霊山の聖母・11


 帰り道、エリザは一言も口を利かず、ただ、サリサの後ろを呆然として付いてくるだけだった。

 何の慰めの言葉も見当たらず、サリサもエリザをそっとしておいた。心苦しいけれど、あとはエリザ自身が自分で気持ちを整理するしかないのだから。


 すでに真っ暗になってしまった道。

 今日、サリサは使える力を使い切ってしまった。行きのように銀の粒子で灯りを燈すこともできない。祈り所より小さな灯篭を失敬してきて灯りとした。

 確かに疲労感がある。時々止まっては、エリザが追いつくのを待ったりもしたが、実はサリサも休みが必要だった。


 ――自分の庭で疲れるとは……。愚か者かな?


 サリサはふっと空を仰いだ。月は、すでに半月になっていた。

 マサ・メルがこのような自分を見たら、きっとひどく落胆するであろう。けれど、サリサはこうするしかなかったのだ。

 サリサが最高神官である限り、無駄は大目に見てもらうしかない。


 とたん。

 後ろでバタンという音がした。


 振り返ってみると、エリザが木の根に足を引っ掛けて転んでいた。

 行きの時のような守られた道ではないから、もっと注意してあげるべきだったのに。

「大丈夫ですか?」

 サリサは慌てて駆け寄った。

 エリザは土の上に伏したまま、起き上がれないでいる。どこか思いっきり打ったのかもしれない。

 サリサは灯篭を地面に置くと、エリザを助け起こそうとした。

「嫌! このままにしていてください!」

 突然の拒絶。と同時に、引きつったような泣き声。

「どうしました? どこか打ちましたか? 痛みますか?」

 このままに……と言われても、はい、わかりましたとは言えない。サリサは無理やりエリザを起こした。

 彼女は、すっかり泥だらけの顔をして、さらに涙で顔をくちゃくちゃにしていた。顔を見られたくはなかったのだろう。サリサと目が合ってしまうと、今度はびっくりするような大きな声を上げて泣き出してしまった。

「ひどいです! ひどいです! あんまりです! こんな私を見ないでください!」

 見ないでと言われても……もう遅い。

 灯篭がしっかりとエリザの顔を浮かび上がらしてしまったのだから。

「本当に私って、ひどい! わがままだし、自分勝手だし、もうどうしようもない出来損ないで、その上、邪なことを考えちゃうんです!」

 エリザは、顔を両手で覆い隠して首をふりふり訴えた。

「私、マリを引き取りたい! あの子が大好きでたまらないんです! もう、あの子のお母さんになったような気持ちになっていて、別れるなんて思っていなかったんです。でも、本当のお母さんのことを考えると、帰してあげなくちゃ、って思うし、マリもそれを望んでいるし、でも、返したくないし、そばにおいて置きたいし、もう、どうしていいのかわからないんです!」

 こらえていたものが、一気にエリザから吐き出されていく。

 かすかな灯篭と半月に照らされて、顔を覆った指先から涙が光ってぽろぽろと地面に落ちた。

「なぜ? なぜ、私がマリの母親であってはいけないの? ずっとあの子の世話をしたかったのに! もう二度と、あの光の中の日々が戻ってこないなんて! 私、マリが欲しい! 日差しの中の日々を失いたくない! あるまじき願い……だなんて嫌!」

 爆発したら止まらない。エリザの独白は、だんだんと熱を帯びてきた。

 サリサは、呆然とそれを聞きながらも、ただ、お互いが素のままでいられた瞬間を思い出していた。


 確かに、サリサにはあるまじき願いだろう。

 三人で過ごした至福のひと時。

 籠に入った焼き菓子や杏。蜂蜜飴。そして楽しい歌。

 愛しい人に呼ばれる名前。

 その日々がずっと続くならば、その望みがかなうならば……。

 ちくりと胸に突き刺さる。


「……私にはあるまじき願いでも……あなたは違います。あなたはいつか霊山を離れる日が……」


 おそらく、興奮しすぎて聞いてはいないのだろう。サリサの言葉を断ち切って、エリザは叫んだ。

「それに……嫌なんです! こんな汚い私を、何でサリサ様の前でさらさなければならないの? 私、しっかりした立派な巫女姫であるよう、一生懸命振舞っていたつもりなのに! サリサ様の足を引っ張らない巫女姫でありたいのに! どうしてなの? 私ってバカです。バカ、バカ、バカ!」

 巫女姫の言葉は、もう支離滅裂で意味を成さない愚痴に変わっている。話はどんどん発展してきて、きっと竜花香が花をつけても泣くかもしれない。

 きっと溜め込みすぎたのだろう。

 サリサは少しだけ微笑んだ。

 こんなに悲しくて泣いているのに、それをかわいくて愛しいと感じてしまう自分は、きっともっと邪な男かもしれない。

「がんばりすぎて、我慢しすぎたのですよ」

 そういって抱き寄せる。

 抱擁は、ムテの者でなくてもできる、簡単で強力な癒しの手段である。

「がんばってもだめなんです。その上、こんなに……泣くなんて情けないです」

 ぬくもりが効いたのか、エリザの興奮はやや収まってきた。エリザはサリサの胸に顔をうずめた。

 せっかくの礼装が涙と泥だらけになってしまい、今回のことが仕え人たちに申し開きができない証拠になってしまってもかまわない。

 二人やっと、心を通わせる出発点に立てたような気がして、サリサも少しだけ肩の荷がおりたような気がした。

「がんばりすぎたときは、もっと私を頼ってください。私の前では、泣いても笑ってもかまいません。もっと気を楽にして、あなたらしいあなたでいて欲しいのです」

 エリザの体が一瞬冷たくなった。

 魔の呪縛の正体に、自分でも気がついたのかもしれない。エリザは、震えながら手でサリサの胸を押すようにして、顔を上げた。

 先ほどと同じ蒼白な顔で、唇までも青く見える。月の光のせいかも知れないが。


「でも……私……もしかしたら……」

「でも、はナシです」


 サリサは、エリザの顔を礼装の服の袖口でぬぐった。やっと泥が取れたが、涙は相変わらずジワリと浮き出ている。 

「大好きな人をそばにおきたいのは当然。幸せを願うのも当然。それが相反する願いだったとしたら……誰でも当然悩みます。別に邪でも何でもありません」

 エリザは不思議そうな顔をした。

「いけないことを望んだかも……私……」

「私も、おそらく望みましたよ」

 月の光がかすかに絡まる髪を、サリサはそっと撫でた。乳白色に輝いていて、顔を寄せると、やや甘い懐かしい香りがする。

「すべてを含めて、あなたはあなただから、私は好きなのです」

 これは、完全なる告白である。

 でも、マリのことで頭がいっぱいのエリザには、本当の意味は伝わらないだろう。それを踏まえての、ささやかなわがままな告白である。

 完全に自分の心の闇を払えたわけではないだろうが、落ち着いて見据えることができたのだろう。エリザの声は低くなった。

「あ、ありがとうございます。そう言っていただけると……少し、気が楽になりました」

 案の定、エリザは気がつかない。

 やや目を伏せて、そう言った。

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