霊山の聖母

霊山の聖母・1


 八角の部屋の扉は、霊山の石でできている。

 祠の壁と同様ではあるが、違うとすれば、人の手をかけて磨き上げているということだろう。まるで鏡のようである。

 ピカピカと黒光りする表面に映ったフィニエルの顔は、口角がやや上がっている。笑われていることに気がついて、サリサは慌てて平静を装った。

 頭一つ分背の高いサリサの顔が、フィニエルからもしっかりと扉に映って見えていたのだろう。笑われても仕方がないような、明らかに情けない顔をしていたと思う。

 だが、それを神官らしからぬと怒るでもなし、かえって含み笑いをされるほうが、サリサはよほど嫌な気持ちになる。

 つい、笑ってしまったことがサリサに知られてしまい、フィニエルのほうも軽い咳払いとともに顔をしかめた。

 自己嫌悪とでもいう不快感か? 最高神官のためだけに存在している仕え人の立場では、笑うのはあまり好ましからぬ態度ではない。フィニエルにしても、前最高神官に対してならば、けしてそのような態度にはならないだろう。

 しかし、最高神官であったとしても、サリサは前任者とは性格がかなり違う。しかも、今回は弱みを握られていて、フィニエルに逆らうことの出来ないサリサであった。


 大満月の祈りの儀式の後、霊山はひっそりと静まり返った。

 まずは、あれだけにぎやかだった学び舎の若者たちが下山してしまった。ところ狭しと並べられたパンも消えてしまった。

 最高神官の日課である祈りは、通例に従って一週間に渡って行われない。それ以外は、通常通りの霊山に戻っていたはずなのだが。

 サリサは、自室の窓から巫女姫の母屋を覗き見る。

 朝の祈りと食事の間のわずかな時間の日課であるが、祈りのない昨日と今日は、時間はたっぷりとある。だが……。

 癒しの技を習っているはずのエリザの姿は、先日に引き続きなかった。

 子供を癒したうえに死にかけたのだから疲労があって当然なのだが、昨日も今日も……というのは、いささか不安だ。

 やはり、寝込んでいるのだろうか? などと、心配でたまらなくなってしまう。そして、考え込んだときの癖である親指の爪を噛んでしまい、仕え人に奇妙な顔をされる羽目になる。

 だから、サリサはフィニエルに頭を下げてお願いし、どうにかエリザと会う機会を作ってもらうしかなくなってしまったのだ。

 祈りの儀式休養二日目のことである。



 巫女姫は寝込んでいたわけではなかった。

 休養は一日だけで、今日はもう自分が救った子供につきっきりなのだという。少し、ほっとする。

 それを報告してくれないのも、フィニエルのたくらみとしか思えない。

 巫女姫の仕え人になってからというもの、彼女はどうもエリザの味方で、時にサリサには意地悪である。

 女というものは、どうもすぐにつるむものらしい。

 正確に言えば、フィニエルはもう女性だとはいえない存在ではあるのだが、女性的なこだわりや感情は捨てきってるわけではない。時に細やかな心配りや直感には助かる時もあるのだが、たまにうるさくて困る。最近はすっかりエリザの姉にでもなったかのような保護者ぶりで、サリサの思い通りにはなってはくれない。

 女二人の前に、自分だけが孤立した感がある。

 フィニエルは、すぐに扉を開けるかと思えば、一瞬立ち止まり、苦言を付け加えた。

「サリサ様。この先には病人がいることをお忘れなく」

 まるで子供に言い含めるようである。

「それでは、まるで私が大声をあげてはしゃぐみたいな言い方ではないですか」

 相変わらずの子供扱いに苛立ちながら、サリサは気が急いて、手を伸ばしてフィニエルの頭越しに扉を押した。

 重たい扉のはずであるが、簡単に開くのはサリサの力――とはいえ、腕の力ではない――のためである。ムテの人が持つ力は、あらゆるところで種族的な非力を補うのである。おそらく、霊山にいる者には可能であっても、ムテの一般人では開くことのできない扉であろう。

