霊山の聖母・3


 休養四日目、サリサのもくろみ通りになった。


 エリザから子供を預かって彼女を祈りの祠へと送り出す。祈りが終わったら、この八角の部屋で子供とともに食事をする。そこまで、サリサは話をうまく進めていた。

 仕え人たちは多少は怪訝な顔をしたが、一番発言力のあるフィニエルが賛同したので、誰も文句を言い出すものはいなかった。


 蝋燭の光だけが灯る薄闇の部屋。

 光を信仰するムテ人にあっては気分がめいりそうな場所ではあるが、心と体を休めるのに、闇は大切なことなのだ。

 だが、子供――マリという名の少女――は、かなり元気になっていて、寝ていることが辛そうなくらいだった。元気な者は、光がどうしても恋しくなる。

 マリが、うーん、うーんと唸っているのは苦しいのではなく、つまらないからである。何度も何度も寝返りを打って、やがて小さなため息をもらした。

「ねぇ、おじさん。私、おもてに出たいなぁ……」

「お、おじさん……って、私のことですか?」

 さすがにショックである。

 子供の横に座って休んでいたのだが、おもわず身を乗り出してしまった。

 サリサは、まだ見かけは十六歳くらいなのだ。確かにやっと言葉を話すようになった子供には、充分大人ではあるだろうが。

 マリは、再び小さな息をついて寝返りを打った。

「お姉さんはねぇ、もう少し元気になったら……っていうけれど、マリ、もう元気だよ」

「エリザは……お姉さんなのですか?」

 今度はサリサが大きなため息をついた。

 エリザは十四歳の見かけなのだから、お姉さんは妥当だろう。でも、なぜ自分がおじさんでエリザがお姉さんなのだろう?

 サリサの動揺に、マリはまったく気がつかない。寝返りで顔に掛かった銀糸の髪を、邪魔くさそうに払ったついでに、両手をいっぱいに広げて伸びをした。


 子供には、動物的な勘で魔力の大きさを測る能力があるといわれている。今のサリサは、確かに見かけよりも魔力的には成長している。

 最高神官になってから半年で、見かけ五歳分は成長した。おそらく、肉体的には限界なのだろう。異常な早さで成長してしまったために、骨が痛んで苦しんだこともあった。

 魔力のほうは、成長を制約する物的要因がない。器を越えて、おそらく五十年分は成熟した。それを察して、マリはサリサをおじさん扱いしたのだろう。

 さらに体の成熟に合わせて、どこまで魔力が大きくなるのか、サリサにもまだ見えてこない。

「でも、一応……おじさんはやめてほしいかも」

 すっかり気落ちして、サリサは子供に懇願した。

 ムテ人は、大人であるほうが望ましいのであるが、百年も少年をやっていたサリサには、やはり「おじさん」は、どうも馴染めないのである。

「おじさん、名前は?」

 子供は、あどけない目をしてこちら側に寝返りをうった。

「サリサです」

「……ふうううん、サリサ……かぁ? 変な名前」

 世間知らずの子供に掛かれば、最高神官も形無しである。さらに突然、突拍子もない話が飛び出す。

「サリサ、あのねぇ、お姉さんはねぇ、素敵な人と結婚したいんですって!」

 思わず顔に血が上ってしまった。

 子供ごときの一言に、大人が赤くなっている場合ではない。でも、ふっとエリザの横にいる自分の姿を思い浮かべてしまったのだ。

 無理な願いだとは知ってはいても、時々そうでありたいと願ってしまう。チクリと胸が痛み、吐くように本音を言い捨てた。

「わ、私もそうしたいですよ」

 子供は、サリサの独白など聞いてはいない。

「マリも、大きくなったらお嫁さんになるの。だから、こんなところで寝ていたくないのになぁ……」

 まだ少し斑点の残る手をぐぐんと天井に突き出して、マリは小さなあくびをした。


 ――かわいい。確かにかわいい。誰にも任せたくないほどに。

 サリサは、妙に納得してしまった。

 この子供を看病しているうちに、情が移ってしまったのだろう。エリザがほんの少しのわがままを言っても、仕方がないことだと思った。




 はじめに星からきた人は銀の翼を持っていた

 だから、お空に帰ったよ、パン!

 次に星からきた人は銀の髪を持っていた

 だから、ここに留まった、 パン!

 次に星からきた人は銀の瞳を持っていた

 だから、ここで暮らしたよ、パン!

