霊山の聖母・9


 夕の祈り。

 サリサは、まだ陽があるうちに祈りをやめた。とはいえ、その日に充分な祈りは、すでにこなしている。

 立ち上がり、すすっと祠から出てゆく。 

 控えている仕え人の横を通りすぎる。小石を蹴っ飛ばしてしまい、仕え人の足にあたったが、彼は最高神官を無視して祈り続けるだけである。まるで、何事もなかったかのように。

 いや、彼だけではない。霊山全体が時間を忘れたように止まっているはずだ。最高神官は祈り中だと誰もが思うよう、強力な暗示をかけたのだから。

 力ある彼ら仕え人全員に暗示をかけることは、最高神官サリサとしてもかなりの力を使うことではあるが、大満月とその後の休養がそれを可能にした。マサ・メルの残した休養制度も悪くはない……などと思いつつ、サリサは笑った。


 祠を後にして、霊山の出口まで降りてくる。

 そこに、夢遊病者のようによろよろ歩いてきたエリザがいた。

 夕陽に照らされて、まるで亡霊のようである。この数日で、癒しの力と呪詛の力をともに使い果たしている。しかし、彼女がぼうっとしているのは、そのせいではない。

 エリザの前まで歩み寄ると、軽く指先を目の前でふる。とたん――エリザが目を見開いた。サリサがかけていた暗示が解けたのである。

「え? 私? どうして? あ、マリは? マリはどこ!」

 意識が戻ったとたん、エリザは子供を探しはじめた。頭の中には、そのことしかないのだろう。

「フィニエルにお願いしました。あなたは、私と一緒に」

 サリサの言葉に、エリザは初めてサリサに気がついたようだった。

「サリサ様? でも私、マリのそばにいないと!」

 興奮しだす前に、サリサはエリザの手を取った。

「これは、マリのためでもあるのです。エリザ、お願いですから、私に付き合ってもらえませんか?」

 マリのためという言葉が効いたのだろう、エリザはやや不安げではあったがうなずいた。


 サリサとエリザは、薄暗くなった山道を降りていった。

 サリサが着ているのは、夕の祈り用の礼装である。白地に銀の刺繍の入った、歩きにくそうな重たい衣装である。山道には向かないように見えるのだが、霊山の強い力を引き出すには都合がいい。

 エリザの手を引きながらも、サリサの足取りは速かった。弱りきっているエリザに力を与え、山道を滑るように早く下れるのも、ムテの魔力によるものだ。

 エリザは不思議そうな顔をして、あたりをきょろきょろしていたが、やがて不安そうに口を開いた。

「サリサ様、どこへ行くのですか? 霊山を離れるのは、あまり好ましいことではないのでは……」

「一の村に行くだけですよ。すぐに戻りますから、大丈夫」

 エリザは納得したのかしばらく手を引かれたままになっていたが、再び恐る恐る口を開いた。

「一の村に……マリを救う手立てがあるのですか? ムテの霊山になくて村にあるとは思えないのですが……。あ、ご、ごめんなさい! 差し出がましいことを」

 慌てて口をつぐむエリザに、サリサは微笑んだ。

 ムテの霊山は、エーデムリングに次ぐ巨大な力が眠っているとされる場所である。しかし、力の源がどこにあるのか、最高神官であるサリサはよく知っていた。

 霊山など、所詮は力の吹き溜まりにすぎない。

「この世界は、魔力以上に強い力で満ちているのです。それは、時に我らの力をはるかに超えるものなのです」


 村は、ひっそりとしていた。

 ちょうど祈りの時間が終わって、誰もが家に帰ったのだろう。しかし、サリサはそれだけではないことを知っている。

 礼装に身を包んだ最高神官と、『祈りの儀式』以外の山下りを許されない巫女姫が、手を繋いで村を歩けるわけがない。夕の祈りにちょっとした工夫をして、村の者たちにも時間を止めてもらったのだ。

 つややかな白陶が紫色に染まる街。誰もいない広場。かすかに二人の足音だけが響いて、エリザは不安げにあたりを見渡している。

 サリサは、そんなエリザの手を握り締めたまま、真直ぐ祈り所へと向かった。

 そこに、一人だけ暗示をかけなかった人がいるのだ。

「なんだか……怖いです」

 祈り所を前にして、エリザがつぶやいた。

『祈りの儀式』の会場ともなったこの場所だが、当時の活気は失われ、闇にぼんやりと浮かび上がる巨大な建物で、不気味にさえも見えた。

 エリザが怖く感じても仕方がない。ここで祈られることは、叶いそうにない苦しい願い事のほうが多いのだから。

「大丈夫です。あの時を思い出して」

 サリサは微笑んだ。

 サリサにとっても、巫女姫とともに感じた一体感は得がたいものだった。和し、共鳴することで力を得るサリサにとって、至福の時だった。

 エリザも……そう感じていたはず。

「さあ、中に入りましょう」

 その時と同じように手を繋いでいる。 


 祈り所の中は真っ暗だった。

 人気がなく、どこか湿っぽくカビ臭い。まさに、祭りの後……である。

 サリサは、入り口に置かれた蜀台を手にした。かすかに祈ると、魔の力にて、ふっと灯がともる。

 階段につまずきそうになって、エリザはよろめいてサリサにしがみついた。

「ご、ごめんなさい!」

「謝る必要はありません」

 サリサが小声で囁いた。

「でも……」

「でも、もナシです」

 そう言いながら、サリサはエリザに蜀台を渡した。灯色の光が、不安げなエリザの顔をゆらゆらと照らし出す。

「エリザ。あなたは、もっと自分であっていいのです。もっと素直に笑ったり泣いたりしても大丈夫。誰が咎めようとも、私は……そういうあなたのほうが好きですから」

 エリザの顔に困惑が浮かんだ。

「マリと一緒に過ごした時間は、私もとても楽しかった。あの日が、毎日であったら……と、思いましたよ。最高神官としては、あるまじき願いですが」

 握っていたエリザの手が、かすかに震えた。

「……そんな……あるまじき願いだなんて」

 つぶやいたエリザの声は、自信なげで途中でかき消えてしまった。

 無言の空間になった。

 いや。

 かすかに祈り言葉が聞こえる。

 祈り所の奥。いくつかに区切られた祈りの場所の一角に、誰かがいた。

 やはり……その人はいた。

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