愛しあうこと

愛しあうこと・1


 ぷつり……と、小さな音が響いた。

 鏡に写っているフィニエルの顔がうつむいたまま、少し歪んだ。

「これは珍しいこと……。エリザ様、すこしそのままでお待ちくださいませ」

 朝の祈り用の着替えの途中だった。

 巫女姫の肌衣を留める飾り紐が、こともあろうに切れてしまったのだ。

 フィニエルの顔が曇ったのは、再び替わりの紐を取りに衣裳部屋まで行かなければならないからではなく、よからぬことが起きそうな不安からかもしれなかった。

 しかし、彼女はそのようなことは口にも出さず、軽く一礼し、肌衣の胸元をはだけぬようエリザに持たせたまま、退室した。

 鏡の前に、エリザ一人が残された。


 まだ暗く、朝は来ない。

 蝋燭の光と、自らが放つ結界の光だけが、かすかにあたりを照らしている。

 エリザは、鏡に写る自分の姿を見つめていた。

 丸い大きな目をしている。あどけなく見えるのは、そのせいだろう。

 口元も、ムテ人にしては小さくてふっくらしている。そう感じるのは、霊山にいる仕え人たちが、皆そろって切り込みをいれたような、薄い唇をしているせいだろうか?

 この霊山にいる誰よりも若く、そして幼く見えるのが、巫女姫エリザだった。

 しかし、白く透き通る肌はムテらしい。

 顔から首筋、そして胸に掛かる線。やや撫で肩で艶っぽく見える。

 自分でも、時々どきっとするほどだ。

 エリザは、胸元を押さえている手をそっと広げてみた。透ける薄い肌衣の下から、形良い胸が覗いて見えた。

 やや小さめの乳房。だが、霊山にきた時ばかりの時よりも、胴回りがほっそりとしたせいで、強調されて見える。

 軽く触れてみるとふっくらと柔らかく、かつての硬さはない。

 体は変化している。

 抱かれるたびに、ゆっくりと大人の体に変わってゆく。

 真っ白い胸の上に、やや赤みを帯びた痣が残っているのを見つけ、エリザは思わず赤面した。

 それは昨夜、最高神官がつけた痕だった。



 いつもと同じように、その夜は始まった。

 勉強……である。

 さすがに百年以上学んでいるとあって、最高神官サリサ・メルの知識量はただごとではない。必死に巫女としての知識を吸収しようとしているエリザにとっては、最高の教師を得たようなものだ。サリサはエリザが質問をすると、嫌がることもなく親切丁寧に答えてくれる。