 次に……


 エリザがばたばたと戻ってきたとき、サリサとマリはすっかり意気投合していた。サリサは、昔、姉と遊んだ手合わせ唄をマリに教えてあげているところだった。

「あ、マリの失敗だよ、手が逆。ここからは右と左を変えなくちゃ」

「ずっるーい! サリサ、そんなこと教えなかったよ! マリ、聞いてないもん!」

 小さな手が、サリサをぺちぺち叩いて責める。サリサはマリを抱き上げて微笑んだ。

 マリの肩越しに、ぼんやりと自分たちを見ているエリザが見えた。

「エリザ?」

 サリサが声を掛けると、エリザは急に跳ね上がるほど驚いて、目をぱちくりさせた。

「ど、どうもありがとうございます。あ、あの……すぐに声を掛けようと思ったのですが、あまりに楽しそうで……。あの、ごめんなさい!」

 またまた、肩に緊張。かしこまって下げられた顔は、今頃真っ赤になっていることだろう。

「ええ、楽しいですよ。エリザ、あなたも一緒にどうですか? この唄は知っています?」

 エリザが返事をしようと顔を上げたとき、さらに背後から声がした。

「遊びもけっこうではございますが、お食事も忘れずに。一刻の後、最高神官の仕え人が迎えに参りますので」

 フィニエルの冷めた声だった。彼女は持ってきた籠を、そそっとサリサの前に置いた。

 中にはパンや蜂蜜、お粥、薬湯、焼き菓子など、いろいろなものが入っている。霊山ではお目にかかれない干し杏まで入っていて、サリサは目を丸くした。

「それは、サリサ様のためではありません。マリのためですから」

 フィニエルは、ぴしりと言い切った。


 食事の時間は楽しかった。

 思えば、エリザとサリサは一緒に食事をしたこともなかったのだ。

 フィニエルに釘を刺されたとはいえ、食欲のまだ戻らないマリの残した焼き菓子に、つい手がいってしまう。

 びっくりした顔で見るエリザにも焼き菓子をすすめ、共犯者にしてしまうことも、サリサは怠らない。

 躊躇したあと、エリザは菓子を受け取り、それでも躊躇してマリのほうに目をやった。

「マリ、いただいてもいいかしら?」

 若干斑点の残る顔をしかめて、マリがげげっ……と声を上げた。

「マリ、苦い薬湯、嫌い」

 一瞬、焼き菓子泥棒と罵られるのかと焦ったサリサだが、その後の言葉に微笑みが漏れた。同時にエリザの表情も和らいでいるのにほっとする。

「でもね、それはお薬でもあるの。だから、よくなるためには、飲まなくちゃいけないのよ」

 エリザが優しく諭しても、マリは口をぎっちりと結んだままである。その状態で鼻まで薬湯を近づけると、さらに顔をしかめた。

「うえっ! これ飲まないと、マリ、お嫁さんになれない?」

 ええ、そうよ……と、言えばこの場はいいはずだったのに、エリザの口からはその言葉は出てこなかった。開いた口がパクパクしてしまうのは、エリザが動揺しているときなのである。

 おそらく、マリに語った夢のことを思い出したのだろう。

 エリザには、たぶん巫女姫の礼装よりも、結婚の衣装のほうが似合いそうだった。神々しい触れがたい巫女姫よりも、普通の母親であるほうが似合っている。

 サリサは、そう思って少し悲しくなった。

 最高神官であるサリサは、特定の相手との結婚はありえない。

 エリザは、やがて『癒しの巫女』として故郷に戻り、誰かとめぐり合い、恋をして、結婚し、家庭を持つことになる。

 一番、エリザという少女に似合っている未来図だ。

 でも、それまでは……と思う。それ以降のことを、具体的には考えたくはない。

 エリザを抱くかもしれないまだ見知らぬ男に、底知れぬ苛立ちを感じてしまっても、どうしようもないことだから。


 サリサは、干し杏を半分に引きちぎって薬湯の中に入れた。エリザとマリが不思議そうに見ている中、匙で薬湯をかき混ぜた。

「こうして杏を戻すと美味しいんですよ。それに、薬湯も飲みやすくなります」

 興味深そうにマリが杏をじっと見ている。今にも手を伸ばしそうなところ、ちょっと時間を置いてね……と、サリサはマリを制した。

「サリサ様って……甘党なんですか?」

 エリザが恐る恐る聞いてきた。

「子供っぽいでしょう?」

「はい、あ、いいえ! あ……はい……」

 エリザの答えは意味を成さない。いつも、失礼があってはいけないと、常に思い込んでいるのだろう。

 くるくると回した匙に、薬湯がつられてゆるりと回る。杏はプツンと小さな泡をひとつ吐き出して、くるりと踊りながら椀の底に沈んでいった。

「子供の頃、病気になって苦い薬を飲まなければならなかった時、母がこうしてくれたのです。今となっては、遠い昔のことですが」

 エリザの瞳が大きく見開かれた。

「サリサ様のお母様って……」

 その時、杏が戻ってぷるぷるになる様を見ていたマリが、突然大きな声を上げた。

「あーーーー! わかった! お姉さんの素敵な人って、サリサのことだったんだ!」

 エリザの顔がみるみるうちに沸騰したヤカンのようになっていく。

「きゃーーーーー! マリ! あなた、なんてことをっ!」

 エリザの手の中の焼き菓子は、硬く握り締められて粉々になった。

「だ、だ、だ、だいたい、最高神官である方を、呼び捨てにしてはいけないんですよ! こ、こ、こ、この方は、こんなに優しくて寛大ですけれど、本来はすごく偉い人なんですよ! そ、そ、そ、そんな夢、みちゃいけないんです!」

 わなわなと震えるエリザの前で、マリはきょとんとした顔をしている。

「何で?」

「何でって、何でもなんですっ!」


 サリサは、きゅんと胸が痛くなる。

 等身大のサリサ・メルを見せてしまったら、きっとエリザは傷ついてしまう。

 受け入れてくれると思うけれど……受け入れるのは許されないと、彼女もどこかで気づいている。巫女制度というものを、彼女だって理解しているのだから。

 マリのような、気持ちだけで動ける自由な子供でいれたなら……などと、ふっと思って切なくなった。

 自分の気持ちに素直でわがままな子供よりも、相手を思いやれる大人でありたいと願っているのにも関わらず……。


「明日、どこか外に出て、太陽の下で食事をしましょうか?」

 話をそらすために、ふっとそんな提案をしてみた。

 マリの瞳はキラキラと輝き、エリザの瞳は困惑で揺れた。

「でも……サリサ様は休養を取られているのでは?」

「外で食事しても休養にはなりますよ。仕え人たちがうるさいので、外でおちあう形にはなりますけれど。でも、医師がマリの体調を保証してくれたら、の話です」

「マリ、大丈夫だもん!」

 すぐさま、マリは反論した。

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