霊山の聖母・10
祈りの邪魔をしないよう、二人はゆっくりとその人に近づいていった。
一番小さな祈り場かも知れない。かすかな銀の粒子は、その人がムテであることを示すものではあるが、けして力が強いわけではないことも示していた。
祈りの言葉は、ややなまりがあり、きれいには響いてこない。だが、どこか必死で心を打つものがあった。
その人は女だった。
やや、ムテにしては粗末な身なりである。肘の辺りが擦り切れた半長衣を羽織っていた。田舎の出身であることがわかる。
エリザには見覚えのある女のはずだった。しかし、すぐには思い出せない……いや、思い出したくはないらしい。エリザは歩みを止め、逆に一歩後退した。
「この人の祈りは、粗く不完全です。でも、マリには一番必要なものなのです」
サリサの言葉に、エリザはぴくりと震えた。
「憶えていますか? マリのお母さんです」
人の気配に気がついたのだろう。マリの母親は急に振り向くと、サリサとエリザを見て、驚いてひれ伏してしまった。
当然だろう。サリサは、彼女だけには暗示をかけなかった。
霊山の最高神官と巫女姫が揃うのは、一年に一回のことなのだから、この異例さに彼女が驚いて、かしこまってしまっても不思議はない。
マリの母親は頭を地面に擦り付けるようにして、やっと泣きそうな声を上げた。
「ああ、もったいのうございます! お二人がこのように直々にお越しになられるとは……。! やはり、やはり、マリは……」
その後は本当に泣き出して言葉にならなかった。
サリサは、その場にひざまずくと、母親の肩に手を触れた。
「悪いように誤解なさってはいけません。マリは生きています」
「でも、でも……今日になってお使いの方が……危険な状態だと……」
サリサは、母親の体を起こした。目には涙がいっぱいだった。
無理もない。一度は回復したと聞いて、差し入れまで持っていってもらったのに、一転危篤とあっては、母親としては耐え切れないのだろう。
「確かに病はそう簡単には治るものではありませんが、希望を捨ててはいけません。あなたの祈りは、間違いなく届いていますから」
「もったいのうございます……」
母親は、さらにボロボロと涙をこぼした。
「あの子は、私の宝物です。どんなにわがままな母と言われようが、人様にご迷惑をお掛けしようが、命だけは……。かわりに私が死んだとしても、罵られ、村を追い出されようとも、あの子だけは助けてくださいませ!」
ムテは老いない種族だ。しかし、母親はまるで歳を取っているかのようにやつれていた。
至らぬ祈りでも、寿命は消費する。マリの母親は、エリザよりもずっと弱い癒しの力しか持たないが、エリザの三倍は力を費やしたであろう。
母親の涙が、キラキラと輝いた。
それは、この場を照らしている灯りが揺れているからだった。チラチラと不安定に小刻みに光が揺れている。
光を持っている者の手が震えているのだ。
その光と共鳴するように、小さな弱々しい声も震えてサリサの耳に届いた。
「あ、あの子は、た……助かります……」
サリサと母親が、声の方を同時に見た。
蜀台を持ったまま、立ち尽くしているエリザだった。
「マリは……助かりますわ。あの……もう、ずいぶんとよくなって、差し入れのお菓子も食べられるようになって……」
エリザは蜀台を掲げたまま、顔面は蒼白だった。目は何も見ていないように虚ろで輝きがない。
ただ小刻みに震える唇から、小さな声が発されたのである。
「巫女姫様、本当でございますか? あの子は? あの子は助かるのですか!」
母親が、思わずエリザの足元にすがりつく。
エリザはビクッと震えたが、やはり体をこわばらせたままだった。
「マリは……助かるのでございますね? 私の元に戻ってくるのでございますね? 本当でございますね?」
蜀台の灯りは、これ以上にないくらい大きく揺れた。落としてしまうのでは? と思えるほどだった。
サリサは立ち上がり、エリザの肩を支えた。蜀台を持つ手に手を重ねる。エリザの手は、まるで氷を掴んでるかのように冷たく、こわばっていた。体全体が凝り固まっているかのようである。
死んでしまったかのような硬直に、サリサは耳元で声を掛けた。
「エリザ?」
エリザははっと我に返ったようだった。
蜀台をしっかりと握りなおし、大きく一呼吸入れた。
震えるかすかな声で、でもしっかりとした言葉で、エリザはマリの母親に告げた。
「本当です。マリはあなたの元に戻りますから、安心してください」
母親は、あぁ……と小さな声を漏らすと、今度はエリザの足に何度も口づけした。
「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます……」
エリザは返事をしなかった。
口は堅く閉ざされ、かみ締めた唇がわなわなと震えている。目も閉じられていて、湿った睫毛が揺れていた。
それは、灯りの揺れが見せたものではない。エリザが必死にこらえているものを、サリサも共鳴して感じていた。
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