霊山の聖母・5


 休養六日目。重大な事態が起こる。


「いったい、どういうことなのですか?」

 医師の話に納得ができず、サリサは顔をしかめた。

「ですから……我々も、巫女姫様も、誰も原因がつかめないのです。子供は昨夜急に倒れて、そのまま……。巫女姫様が、ずっと付き添ってはいるのですが、予断を許さぬ状態で」

「だから、どうして?」

「どうしてなのか、さっぱりわからないのです」

 昨日の様子からは、どうしてもその話は想像ができない。

 朝一番で謁見の間に押しかけてきた仕え人たち――癒しの者と医師に、説明できるほどのものが何もないことは想像に難くない。だから、答えのでない詰問を繰り返すのは愚かなことだとはよくわかっている。

 だが、サリサは聞くしか方法がなかった。動揺を隠すために、サリサは仕え人たちが控えている前を横切り、窓辺に歩み寄った。

 いつもはそこからエリザの様子を見ているのだが、窓の外に見える巫女姫の母屋の窓に、今日もエリザの姿はない。


 マリの元気な姿ばかりが目に浮かぶ。

 ――無理をさせただろうか? いや、それはない。

 では、どうして? わからない。

 エリザは……また、自分を責めているのではないだろうか?


 マリも心配だったが、昨日のかわいがりようからエリザのことも心配だった。

「わかりました。私が見てみましょう。巫女姫はどうしていますか?」

 医師は少し躊躇した。

 癒しの者と顔をつき合せると、今度は癒しの者が口を開いた。

「昨夜は一睡もしておりません。それも、かなりの興奮状態で……」

 さらに言いにくそうに医師が付け加えた。

「子供よりも大変かも知れません。あの子が死んだら……おそらく一緒に死にかねない状態です」



 八角の部屋の前にはフィニエルが待機していた。

 どうやら、エリザが神経過敏になっていて、誰も近寄らせないというのは本当らしい。

 夜のうちに教えてくれればいいものを……と、サリサは苦々しく思った。

 おそらく、子供よりも巫女姫の状態のほうが、彼らには問題なのだ。しかも、それは彼女が心配だから……などではない。

 巫女姫の引き起こす事件・事態・すべてが、ムテの今後と関わっていると思えばこそ、仕え人たちは動くのだ。少しでも最高神官を煩わせないように気を使っているのも、まさに同じ理由なのである。

 そのために命を長らえている存在であれば、文句の言いようもないのではあるが。

 目の前にいるフィニエルでさえ、信頼こそ置けるものの、そのような仕え人の一人である。他の仕え人よりも力が強い分、サリサの心さえ読んでしまうことも多々ある。

 フィニエルの瞳は、確かに最高神官らしからぬ動揺を責めるような色があったが、言葉はなかった。ただ、厳しい蒼白な顔のまま、うなずいただけだった。

 まずは落ち着け……と、自分自身で言い聞かせたことへの賛同の意味だろう。

 

 部屋の中は暗かった。

 悶々と焚き染められた薬草と、心に伝わってくる祈りの声。

 かなりの集中力を使っているせいか、フィニエルとサリサが部屋に入ったことですら、エリザは気がつかないようだ。

 この調子で一晩中祈っていたとしたら、エリザのほうが参ってしまう。

「ですが、どうしてもやめさせることができないのです。子供と引き離そうとすると、気が違ったように暴れ出して……。あのようなエリザ様は見たことがございません」

 ひそりとフィニエルが囁いた。

 大人しいエリザが、仕え人たちですら止めることができないほど暴れるとは、確かに想像しがたかった。

 闇の中に浮かぶ銀の光は、巫女姫の後ろ姿である。座ったまま、子供の手を握り締めてでもいるのだろう。時々その手の辺りから、閃光ともいえるほどの強い光の粒子が飛び散っていた。