 もちろん、子を得るための行為は必ずなさねばいけないことではあったが、どうも勉強や雑談のほうが時間をかけてしまうことになる。

 初めての時があれだけ強引だったのが信じられないほど、最高神官は無理強いすることはなかった。時に抱き合うことを忘れてしまうほどで、慌てることもあったほどだ。

 正直、エリザは体を許すことが苦手だった。

 拒絶することはなかったが、薬湯の効果も優しい愛撫もさほどの効果がなく、一瞬を我慢するのが常だった。

 それに、勉強もなかなか難しくなっていたので、勉強を見てもらえることは大助かりだった。エリザにとっては貴重な補習時間となりつつあった。

 とはいえ……。

 最高神官にとって、巫女姫を抱くのは使命である。これでいいのだろうか? などと、疑問に思ったこともあった。

 しかし、サリサのほうはまったく気にもしていないようで、いつも朗らかなものだから、ついつい甘えてしまっている。

 甘えながらも……何か、少し優しさが憎らしい。


 昨夜も、新しく学んでいる癒しの技法や薬草の精製の話などをして、時間が過ぎていった。

「どうしても魔力が伝わらないと感じたら、手を患部にかざすといいです。それでもだめなら、軽く触れて念じるといいです。ほら、試してみて……」

 すっと出された手に手を重ねてみる。エリザは手に気持ちを集中させた。

 しかし……。

 その時、エリザは今までに感じたことのないような、不思議な欲求をおぼえていた。

 それは、抱かれたい……という気持ちだった。

 戸惑って集中力が途切れた。

 真っ赤になっていることが、この蝋燭の光の中でもわかってしまうだろうか? 慌てて手を離そうとしたが、サリサが逆に握り返してきた。

 最高神官であるサリサと触れ合っていたのだ。気が伝わらないほうがおかしい。

 彼は一瞬驚きの表情を浮かべていたが、そのままエリザの手を手繰り寄せて口づけした。

 エリザが求めていたものよりも、遠慮がちなものだったと思う。

 唇が離れそうになった時、エリザは再びサリサのほうに身を寄せた。

 そのまま、やや開かれたローブの胸元にそっと手を置くと、彼の肌が直に触れる。サリサがややとまどっているように感じられて、エリザはなんだか恥かしくなってきた。


 ――こんなことを……私が望むだなんて……。


 それは最高神官に寄り添って考えることではなかった。エリザ本人は、そのようなつもりはなかったのだが、実は厳しい一言が心話として響く。

「あなたは私が欲しくはないの?」

 と、堂々と責めているような行為である。

 エリザは、表情を見られないように、そのまま胸に顔をうずめて、滑らかな肌に頬をすりよせ、そっと唇をあててみた。が、それは一瞬のことだった。

 あっという間に体が返され、床に押し付けられると、無数の口づけを浴びせられた。

 開かれたローブから覗く肩、首筋には特に熱い吐息が降りかかった。エリザはそっと目をつぶる。胸元に顔をうずめるのは、今度は相手のほうだった。


 愛しあうこと。

 抱かれること。


 心地よく感じたことは、正直いってなかった。

 抱かれないと寂しいと感じたが、抱かれている間は痛かったり、苦しかったり、必死に我慢して耐えるだけだった。しかも、そう感じていると思われないよう、読まれないよう、心を固くして。

 今までそう感じていたことがまったく嘘のよう――すべてが身に心に快い。苦痛すらも心地よい。

 触れ合い、抱かれて満たされてゆく自分がいる。

 心ばかりが先走っていた行為に、やっと体がついてきたのだ。

 あまりに自然にすべてを受け入れることに、エリザ自身、驚き戸惑うほどだった。

 涙がこぼれた。


 ――身も心もすべてを許して、この人を愛してる。


 激しく心臓が揺さぶられる。

 息が苦しい。でも、もっと強く、激しく愛されたい。

 耐え切れず、吐息とともに声が漏れた。

 拒絶の声にも聞こえただろうが、相手は肯定として受け止めたらしい。ためらいがちの優しい愛撫が、箍が外れたように容赦がなくなった。

 真っ暗な空を漂うように、頭の中が空っぽになってゆく。

 自分の声とも思えない声が唇の端に上ると、そこをかすかに熱く振るわせる。微熱を持った唇に唇が覆いかぶさるように絡みつき、さらに何度も何度も繰り返し……。

 高みに一気に二人で登りつめてゆくように――

 まるで雷に打たれたように、エリザの体はぴくりと硬直した。

 かすんだ瞳に、銀糸の髪がサラサラと舞うのが見えた。

 回りが真っ白な世界にかわり、かすかに意識が遠のいた。

 

 かすかにだるい。

 心地よいだるさ。


 白い世界はいつもの八角の天井に変わっていた。

 闇の世界だったはず。白くなんかないはずだった。

 蝋燭の火は消えている。かなりの時間が経ったのだろうか? それこそ一瞬だったような気もする。

 いつもと同じ行為だったはずなにに、なにかがまったく違っていた。

 エリザは、ふっと自分の身に起きているすべての事を見ようとした。

 顔に胸に、銀糸の髪が乱れるがままにふりそそがれていた。軽くなった心と、髪の持ち主の重さを感じている体がある。エリザは、無意識のうちに自分の胸に頭をうずめている人の髪を撫でていた。

 無心に……子供のように、ただ、自分の手の中にいる。

なんと愛しいことだろう。

心臓の鼓動が激しい。でも、胸をくすぐる息と肌伝いに感じる鼓動のほうが、もっと激しい。

言葉はない。でも、お互いに満ち足りていることは分かり合えた。

やがて、彼は頭を上げた。

乱れてエリザの顔に掛かっている自分の髪を、そっと払った。

でも、疲れ果てているのか、なごり惜しいのか、再びエリザの胸に顔をうずめ、胸元に口づけをした。

かすかに、痛みを伴った。

「……幸せです」

 たった一言、彼は言った。

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