フィニエルの憂鬱・3
このままでは……。
エリザ様もサリサ様も、不幸になる。
一振りの短剣が、ここにある。
もうかなり昔の物ではあるが、刃の輝きは失せていない。私の顔がはっきりと映って見える。
その背後に、私はあの方の姿を見るのだ。
巫女姫を降りたとき、あの方……マサ・メル様はこの短剣を私に返してくださった。
私は何を思ったのだっただろう? すでに過去を捨てた身では、思い出しようもない。
いや、忘れてはいない。
ただ、よくわからなかったのだ。
「もう一度言ってください」
聞こえなかったはずはないのに、サリサ様は聞き返す。
最高神官への定例の報告の時のことだった。
私は、再び深く敬意を表し、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「今後は、エリザ様とむやみにお会いするのは、いかがなことかと思います」
少しこわばったサリサ様の顔が、今度は何の冗談だというばかりに、笑みに変わってゆく。
「真面目なお話でございます。エリザ様には、そろそろふるさとに帰る心構えも必要なのです。これ以上、あなた様のことばかりを頼りになされていては……」
「そろそろ帰ることも考えなければならないから……もっと二人の時間を大切にしたいのです。わかってはもらえませんか?」
「わかりません」
私の厳しい声に、サリサ様の顔から色が消えてゆく。でも、次に青くなるのは、私の番だった。
「フィニエル、あなたがわからないはずがない。だってあなたは、マサ・メル様とは……」
おもわず振り回した手を、サリサ様は簡単に受け止めてしまった。
仕え人らしからぬ激情にかられて、最高神官に平手を食らわせようとした自分にも驚いたが、何よりもサリサ様に受け止められたことにも驚いた。
「私はもう、子供のサリサではないのです。あなたの平手など、怖くはない」
押さえつけられて動きが取れない。
たいした力をこめているようには見えないのだが、うんともすんとも動けない。あの小さな子どもは本当に大きくなってしまい、力も強くなってしまったのだ。
何もかも、私は敵わなくなっている。
「ねぇ、フィニエル。あなたは、マサ・メル様のことが好きだったのでしょう? だから、寿命を迎えた時に散ることよりも仕え人になることを選んだのでしょう?」
「サリサ様のような、下心などで霊山には戻ってきません!」
冷静に言ったつもりだが、あまりにも近いサリサ様の顔は、これまたあの方にあまりにも似ている。私の動揺に確信したのか、サリサ様は昔ながらのいたずらっ子の顔で懇願した。
「私の気持ちをわかってください」
ばかな!
だいたい……。
恋愛感情で仕え人が務まるはずがないだろう。
私は、マサ・メル様の湯浴みを手伝い、背を流し、あの美しい髪を梳く。
そして、若く美しい巫女姫が待つ寝屋へ送り出すのだ。
それを、何十年も続けてきた。
あの方とはまったく違う温かい腕で、サリサ様は私を包み込み、耳元で囁やいた。
「好きだから……そばにいたいのです。もう少しだけ、見逃してください」
「それは違いますわ」
甘えて絡みつくような言葉に、私は懐に手を差し入れ、中から冷たいものを出した。
それをサリサ様と自分の間に差し入れて、テコのように利用して無理やり体を離した。
――短剣。
サクッと抜いたそれに、サリサ様は驚いて三歩ほど身を引いた。
「うわぁーーー! フィ、フィニエル! は、はやまらないで!」
何と愚かなことを叫ばれることか。
私が、最高神官を刺すわけがない。大人になったとはいえ、いまだにやはり少し腰抜けである。
「私とマサ・メル様は、恋愛関係にあったことはございません」
「ううう……、わかった、わかったから……その危ないものをしまって……」
だいたい、そこまでして否定するなんて、かえって怪しい! などと、言葉とは裏腹に、サリサ様は心で叫んでいた。
だから、私はしまわない。
「この短剣は、私が巫女姫を降りましたときに、マサ・メル様が下さったものです」
サリサ様は、少しだけ落ち着いて乱れた着衣を整えた。