 種族が力を失ってゆくというを問題は、先の最高神官をおおいに悩ませたのだが、サリサはそのようなことよりももっと個人的な問題で頭がいっぱいだった。


 扉が開いた瞬間、はしゃいだ声が響く。

 もちろんサリサのものではない。

「フィニエル、フィニエル! 聞いて! 今、この子、この子ねぇ……」

 部屋の中央、いきなり立ち上がったエリザの声だった。彼女は顔面いっぱいに喜びを表して、振り返り……。

 声は、そこで途切れた。

 まさか、最高神官が来るとは思ってもいなかったのだろう。叫んだ口が丸い形で開いたまま、固まってしまっている。

 フィニエルは、小さくお辞儀して言った。

「その続きは、どうぞサリサ・メル様に」

 さっと胸に手を当てて敬意を示すと、フィニエルは部屋を出て行った。

 後には、サリサとエリザと病気の子供だけが残された。


 灯りがともっているとはいえ、この部屋には窓がなく、暗い。

 どちらが先に口を開くか……で、二人は押し黙ったままになってしまった。

 やはり、こちらが悪いのだから、と、サリサが覚悟を決めて声を出そうとしたときだった。

「あ! ほら!」

 突然、エリザのほうが声をあげたので、開きかけたサリサの口はそのまま音を発することもできず、留まってしまった。

 立ち尽くすサリサの目の前で、エリザはかがみこむと、質素な布団にくるまれた子供の手を取った。

「……今、話かけてきたんです。やっと意識が戻ったんです」

 やや震える感極まった声で、エリザは言った。

 サリサも、一緒に子供の前に膝をついた。エリザの横顔は、まるで慈愛に満ちた母親のように見える。サリサは思わず目を細めた。

 エリザは子供の口元に耳を近づけ、何を言おうとしているのか聞こうとしている。子供の頬を、優しく撫でながら。

 その顔はもうかなり昔に失われた母に似ていて、指の形は優しかった姉に似ていて、サリサは切なくなるのだった。

「お……母さん、お母さん、どこ? ……怖い」

 子供はか細い声でつぶやいた。おそらく、怖い夢でも見たのだろう。

 エリザはたまらなくなったのか、子供の耳元で囁いた。

「大丈夫、ここにいるわ。えーと……」

「マリです」

 サリサが教えると、久しぶりにエリザの目がサリサに向いた。

「その子の名前ですよ。使いをやって聞いておきました」

 びっくりして見開かれた瞳が、うるうると揺れる。サリサは微笑んだ。

 エリザは、子供に添い寝するようにして抱きしめると、子供が安心して眠るまで囁き続けた。

「大丈夫よ、マリ。私はずっとマリのそばにいるから」

 

 子供にすっかりエリザをとられてしまった形になった。が、サリサはうれしかった。

 元々兄弟が多かったサリサは、母や父の愛情を独占できたためしはない。だから、エリザの気持ちが子供に向いてしまっていても、さほど気にならない。むしろ、この病の子供を挟んで、実に自然にエリザの横にいられることが心地よかったのだ。


 ――だいたい、いつもの二人ときたら。


 一緒にいられる時間は少ないというのに、最高神官と巫女姫という肩書きが、常に二人をぎこちなくしていた。

 話のきっかけのほとんどは、薬草の話題とか、癒しの方法とか、真面目な話ばかりである。そして、中々肩の力が抜けないエリザを、まさに義務的に抱かなければならないのは、正直切ないものがある。

 おそらく、彼女は……耐えているのだと思う。巫女姫として、最高神官を受け入れようとして、かなりがんばっているのはわかる。わかるが……いつもカチカチで、かわいそうなくらいなのだ。

