銀の子供・6


 目を閉じていれば……ほら、あの子に会える……。


「エリザ、目を覚ましてください」

 誰かの声がする。

 でも、目を覚ますわけにはいかない。

 目を覚ましたら、あの子は殺されてしまう。

 霊山の仕え人たち……生気のない亡霊たちに……奪われてしまう。

「お願いですから、目を覚ましてください」

 だめ。

 私、絶対に騙されない。

 この子は私だけのもの。

 目を覚ましたとたん、私の子供は殺されてしまう。

 私、命にかえてもこの子を守るんだから……。



 音ひとつ。

 衣擦れの音である。

 水晶台の上に眠るエリザに話しかけていたサリサが身を引いた時に立てた音だった。

「いかがですか?」

「まったく……反応がありません」

 最高神官の呼びかけにも答えないとは、かなりの深い眠りなのだろう。フィニエルはうつむいた。

「申し訳ありません。私が……」

「あなたのせいではありません。確かにきっかけはあなたの暗示だったとしても、エリザが目覚めないのは、エリザ自身の暗示のせいです」

「とはいえ、私が……」

「むしろ、私が悪いのです」

 サリサは微笑んだが、無理をした笑顔である。その証拠にフィニエルのほうを見ない。

「子供ができたことを怪しんではいたのです。あまりにも早すぎましたし……その、できたとしたら何時なのか、私はわかりますからね」

 フィニエルは眉をひそめた。

 今となっては、なぜ偶然やら奇跡をすぐに信じたのか不思議だった。


 ――巫女姫の暗示。


 他人の暗示になど引っかかるはずがない……と思っていたのに、見事に騙されていたとは。

 まだ未成熟なエリザの持つ力に、ぞっとする。

 感情が高ぶれば、彼女はその力を制御……どころか、自らも気がつかずに発散させてしまうのだ。

 おそらく、霊山の気がそうさせるのだろう。魔を増幅させ、彼女を振り回すのだ。

 霊山にいさえしなければ、エリザは普通の少女であっただろう。

 ごく平凡な、当たり前の……。


 サリサはそっとエリザの頬を撫でた。氷のように冷たい。

「私が一言、少し慎重に……とか、医師の判断に従って……とか、言えばよかったのです。でも、あまりにもエリザがうれしそうだったので、つい言葉を合わせてしまって」

 しかも、一緒に妄想に浸り、楽しい夢の中で過ごしてしまったのだ。

 生まれて初めて実感した幸せを手放したくはなくて、見るべきことに目をつぶってしまった。

 現実に封印してしまったという点では、最高神官も同罪、いや、知っていたという点で、もっと罪深いだろう。


「これからどうすればよいのでしょう?」

 お互いに悔やんでいても仕方がない。フィニエルは小さな声で尋ねた。

「一緒に夢を見たのです。夢の中に私が迎えにいきます」

 サリサはあまりにもあっけなく言った。

 が、フィニエルの顔はますますこわばった。


 この水晶台に異邦人を乗せて、それで、寿命を削った最高神官がいるではないか!


「安心してください。マサ・メル様のようなやり方はしません。ここは力が強すぎる。しかも、戻ってきにくいのです。だから、場所は……」


 ――あの香り苔の洞窟。


 しかし、仕え人の目を盗んでそこまでエリザを連れてはいけない。いや、彼らの協力すら必要なのだ。

 最高神官の祠では、十分に作用する力も、苔の洞窟ではどれだけ作用するか? 閉ざされている空間であることは、外よりはマシとして、補助がいる。

 他人の中に入り込む術は厳しく、霊山全体に暗示をかけるなど無駄な力を使う余力はない。しかも、最高神官本人が戻れなくなる可能性すらある。

 仕え人たちにすべてを打ち明けて協力してもらうしかないのだ。

 だが、最高神官を第一と考える仕え人たちが、それをよしとするわけがない。ましてや、力を貸すことなどありえない。


「あの場所は、私とエリザの思い出の場所です。だから、たとえ夢の中に惑うことがあっても、きっとあそこにならば戻ってくることができます」

「でも、サリサ様。あの場所を他の者に知らしめるということは……」

「もうエリザとはこっそり会うことができませんね」

 くすり、と笑うのは、子供時代からのサリサの癖である。しかし、今回は苦笑というものである。


 洞窟でならなければならない理由を問われたならば、今までの密会も公になってしまう。さらに言えば、サリサ・メルの不真面目ぶりも暴露することになる。

 だが、どうにか仕え人たちの協力を得て、すべてをやり遂げなければならない。

 エリザの生死がかかっているのだ。


 ……という理由で、フィニエルはこの仕え人たちの集会を召集したのである。



 案の定、非難の声が上がった。

「そ、そ、そんなはしたないことをお許しになっていたなんて! あなたとも思えません。巫女姫の!」

 という非難は予想通りである。

「とはいえ、エリザ様が巫女姫として大成するためには必要な行為でした。それに、昼間の行を巫女姫の指導に当てたところで、サリサ様の力はたいした浪費になってはおりません」

「しかし! 長い間、そのようなはしたないことは!」

「あ、あの……」

 声を挟んだのは医師である。

「時に過去からの慣習は有意義なこともございますが、そうでもない場合もございます。この場合、そうでもないことと思われますので、そう目くじらを立てることもないかと……」