「お、贈り物だなんて。おじいさま……いや、マサ・メル様にしては、珍しいことだとは思わなかったのですか? そ、それを愛の証とか?」
「愛? まさか」
私は、少し微笑んで否定した。
「私は長く務めた巫女です。私の抱く思いに感慨深いものがあると思われたのでしょう。マサ・メル様はこの短剣を差し出して『私とあなたの縁は切れました』とおっしゃられました」
はぁ……と小さな声を漏らし、サリサ様はうつむかれた。
マサ・メル様は、果てられるまでの長い間に、一度もサリサ様への愛情を示されたことがなかった。サリサ様は、いつもどこかであの方の愛情を捜し求めていたというのに。
「……冷たい言葉」
その一言に、サリサ様の落胆のほどが感じられる。
私とマサ・メル様の間に愛があった……と妄想するのは、サリサ様の希望にしか過ぎない。
「愛あれば冷たいと感じたかもしれません。でも、愛ではありません。私にとって、あの方は尊敬できる最高神官でありました。ですから、私は戻ってきたのです」
私は、光る刃物をサリサ様の頬に当てた。
「あなたは、エリザ様との縁を切ることができますでしょうか? エリザ様を送り出すことができるのですか?」
少し悲しそうな目を、サリサ様は私に向けた。
「エリザ様にしても同じです。この刃物で断ち切れるほど、気持ちは簡単なものですか? あの方の将来を思うならば、もっと自重すべきです」
私が言うまでもないことだ。
おそらく、サリサ様本人が一番よく知っているはずのこと。案の定、サリサ様の言葉の切れは最悪である。
「……フィニエルの言うとおりです。言うとおりですけれどねぇ……」
そう言って、サリサ様は短剣を握りしめた私の手に手を重ねた。
これで、サリサ様が自重してくれるとは思っていない。
恋心は、それほど簡単なものではない。
はい、さようですか……と、切って捨てることができれば、世に悩み惑うことは半分になるだろう。
それと……。
私はおそらく、少しだけ嘘をついた。
久しぶりに手にした短剣には、巫女姫時代の思い出が写る。
決別の方法を、あの方はすべて奪い去ったのだ。この短剣とともに。
長く霊山との縁を切りたく願っていたのは、私であったはずなのに。
巫女姫として六十年間……正確には十二回、私はあの方の巫女姫であった。霊山にいたのは十三年、あとの四十七年間は、祈り所の闇の中で生活した。
何度巫女として務めても、私は子をなすことができなかった。
おそらく、体質的に子どもができにくいのだろう。医師からもその旨、説明があったはず。
しかし、あの方は私をあきらめては下さらなかった。私は一年の霊山生活と五年の祈り所生活で、六十年間を費やしてきた。
なんと辛い日々であったことか――
ただ一言、巫女姫として失格の烙印さえ押してくだされば、私の人生は変わっていたはず。『落ちた女』『石女』と後ろ指を指されようとも、光の中で生活できたはずなのだ。
「これであなたと私の縁も切れました」
そう言われて、何ともいえないあの方の表情を見ていたら、何も考えることができなくなってしまった。
私が巫女姫として最後になしたことは、あの方のためにほろりと涙を流したこと。あの方が最後にしてくださったことは、その涙を唇で拭いてくださったこと。
恋愛なんかではなかった。
縁といえるような縁ではなかった。
『癒しの巫女』としての地位を得て、最高の待遇で一の村に戻ったあとも、私は常に闇に囚われていた。
村にあふれる光も、時に聞こえる子どもの声も、朝日も夕陽も、私には、まるでヴェールに包まれた別世界のように感じられた。
やっと得られたはずの光の中に、私のいるべき場所はなかった。
だから、霊山に戻り、マサ・メル様のもとに戻るしか、私には道がなかったのだ。
私は憂鬱になる。
お二人にこれから訪れる別れを予感して。
エリザ様のその後を思って。
そして。
あの方の冷たい唇の感触を思い出し……憂鬱になる。
=フィニエルの憂鬱/終わり=
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