 もっと自然体でいてもらえたら、二人だけの時間は、きっともっと幸せな時間に変わるのに。

 こうして今のように、あの日蜂蜜飴をくれた時のままの、素のエリザを見ていられることは、サリサにとって至福の時間だった。


 が、子供がすやすやと寝息を立ててしまうと、エリザははっとして飛び起きた。

「ご、ご、ご、ごめんなさい!」

 いつもの真っ赤な顔。大きな目をぎゅっとつぶっている。ちょこんと座り込んだまま、肩が緊張で凝り固まっている。

「え? 何がです?」

 あまりに劇的な変化についてゆけず、サリサはきょとんとしてしまった。

「わ、私って、きっと礼儀知らずなんだと思います。そ、それに頭も悪いんだと……だから、あの、その、ごめんなさい!」

 サリサは頭を巡らせた。

 謝られることはされていない。だが、フィニエルは「エリザには妄想癖がある」と、よく言っていた。だから、たぶん自分の中で変な筋書きを作ってしまったに違いない。その原因は、おそらくこちらにあるのだろうけれども。

「謝るのは、私のほうですよ」

 サリサは、眠っている子供の頬を撫でた。すっかり、桃色のかわいらしい頬になっている。

「もうほとんどきれいになりましたね。あなたは、巫女姫として完璧に仕事をこなしてくれました。祈りの儀式でも、その後も……」

「でも……」

 泣きそうなエリザの声。そう、彼女は怒られたと思い込んでいる。

「いいえ、あなたには何も非はありません。私は、正直この子供が助かるとは思っていなかったのです。できそうにないことを押し付けた上、命がけで成し遂げてくれたのに、御礼のひとつもいえなかった。悪いのは私です」

 サリサは自分に非があることを訴えたが、最高神官は完璧だと思い込んでいるエリザには、あまり聞いてはもらえなかった。

「でも……私が至らなくて……迷惑をかけてしまって」

 しつこく自分を責めるエリザに、サリサは困り果ててしまう。

「至らないのは当然です。あなたが行った方法は、かつての最高神官マサ・メル様ですら飲み込まれてしまった方法なんですから」

 エリザの顔色がさっと引いていった。

「ご、ご、ごめんなさい! わ、わ、私、とんでもないだいそれたことを……」

 謝るつもりが、ますます謝らせてしまうことになってしまった。

 素直に「あなたが心配でたまらなかった」といえないばかりに。

 サリサは、すっかり気が動転しているエリザの肩を抱いた。緊張してこわばったままだった。

「ちゃんとやり遂げてくれたではありませんか。ありがとう……」

 霊山に吸い込まれて消えていなくなりそうだった少女は、今は腕の中にいる。

 その時の恐ろしさを思い出して、サリサは少しだけ震えた。気がつかれないよう堅く抱く。

「……何事にも一生懸命なあなたが好きです」

 それは、少しだけ告白の意味もあった。

 一瞬、エリザがピクリと震えたので、サリサは手を緩めた。

 ムテ人はお互いの心を読む力が備わっている。それはすでに失われた部類の魔力で、心話と呼ばれるものであるが、エリザにもかすかに力があるはすだ。


――好きです。だから、選びました。

 そう、聞こえてしまったかもしれない。


「無茶は困るのですけれども……それでも必死にがんばる人が好きなんですよ。私は、あなたのそういうところが好きです」

 言い直した言葉に、エリザの驚いた表情は少しずつ緩んでいった。

 驚きの中にかすかに喜びの色が見え、納得の中にやや失望が見えたように思うのは、あつかましいことだろうか? サリサは笑った。

 いつかは故郷に帰してあげなければならない人なのだから、気持ちを伝えても何もならない。

「がんばりすぎたときは、私を頼ってくださいね」

 エリザがこくりとうなずくと、サリサはほっとした。


 この後、サリサは自分の気持ちを伝えたい衝動にかられたときに、何度となくこの言葉をつぶやくようになった。


 ――あなたのそういうところが好きです――


 間違いなく本心ではある。

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