愛しあうこと・2


 山の冬は駆け足でやってくる。

 長く冷たい氷の季節に備えて、数多くの薬草が保存用として手を加えられていた。その仕事にエリザも手を貸していた。

 エリザが巫女姫となってから、すでに半年以上が過ぎ去っていた。

 祈りの力は弱いものの、癒しの力は並以上であり、もはや、巫女としての素養をとやかく言う者はいなくなった。

 薬草の調合や精製に関しては、フィニエルがうなるほどの実力を発揮していた。

 正直言って、エリザ自身、ここまでやれるとは思っていなかった。

 何度も泣いて逃げ帰りたくなったが、最高神官の顔を思い出し、自分を奮い立たせてきた。

「もうお教えすることは、私にはありません。あとはご自分で精進されるだけです。いつ郷に戻られても、立派に【癒しの巫女】としてやっていけることでしょう」

 癒しの技を指導してくれた仕え人も、ついに卒業を言い渡した。これは、歴代の巫女としても異例に早い習得であった。

 教室から食堂に戻る途中もうれしくて、フィニエルのしかめっ面の前でニコニコしてしまう。この空想で笑ってしまう癖だけは、すこし大人になっても抜けない。

 郷では、癒しの技を持っている者はいない。

 隣村にもいない。きっと誰もが喜んでエリザの帰りを待つだろう……。


 ――帰り……。


 ちくりと、突然お腹が痛くなった。

 何かが頭をよぎったが、腹痛が思考を分断する。

 食堂のわずか手前で、エリザはお腹を抱えてしゃがみこんでしまった。

 慌ててフィニエルがささえる。

「大丈夫です。ちょっと差し込んだだけで……。もう治りましたから」

 ほんの一瞬だけのことだった。

 具合が悪くなっては困る。今日は、最高神官と会える日なのだから。

 エリザはすぐに収まった腹痛にほっとして、冷や汗を拭いた。



 二日連続で会えるのは『祈りの儀式』の事件以来だった。

 香り苔ももう終わり、採る物もない洞窟にはなっていたが、エリザを監視する仕え人たちの目も和らぎ、短い時間ならば時々会える。

 エリザとサリサの目が合っただけでは、もう誰も文句を言わないし、霊山の建物内ですれ違うときに――今まではそれすらもなかったのだ――挨拶することも、皆、見て見ぬふりになった。

 エリザが巫女姫としての使命を果たすこと。仕え人たちの願いはそれだけだった。

 巫女姫として何となく様になってきたエリザに、彼らはそれなりの敬意を示すようになってきて、信頼もされるようになっていたのだ。


 昨夜の余韻もあってか、二人は姿を見つけると走りより、抱きあった。

「お休みにはなっていらっしゃらなかったのですか?」

「とても……時間がもったいなくて」

 そういうと、サリサはエリザの唇を求める。

 昨夜のように、頭の芯がくらりとするような濃厚な口づけ。

 もう、溶けてしまいそう……幸せというのは、このようなことをいうのだわ――エリザはうっとりと目をつぶった。

 心も体も触れ合うこと。それを感じること。

「あなたを抱きたい」

 エリザは、耳元で囁かれて目を見開いた。

「え? でも……」

 ムテの常識では、日のあるうちに抱き合うことはない。

 日中は体が活性化し過ぎていて、受胎されないとされているからだ。夜の旋律、闇の中でこそ生命は誕生する……そう信じられている。血を残すための関係である二人であっても、日中会う必要はないとされるのは、そのせいだった。

 それに、昨日の今日である。性的な欲求に乏しいとされるムテ人には、まれな性急さであろう。

 サリサは少し照れたように微笑んだ。

「血を残すためじゃなくて……ただ、確かめたかっただけです」

「何を? ですの」

「あなたも私も……幸せだということ」


 不思議な気がした。

 最高神官サリサ・メルは、今まで幸せではなかったのではないか? エリザの頭に、ふっとそんな考えがよぎった。

 この地位につくかなり前から、彼は霊山にいたり、学び舎にいたりしていたはず。偉大な祖父と仕え人たちに囲まれてムテの知恵を注ぎ込まれていたはず。それは幸せではなかったのだろうか?

