決断の時
決断の時・1
窓の外に冷たい風が吹く。
木の枝に辛うじて付いていた最後の葉が、エリザの目の前で引きちぎられた。
あ……と、思って見上げた瞬間。窓越しに、枝越しに、そしてわずかな谷間の空間越しに。
エリザは初めて最高神官の姿を見た。
最高神官の住む場所は、秘所の洞窟に繋げて立てられた小さな木製の小屋である。長いこと、エリザはそこに人の気配を感じることはなかった。
だが、最後の葉が舞い上がったその向こう、窓辺に立ってこちらを見ているその人に、たった今気がついたのだ。
目が合った――
エリザは、読みかけの本を開いたまま、しばらくじっと見つめ続けた。
これだけの距離があって、目が合ったと思うほうがおかしいのかもしれない。
しかし、向こうもこちらに気がついたとしか思えない。なぜなら包み込むような温かな視線を感じるから。
エリザは、そっと右手を上げてみた。そして、軽く……本当に軽くだが、振ってみた。
向こうの小さな人影の右手も、そっと持ち上がり、何度か振られている。その姿に、エリザは微笑んだ。
――きっと。
もう長い間、見守られてきたのに違いない。
そう思った。
だから、私はここにいることができたのだ……と。
窓辺に見えた人影は、突如、薄暗くなり灰色に染まった外の空気にかすんでしまった。冷たい風が厚い雪雲を呼んだのであろう。
しかし、エリザは微笑みのまま、しばらく窓辺の余韻を楽しんだ。そしてその後、再び読みかけの本に目を落としたのだった。
窓辺で巫女姫の姿に手を振ったサリサは、かすかに微笑を浮かべていた。が、内心は、厳しい問題に直面していて笑えなかった。
今朝の祈りの行で、ちょっとした事件が起きていたからである。いや、正確に言えばここしばらく、いつ事件が起きてもおかしくはなかった。
扉のかすかな音、静かな気の流れで仕え人が入ってきたのがわかる。
彼は、いつもと変わらぬ様子で最高神官に敬意を示しながら、状況説明をする。
「サリサ様、今のところ大きな混乱は起きていないようです。これも、日々の積み重ねが効を奏しているのだと思われますが……」
今後はどうなるかわからない――という言葉は、仕え人の口からは漏れない。
その報告は、サリサを少しだけほっとさせたが、同時に不安を呼び起こした。呟く言葉が愚痴っぽくなる。
「朝に唱和の者たちの祈りが、補助どころかお互いを邪魔しあうような響きになるなんて、初めてのことです」
仕え人は、その言葉を聞いて、ややうつむいた。
「唱和の者たちを呼びましょうか?」
「いいえ、それよりも昼の行の準備を……」
埋め合わせのほうがよほど大切だ。
陽が短くなり、力を得にくい季節。今日はよほど真面目に昼の行をこなさねばならないだろう。
そもそも、厳重注意して改まるようなことならば、霊山の者たちは初めからそのようなことにはならない。だからこそ、大問題なのだ。
今日だけのことであればいい。だが、明日は、そして明後日は?
状況は少しずつ悪化しつつある。
仕え人は深く敬意を示し、昼の行の準備のために部屋を出て行った。
――霊山に気の乱れが生じ始めている――
誰の責任でもないだろう。
今まで澄んだ水のように静かだった霊山が、ひとつの事件をきっかけに、まるで沸騰するかのごとく乱れ始めた。
見かけは何も変わっていない。だが、少しずつ、祈りに、行に、じりじりと現れる。
己を捨て、自らの意思を持たないはずの仕え人たちの意識が、大きく二つの流れに分断され、お互いを牽制しあっている。
巫女姫と最高神官の、度を越えた関係を許容できるのか、否か?
決定は多数決で決められよう。しかし、心は決められない。
一人になって、サリサは伸びをし、凝った首を回した。
ふっと窓にかすかに自分の姿が写っている。その姿に、サリサは思わず居住まいを正した。
冬の嵐が外を襲っている。
窓に映った姿は厳しくも冷たい。ふと、手を伸ばし、サリサは呟いた。
「マサ・メル様……」
鏡像のサリサ――いや、マサ・メルは、無表情に答えた。
『おまえはいったい何をしているのです?』
かすかに浮かぶ眉間の皺は、彼が生前唯一見せた感情の表れである。
『霊山においては、個々を認めるべきではありません。人であってはならないのです。人でなければ、何も乱れるものはありません』
サリサは唇を噛み締めた。同時に、マサ・メルも唇を噛む。
『すべては平等であれ。誰も愛さず、誰も嫌わず、誰も認めず、誰も排さず、誰の名前を呼びもせず……。それこそが、完璧な平等なのです』
「私は、あなたとは違います!」
『同じ使命をはたすためには、同じ道を選ぶべきです。最高神官は、個であってはならず。私はおまえの指標です』
「僕は僕だ! 同じになんてできない!」
サリサが言葉を振り切るように首を振ると、鏡の中の存在は諦めたように首を振る。
『愛は最も不公平な感情です』
「僕は! ……いえ、私は……」
誰よりもあの人を愛する。
それは、確かに平等とはいえないのかも知れない。
まるで子供が駄々をこねるように、サリサは両手で窓を叩き、こつんと額を押し付けた。額に伝わった感覚は硬く冷たかった。
最高神官の仕え人が、昼の行の聖装のために戻ってきたのは、まさにその時である。
彼が運んできた衣装は、白地にぎっしりと銀糸の刺繍が施された、まさに神々しい迷いなき最高神官の衣装であった。
人々がそこに見出すのは、一人の男ではなく、神のごとき存在なのである。
「いかがなされたのですか?」
そう聞かれて、サリサは慌てた。
「外の……様子を見ていただけです」
一瞬、最高神官であることを捨てて、自分に戻っていた。
まるで小さな子供のように、両手とおでこを窓に押し付けている姿は、外を見るには実に奇妙であっただろう。だが、それしか言い訳が浮かばない。
その言葉は疑おうとすれば疑えるのだが、仕え人はただうなずいただけだった。
彼の顔には、何の喜びも浮かばないが、同時に何の苦悩も浮かばない。ぺろりとした人形のような顔である。
「すべては、あなたのためだけに」
彼の表に浮かぶ意識はこれだけだ。見事なまでに。
彼はまさに、マサ・メルが望んだ仕え人そのものであろう。使命以外の何物にも興味を持たない。
サリサがどのような嘘をついても、彼は疑うことはないだろう。ただ、突き進むだけである。
サリサは軽くうなずいて着替えをはじめる。
触れあっても乱れることのない彼の気に、時にあきれ、時に感心してしまうのだ。
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