霊山の聖母・6


 休養最後の日。八角の部屋にて過ごす。


 八角の部屋には、いまだエリザが焚き染めた薬草の香りが残っている。

 マリもエリザも、今はすっかり落ち着いているが、その横でフィニエルの顔は歪んでいた。

「では、サリサ様は……誰かがエリザ様を陥れようとしているとでも?」

 しっ……と、サリサは注意を促す。

 ここでは誰にも話は聞かれないだろうが、万が一、エリザが目を覚ましてこの話を聞いたら、再びショックで寝込むかもしれない。

 子供を抱きしめて眠っているエリザの姿は、このような大変な事態にも関わらず、やや安らかにすら見えて、本当の母親のようである。

 ただ、ひたすら子を助けようとする清らかさ、すべてを包み込む優しさ、慈しみ。母と子だけが持ちうる不思議な愛情で、まるで守られているかのような、穏やかな空間がある。

 しかし、魔の呪いは、今この時点でも止むことのない攻撃を、子供に仕掛けているのだ。

「マリの倒れた理由は、病ではありません。魔の力で意識を飛ばされてしまっているのです」

 サリサの言葉に、フィニエルは声を潜めた。

「確かに、子供は熱もなく、意識が戻らないだけです。誰かが、何らかの目的で強い魔の呪縛をかけたと考えるのが、妥当ではありますが」

 サリサも、ますます声を潜める。

 遮断された八角の部屋とはいえ、誰かが探っているかもしれない。

「霊山にいる者を疑いたくはありませんが、最高神官以外の者で、霊山の外からはこのような強力な魔力を送ることはできません。ですから、敵はこの中にいるわけです」

 そういいながら、サリサの胸は痛んだ。

 霊山の者たちとの付き合いは長い。マサ・メル至上主義の頭カチカチばかりが揃ってはいるが、けして悪人ではない。意地悪などもすることはあっても、下手をしたら死に至らしめるようなことまではしない。

 しかし、実際に起きている。

 誰かが、子供を殺そうとしている。そして、エリザを排除しようとしているのだ。


「マリが助かって、エリザ様の巫女姫としての地位が確立するのを恐れている者……ですか? 確かにエリザ様は、癒しの力はとにかく、祈りに関してはさっぱりですし……」

 と言いつつも、フィニエルにも思い当たる節はない。

 確かに、フィニエルでさえ、エリザが巫女姫としてやってきたときは、さっさと泣いて帰ればいいと思っていたのではあるが。

「フィニエル、私がエリザについていてあげられるのは、今日までです。その後は、エリザはまた一人で、敵の魔力と対抗しなければなりません。はっきりいうと、それは無理です」

 このような大事なときに、そばにいてあげられない自分の身を、サリサは苦しく思う。

 最高神官という己を捨ててしまった立場が、本当に辛い。

 フィニエルは、きりっとした視線を送った。

「今日までにどうにか……というのも、かなりきついことだとは思いますわ。でも、全力を尽くしましょう」

 犯人を探るために、フィニエルは出て行った。



 その日、サリサはエリザとマリを癒し続けた。

 最高神官にしてほどけないような魔の力がマリを覆い尽くしていて、その元をたどろうと試みたがたどり着かない。

 これだけの力を発していたとしたら、送り手も意識を失っているか、完全に無我の境地に入っているか……。

 とすれば、フィニエルが霊山の者の様子を一人ずつ確認することで、敵の正体はすぐにわかるはず。

「ごめんなさい……」

 目を覚ましたエリザがつぶやく。

「また、謝るのですか? 別に何も謝ることなんてありません」

 エリザは、よろよろと体を起こした。

「だって……。サリサ様は、本当は休養を取らなければならない時なのに。私が足を引っ張ってばかりだから……」

 声が涙で詰まる。

 仕え人から、いつもそう言われているのだろう。最高神官を消耗させる未熟な巫女姫と、責められ続けているのだろう。

 まるで暗示でもかけるように頭ごなしに言われ続けていると、おのずとそうなのだと思い込んでしまう。自信を持て……と言うほうが無理な話である。

「足など引っ張っていません。むしろ癒されていますよ」

 サリサはそっとエリザを抱きしめる。

「あなたが必要だから、私は選んだのです。確かに、もっと巫女姫らしい力を備えた人はいるかもしれません。でも、私に必要なのは、あなたの力なのです」


 そう――おそらく。

 わがままで選んだのではない。必要だから選んだ。


 実際に、エリザがいなければ、サリサはマリを助けなかった。それよりもまず、最高神官として生きていこうと決心もつかなかっただろうし、大人になりたいとも思わなかった。

 必要としたために……辛い思いばかりさせている。最高神官という力を持つ存在でありながら、その苦しみを癒すこともできない。

 サリサの放つ癒しのための銀の粒子が、より濃くなった。一時的には、不安を取り除き、心を落ち着けることができる。

「私に……そんな力はあるのでしょうか?」

 そういうと、エリザはまたうつらうつらと眠りに入っていってしまった。


 ――なんと短い時間にやつれてしまったことか。


 癒しても癒しても、エリザの力はマリに取り付いた魔の力の吸収されていってしまう。このままでは、エリザは失われてしまうだろう。

 でも、マリとエリザを離すことも難しい。離せば、エリザの癒しで維持されているマリの魂は、魔の呪縛に絡み取られてしまうだろう。

 頼りは、フィニエルだけである。


 サリサは考えてみた。

 エリザを排除したがっている者。それは、誰なのか?

 たとえば。

 かつての巫女姫の仕え人。今の最高神官の仕え人。

 彼は、確かにエリザを疎んじている。

 しかし、彼はそこまで嫌がらせをすることに意義を見出す者ではない。担当を外れた今は、巫女姫のことなどどこ吹く風である。

 医師。

 彼は、エリザの未熟さゆえの体調管理の難しさに悲鳴を上げているとのことだ。だが、かえってそれが幸いして、より熱心に研究していると聞いている。

 癒しの仕え人。

 彼女は少し性格が悪い。しかも、今回は軽んじていたエリザに上を行かれたようなものである。とはいえ、あれだけ教育熱心な彼女が教え子を陥れるだろうか? しかも、仕え人たちは世捨て人でもある。世間の評価など、気にしない。

 薬草の仕え人。

 かつては、エリザの授業態度に文句が耐えなかったという。

 とはいえ、今のエリザは彼女の力になっている。エリザは薬草の知識を完全に自分のものとしていて、むしろ頼もしいくらいのはずだ。

 祈りの唱和の者たち。

 結界のために行われる朝夕の祈りは、もっともエリザが苦手とするところである。エリザが巫女姫であることで、一番とばっちりを受けているのは、彼らだ。

 だが、たった一人でこれだけの力を使ってしまったら、唱和の仕事に差支えが出る。残りの二人がすぐに気がついてしまうだろう。

 もしも、三人がつるんでいるとしたら?

 三人で力を合わせれば、巨大な力を操って平静を保つことができるだろう。しかも、三人ということで、魔の元がたどりにくいという利点もある。

 しかし、このような犯罪的なことを三人揃ってたくらむだろうか?

 一人が気を許してたくらみを心話で悟られでもしたら、おしまいである。


 考えても考えても、誰かがエリザを陥れようとしているとは考えにくい。

 そして、ついに休養の日々は終わってしまった。

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