苔はすべて燃してしまった。
巫女姫を降りるということで、エリザは先ほど聞いた説明を振り返ってみた。
可能性のひとつは、祈り所に篭ること。
祈り所の闇が体を休ませ、早く妊娠しやすい状況を作ると言われている。本当のところは、巫女姫になれるだけの女は多くはないので、一種の囲い込みの意味が強い。
だが、祈りの力に乏しいエリザが再び巫女に望まれる可能性があるだろうか? 霊山の誰もが、その可能性を否定するだろう。
巫女姫としての力が乏しいと判断された者は、子供をなせなかった時点で巫女姫解任となり、故郷に返されてしまうのだ。
このような帰郷は、あまり名誉なことではない。時には、村の期待を背負いすぎていたために、非難されてしまう場合もある。
とはいえ、エリザはすでに癒しの技術を習得している。霊山では、こういった場合、特例として子供をなさなかった者であっても『癒しの巫女』としての権利を与える事がある。実際、そういった例も過去にある。
おそらく、エリザもそうなるだろう。と、フィニエルは言った。
そうなったら、エリザは故郷で重宝される存在になるだろう。いや、たとえ癒しの巫女の地位を得なかったとしても、故郷では充分だろう。癒しの技を身に付けたことだけでも、霊山でがんばった甲斐がある。
「喜ばなくちゃ……」
エリザの出身地は本当に小さな村で、神官の力も弱く霊山の恩恵も届きにくい。病気で死ななくてもいいような子供の死を、怪我で助かるべく働き手の死を、エリザは何度となく見てきた。
もちろん他の少女たちと同様、巫女に憧れるような浮ついた気持ちもあったのは事実だが、エリザの夢は故郷の村に癒しの手を差し伸べることだった。
その夢が叶うのだ……と、エリザは何度も心の中で唱えた。
でも……それって……。
もう……会うこともないんだわ。
息苦しい。心臓が苦しい。でも。
これ以上、動揺して人に迷惑をかけたりなんかできない。
エリザは必死に自分に言い聞かせた。
「喜ばなくちゃ、いけないのよ」
初めての夜の時のような、マリの時のような、この間の妊娠騒動のような、愚かなことをしてはいけないのだ。
――失ってしまうものを嘆くよりも、これから得られる希望を見つめよう。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
エリザは、大きく深呼吸して、どうしても早くなる心臓の鼓動を落ち着かせようとした。
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