 このようなきつい力が巫女姫のものとは思いにくい。

「私は……外しましょうか?」

 フィニエルが小声で囁いた。

 針のように尖った気が満ちている。刺激をしないほうがいい。

「ええ、お願いします」

 サリサは、灯りを受け取った。


 フィニエルが部屋を出て行ったのを確認してから、サリサはエリザに近づいた。

 しかし、彼女はまったく気がついていないようだ。

「エリザ?」

 声をかけても返事がない。

 相変わらず、ぶつぶつと祈り言葉を唱えているだけだ。

 気が重すぎる。これでは、子供も巫女姫も共倒れになってしまう。

 サリサは意を決して、声とともにエリザの肩に手を掛けた。


 ――とたん。


「だめっ!」

 悲鳴のような声。まるで弾き飛ばされたかのように、エリザはマリを抱きあげて身を引いた。

「エリ……」

 途中でサリサの声は引き裂かれてしまった。

「だめ! だめです! この子は誰にも渡しません! 私が、私が癒しますから! 放っておいて!」

 けたたましい声だった。

 かすかに揺れる明かりに照らされたエリザの顔は、今まで見たことのないものだった。

 銀糸の髪が顔にへばりついていても、気にもしていないようである。目は大きく見開かれたまま、ギラギラしている。そして、目の下には隈ができていた。

 気が張りすぎて、興奮状態が続いているのだ。

「エリザ!」

 サリサは、子供を抱きしめて逃げ惑うエリザの腕を、やっとの思いで捕まえた。

「嫌っ! 嫌っ! 放して!」

 興奮が収まらない。泣き叫んで暴れまくり、外れた腕から平手が三度ほど飛んできた。

 エリザは、最高神官を最高神官として認識していないらしい。サリサは最終手段にうって出た。

 エリザの額に指を突きつける。

 まるで、ふぬけたようにエリザは子供をだきしめたまま、ふらりと座り込んでしまった。

 強力な暗示。

 体と心は切り離れてしまって、自分の自由にならないと思わせてしまう。掛けられたとわかってはいても、心の奥に働きかけているので簡単には解けない。

 サリサはほっとして、殴られた頬に手を当てた。実はかなり痛かった。

 エリザから子供を奪い、布団に寝かせる。確かに子供の意識は遠く、まるで死んだかのようだった。

 が……。

 サリサは、顔をしかめた。

 仕え人の誰もが気がつかない子供の危篤の原因を、サリサは触れただけで察したのだ。

 マリの意識を失わせているものは、病などではなかった。


 ――なんとも邪悪な気。


 子供をがんじがらめにして、心と体の自由を奪う。誰かが、子供の健康をよからぬこととして、強力な力を送り続けているのだ。

 このような邪な祈りを、ムテでは通常の祈りと区別して『呪い』と呼ぶ。


 銀の結界をマリに纏わせる。

 少しは防御にはなろう。しかし、マリの命を危うくしてる呪いは強く、もとを断たないことには解決にはならない。

 そして、今度はエリザだ。

 開きっぱなしの目に涙を浮かべたまま、口を半分開けたまま、まるで人形のように床に伏していた。

 心に無理やり押し入って相手を追い出すような、掛けられたほうには不快な暗示だ。

 相手の力が強く満ちている場合、単純な方法では掛からない。サリサもかつては、よくマサ・メルに掛けられていたものであり、掛けられたほうの心地悪さは身をもって知っている。

 持続性はないものの、この暗示は呪いにも似ている。

 癒しの手段でもある祈りが、使いようによっては毒である呪いになるというのは、まさに紙の表と裏のような関係である。


 サリサはエリザを抱き寄せると、顔についた髪を払い、子守唄を歌うかのように祈り言葉を唱え始めた。癒しの言葉がエリザを包み込んでは消えてゆく。

 やがて、ひくりとエリザが動いた。ある程度、癒されたら暗示が解けるようにしておいたのだ。再び暴れそうになるのを、サリサは抱きしめてやめさせた。

「サリサ様、ごめんなさい。私……」

 興奮はしているが、先ほどのような気が狂ったのでは? と思われる状況は脱したらしい。

「いいのですよ。あなたは疲れています。まずは、ゆっくり休んで元気になってください。それから、マリをお願いします」

 サリサの胸にしがみついてエリザは泣き出した。先ほどの涙とは別の涙だった。

「……ごめんなさい」

「謝ることなんて、何もありませんから……」

 サリサはエリザの髪を撫でながら、さらに強き抱きしめた。


 ――謝ってなんかほしくはない。


 涙とともに、押し隠している苦しみのすべてを、分け与えてくれたらいいのに……と、悲しく思う。

 銀のムテ人にどれだけ癒しの力があろうとも、人の心の傷を癒すのは魔力などではない。大きな力を持つだけに、力だけでは癒しきれないものを、サリサは知っている。



 巫女姫の興奮が納まり、どうにか眠りに着いたあと、サリサはエリザと子供をフィニエルに任せた。

 その場を収拾できたとはいえ、根本的な解決はなされていない。

 部屋に戻ると、出たときのまま、かしこまって待機していた仕え人たちが顔を上げた。仕事熱心とはいえ、今のサリサにはわずらわしい存在である。

 しかし、だからといって嫌な顔を見せて手の内を読まれてしまうほど、サリサは愚かではない。微笑みすら浮かべて、彼らの出迎えに応えた。


「それで? 原因は何なのでしょう?」

 医師が恐る恐る聞いてくる。

「原因はたいしたことではありません。急激な回復がなされたので、反動が現れただけです。巫女姫はまだ経験が浅いですから、少し動揺してしまって、興奮してしまったのでしょう」

「では、明日か明後日には?」

「おそらく、回復すると思います」

 サリサは、さらりと言ってのけた。

「……そうでしょうか? やはり、巫女姫の力が足りないのでは……」

 そう言ったのは、癒しの仕え人である。

「力ではありません。足りないのは経験です」

 軽く、しかしはっきりとサリサは断定した。


 明日は、休養最後の日である。

 謁見の間から、仕え人たちの姿が消えると、サリサはほっとした。が、無理に平静を装っていた顔は、余計にけわしくなったに違いない。

 晴れ渡った空と窓辺に揺れる木々のざわめき。しかし、穏やかな霊山の日常は戻っていない。

 巫女姫の姿を母屋の窓辺に見ないまま、サリサはまた祈りの日々に戻らなければならない。

「困ったことに、あと一日」

 医師にああはいったものの、明日マリが回復する可能性は極めて少ないだろう。

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