「それはどうでしょうか?」

 次に発言したのは、唱和の者の一人である。

「確かに、最高神官の力を温存という意味では、たいしたことではないのかもしれません。ですが、巫女制度の維持という点では大きな意味がございます」

 唱和の者は、かつてマサ・メルの巫女姫だった者である。彼女はじっとフィニエルを見据えた。

「巫女姫の。あなたならばおわかりになりましょう。マサ・メル様はけして特例をお認めになりませんでした。どの巫女も愛さなかったし、嫌いもしなかった。ですから、我々も巫女姫時代に特別な感情に支配されることなく、次の巫女姫にすべてを託し、ムテのために力を合わせることができたのではありませんか?」

 別の者もその言葉に便乗する。

「マサ・メル様は公正な方でありました。サリサ・メル様も同じようにご自身の職務を正しく遂行されることを望みます」


 その通りである。だが……。 

 この意見が優勢を占めれば、エリザは死ぬかもしれない。


 とはいえマサ・メル至上主義であるフィニエルは、この考えを否定することはできない。

「マサ・メル様はマサ・メル様。サリサ・メル様はサリサ・メル様でございます」

 それがどうした……という視線がフィニエルに集中した。

「マサ様は、巫女姫の誰にも愛を捧げることはございませんでした。でも、サリサ様はすべての巫女姫に慈悲をお掛けになるということです」


 おそらく。

 それはないと思うけれども……。


 話合いは、霊山では行われたことがない。

 だいたい意見など持つはずもない世捨て人が、意見を交わすことなどあろうはずがないのだ。

 ひそひそ静かな雰囲気ではあったが、時間の長さが、霊山らしからぬ熱気ある論議であることを物語っている。

 慣れない口頭のやり取りであるうえ、詭弁・方便の限りを尽くし、誰もが疲れ果てて限界である。


「意見は出尽くしました。多数決で決めましょう」

 フィニエルの言葉に、唱和の者が口を挟んだ。

「巫女姫の。あなたはこの話し合いの提示者であります。あなたには棄権していただいてよろしいですね?」

 かすかに頬が引きつった。

 マサ・メルがいくら誰も愛さなかったとはいえ、十二回も巫女に選ばれたフィニエルに、唱和の者が不快を感じていないはずはない。過去を捨て去ったはずのくせに……と、フィニエルは思ったが、相手も似たようなことを考えているらしい。

 一瞬、目と目の間に飛び散る火花。……バリバリバリ……と、音を立てるわけにはいかない。

 世捨て人は世のしがらみに縛られないのである。

 まぁ、建前ではあるが。

「よろしいでしょう。私は棄権します」

 感情的なやり取りを嫌う仕え人たちだ。ここで突っぱねては、かえって不利になる。


 おそらく……かなり接戦になるだろう。


 多数決は、今座っている仕え人たちが立ち上がって、左右に分かれることで決することになった。

 フィニエルを除けば十三人。棄権するものは座ったまま、という決めである。

 皆、ぞろぞろと立ち上がる。

 フィニエルの意見に賛同する者は右……医師の者、薬草の仕え人。

 癒しの仕え人は立ち上がるのを何度か躊躇した後、右についた。

 この特例には許しがたいものがあったらしいが、さすがに教え子のエリザがかわいかったのだ。

 エリザの命を救うために、自分の意見を曲げたのだろう。感情に心動かされたのが堪えられないらしく、やや、顔がこわばったままである。

 しかし、エリザ付きの唱和の者のうちの二人が棄権してしまった。

 これは予定外である。おそらく、共に仕事をしているもう一人の意思を尊重したいからなのだろう。


 人脈とは縁のないはずの霊山にあって、やはり、こうなれば判断基準は人である。

 所詮、正論を振りかざしたら、勝ち目はないだろう。

 最高神官を犠牲にするかもしれない危険な賭けに、最高神官のためだけに存在する仕え人が賛成するわけがないのだから。


 エリザと交流のない者は、ほとんどが左に移動してしまった。

 ただ一人、食事係りの仕え人だけが右についた。

 彼女は、創作的な料理でやや白い目で見られがちの者であるが、サリサがひそかに応援してくれていることに感動していた。

 決まりごとよりも独自性……という意見に惹かれたらしい。

 あと一人ずつがそれぞれに付き、ついに五対五となった。あと、残りの一人といえば……。


 ――最高神官の仕え人。


 フィニエルは落胆した。

 彼とエリザの相性の悪さといえば、もうひどいものなのである。

 しかも、彼は霊山で最も仕え人らしい仕え人なのだ。特例を認めるはずがない。

 彼は、すくっと立ち上がった。棄権するつもりではないらしい。

 もったいをつけているわけではないだろうが、彼は椅子を整えた。すらりとした姿は、いかにも霊山の仕え人の見本である。

「私は最高神官の仕え人です。すでに自己の意思など捨て去った身。このような多数決など無意味です」

 彼はさっと身を翻すと、迷うことなく右に付いた。

 誰もが不思議そうな顔をしたが、彼は平然と言った。

「サリサ・メル様が望まれることでしたら、異論を挟む余地はございません」


 こうして霊山は、巫女制度始まって以来の特例を認めたのである。

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