 一瞬、エリザの脳裏にマール・ヴェールの祠で、遠くを見つめている小さな少年の姿が浮かんだ。

『逃げていたのです』

 いつのことだっただろうか? 確かに彼はそう言った。

 少年は何から逃げていたのだろう?

 心打ち明ける相手は誰もいず、一人ぼっちで泣いているような……。


 ――妄想だわ……。


 少年を抱きしめたくなって、エリザは慌てて打ち消した。

 最高神官である人が、幸せに餓えている小さな子供であってはいけない。そう考えるなんて、おかしすぎる。

 最高神官は、ムテの珠玉・すべてである。エリザごとき小娘が慰めるような存在ではないのだ。

 マリの一件以来、エリザはどうも母性をくすぐられやすい状態にある。それと、常にひねくれた目で、サリサ・メルを子供と判断するフィニエルの影響もあるのかもしれない。

 それでつい、何かにつけて、最高神官という立派な立場にあるサリサを子供のように感じてしまうのだ。

 でも……。

 エリザは、少しだけ妄想に身を置くことにした。


 ――この人を幸せにしてあげたい……。


「私も……確かめたいです」

 とたんに体がふわりと浮いて、あたりの風景がくるりと回った。

 サリサがいきなり抱き上げたからだった。

「思ったよりも軽いのですね」

 そう言われて、エリザは赤面した。

 霊山に来てから、確かに痩せてしまったけれど、背は少し伸びている。それほど軽いはずがない。

 しかし、ひょろりとしていて力なさそうに見える最高神官は、何の苦もなくエリザを抱き上げて歩いていく。エリザは、昨夜の見た感じよりも厚かった胸や、自分にのしかかった重さを思い出して、体が熱くなった。

 すでに、胸の鼓動が激しい。

 ふっと息をついたとたん、今度はすっと体が低くなった。

 初めて会ったとき、二人で苔を広げた岩の上に、エリザは横たえられていた。

 あの日のように、水晶でできた自然の天窓から、柔らかな光がこぼれている。角度を変えてみると、また不思議と見たこともないような風景に見える。

 その光をさえぎって、最高神官の顔が見えた。彼は、エリザの上になりながらも、半身になって腕で自分の体を支えていた。

「……きれいですね」

 優しい手が、エリザの髪を撫でた。

 確かに、柔らかな光を浴びたエリザは、まばゆいばかりに美しいかもしれない。銀の髪はきらりと光をまとい、肌は透けて輝いているだろう。

 見つめられて恥ずかしくなり、頬を紅潮させて視線を外した。

 だって……。

 きれいというのは、最高神官のことをいうのだ。

 サリサは、柔らかな日差しを逆光に受け、微笑んでいる。銀糸の髪が光を通して……いや、全身で光を透過させているようにすら見える。

 木綿の普段着を着ているエリザに比べて、昼の行用の礼装のサリサは、ずっと神々しくて美しい存在だった。

 彼は指先でそっとエリザの首筋をなぞった。

 顔を背けているせいですっきりと表に出ている。自分でもきれいだと思うこのあたりを、彼もおそらく好きなのだろう。指先はそのまま、胸に達した。

 上衣の肩が半分だけ落とされ、下衣の胸元の飾り紐が解かれる。

 ほんの少しの間……時間がとまった。

 エリザは気になってそっと視線を戻した。

 最高神官の瞳は、はだけた胸のただ一点に注がれていた。

 光を浴びて輝く白い肌の上に、ほんのりと赤い痕。

 サリサは、その痕をまるでいとおしむかのようにじっと見て、ふっと独り言のようにつぶやいた。

「私のもの……」

 自分がつけたもの、という意味だろうか? それとも? 答えを見つける間がなかった。

 ふわりとのしかかる銀の陰。その向こうに見える眩しい光。

 煌く水晶の窓から、光が雨のように降り注ぐ。エリザは、うっとりとその美しさに見入っていた。

 そして……ゆっくりとサリサの背に両手を添えた。


 昨夜よりももっと早く、体は受け入れようとしていたと思う。

 たくしあげられた下衣から、太ももあたりまで露になっているのを感じる。そこを滑ってゆく指を感じて、エリザは体の芯が熱くなった。

 しかし、突然すべてが止まってしまった。

 指はエリザの肌から離れると、あっという間に下衣に触れて、露になっていたものを押し隠した。体に掛かっていたものが、すべて離れていった。

 サリサが急に起き上がる。エリザは何が起きたのか戸惑うばかりだった。


「お時間です」


 冷静な、聞き覚えのある声。

 エリザは慌てて飛び起きた。別な意味で、体が沸騰するくらいの熱さを感じた。

 洞窟の向こうに立っているフィニエルの淡々とした姿を見て、さらに顔が爆発しそうなくらいに赤くなった。

 フィニエルは歩み寄ると、起き上がったエリザに一瞥を投げた。

「はしたない」

 たった一言。

 気が付くと、上衣の肩は半分落ちているし、中の下衣は胸元が開き、はだけている。エリザは慌てて衣服を整えた。

「人が悪すぎはしませんか? まだ、一時は時間があるでしょう?」

 やや不機嫌そうなサリサの声。

 エリザは、もう恥ずかしさのあまりに、何も口が利けない状態に陥っている。だまってうつむいて二人のやりとりを聞くしかなかった。

「エリザ様は、今朝すこしばかり体調がすぐれませんでした。あまり無理はさせたくはありませんゆえ……」

 ちらりと最高神官の視線を感じた。

 しかし、目を合わせてしまうと、読めれてしまいそうな気がして、エリザは顔を上げることができなかった。

 余計な心配をかけてしまう。確かに朝、お腹が痛くはなったけれど、たいしたことではないのに。

「それは……気が付きませんでした。申し訳ないことを……」

 最高神官は常にフィニエルを特別視していたが、ここで初めて二人の会話を聞いていて、確かにその通りに感じた。仕え人といえど、フィニエルは最高神官に対して物怖じしない。

 いや、最高神官といえど、神官制度・巫女制度の下に従う存在であり、頂点であるからこそ、乱してはいけない存在でもあるのだ。純血種ムテの人々のために。

 サリサが労わるようにエリザの手を取った。フィニエルが、さっとその手を奪い取る。

「今後は、気をつけるようにいたします」

「今後はございません」

 無表情なままの、冷たい言葉。

 エリザは、はっとしてサリサの顔を見た。

 反論するかと思ったのに、彼は何か苦い物でも飲み込んだような、厳しい顔をして黙りこんでいた。

 フィニエルの暗黙の了解あっての、二人だけの時間なのに。


 ――どうして、何も言わないの?

 このまま会えなくなってしまうかもしれないのに!


 エリザは、口を開こうとした。

 しかし、いつもの悪い癖が出てしまい、ただぱくぱくするだけで、音がともなわない。

 涙がじわりと湧いてきた。

 それに気がついたのか、やや身をかがめてサリサが耳元で呟いた。

「大丈夫です。また、お会いしましょう」

 それを止めさせるかのように、フィニエルが急にエリザを引き寄せ、自分の後ろに回してしまった。

「お目汚しを……サリサ・メル様」

 フィニエルは、そう言って胸に手を当て、軽く会釈し、最高神官に敬意を示した。

 サリサも表情を無くしたまま、その挨拶に儀礼的に答える。

 エリザは、フィニエルに腕を引かれながら、その場を後にすることとなった。

 足をもつれさせながら、何度も何度も振り返った。

 最高神官はずっとそこに留まって、ぴくりとも動かず、エリザを見送っていた。

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