エリザには記憶がない。

 山の頂に立っていたような気もするが、下界を見下ろす目がなかった。風になったような気もするが、音が聞こえなかった。草原を渡ったような気もしたが、そよぐ花の香りを感じる鼻もない。

 何もないものになって、考える頭もなかったので、記憶も定かではないのだ。

 しかし、飛んで散ろうとしているエリザを、強力な力が再び組上げていった。

 気がつくと、握っていたはずの子供の手はなく、別の手がある。

 無くなったはずの目を開いて、エリザはその人を見つめた。

「サリサ様……?」

 無くなったと思っていた口から声が漏れ、耳がそれを聞き取った。

 冷たくなった手を両手で包み込むようにして、サリサはエリザの顔を見つめていた。

 熱にうなされた時に垣間見た母の顔を思い出した。


 銀の粒子は、相変わらず天井に渦巻いていた。

 エリザは、子供の変わりに自分が水晶の台に横たわっていることに気がついた。

「あと十人で、きっと間に合いませんでした」

 サリサの言葉は意味不明だった。

「あなたがこんなに無理をする人だとは思いませんでした。あと十人、パンを配る人がいたら……。あと、半刻戻ってくるのが遅れたら……」

 声が小さくなって、その代わり手を握る力が強くなる。

 痛いくらいだった。握った手の上に、彼は頭を伏せてしまった。

 祈っている……?

 いや、泣いているようにも見えて、エリザは動揺した。

「ごめんなさい。私……」


 駄目だったのだろうか?

 子供は死んでしまったのだろうか?

 期待に応えられなかったのだろうか?


「謝ることなど、何もありません。あるとしたら……私のほうです」

 サリサは顔を上げた。

 乱れた前髪を、邪魔くさそうにかきあげて、小さな息をもらした。

 すくっと立ち上がると、彼の動きに合わせて銀の粒子も舞う。霊山の力をすべて掌握している証拠であろう。

 しかし、少し疲れているのだろうか? 額に手を当てると、彼は目をつぶり、小さくつぶやいた。

「私を……そこまで信じないでください」

 意外な言葉に、エリザは目を丸くした。

「あなたがこのまま霊山の気に呑まれてしまい、戻らなかったとしたら……」

 小さく震えた声で、あとは何も聞こえなくなってしまった。

「あの……あの子、助からなかったのですか?」

 エリザは不安になって、一番気になっていたことを聞いた。しかし、その質問は、サリサにとってはやや拍子抜けだったらしい。

「大丈夫です。今は医師があの子を見ています」

 最高神官らしい落ち着いた声色に戻って、サリサは答えた。

「あなたは、私も驚くような力を発しました。山の魔力と一体化して、肉体を離れようとする魂を繋ぎとめることに成功したのです。しかし、その後、山と自分を分離することができなかった。フィニエルが知らせてくれなかったら、あなたは消えていたでしょう」

 エリザはどうやら死にかけたらしい。

「呼び戻してくださったのですね。あの……ありがとうございます」

 エリザを癒してくれたのは、最高神官だった。一度分散してしまったエリザの気を呼び戻し、かき集めてくれたのだ。

 しかし、それがうまくいったわりに、彼はうれしそうではなかった。

 今まで見たことのないような厳しい顔をしていて、エリザは自分が何か責められているように思えてしまった。

「エリザ。約束してください。もう二度と、このような無茶なことはしないと」

 意外なほどにきつい口調に、エリザはたじろいだ。

 

 ――どうして? 

 何か、怒らせてしまったらしい。

 思い当たることすべてを考え、エリザは真っ青になってしまった。

 自分を癒すのに寿命の浪費をさせてしまったのだろうか? 

 もしかして、ひどく多く? 


 サリサの身を案じて、エリザの声は震えた。

「無茶……だなんて。あの、できるはずだったんです。あの、私がふがいないばかりに……あの、とんでもないことを……ごめんなさい」

 おどおどとして、言葉が途切れてゆく。意味が繋がらない。

 最高神官の顔が、ますます冷たく見えてくる。

 エリザが口が利けない状況に陥る前に、言葉の羅列はサリサの一言で断ち切られてしまった。

「謝らないでください。約束してください」

 ぴしりとした言葉。ここまでの強い物言いは初めて聞く。

 エリザはびくついた。

「は、はい。約束します」

 それだけ答えるのが精一杯だった。

 サリサはそれを聞いて安心したらしく、初めて微笑んだ。

「安心しました。フィニエルを呼んできますから、まだ少し休んでいてください」

 いつもの優しい最高神官に戻って、サリサはそっとエリザの頬に手を当てた。しかし、その手はやや冷たく思えて、エリザは凍えたように口を開くこともできなかった。



 サリサの姿が消え一人ぽっちになると、氷柱つららが融けだすように、エリザは泣いた。

 じわりと浮き出して、ぽたりと落ちる。ぽたりぽたり……と、時間だけが刻まれてゆく。

 置き去りにされたように思う。

 しくしく泣くと、岩屋の奥でしゅんしゅんと音が響く。

 その音が、奇妙なくらいに寂しく思えた。

 本当にこの霊山でひとりぽっちになってしまったような気がして、いたたまれない。

 見上げると、岩屋の天井は高すぎて怖い。

 一度散ってしまった自分は、もう一度組み上げられた。でも、心は、まだ分散してさまよっているかのよう。

 さらにしくしく泣いてしまう。


 一生懸命やったことが、どうやらよく思われなかったらしい。

 子供も助かり、命令通りにやり遂げたと思っていたのに。

 最高神官の寿命を浪費させたから? 

 どうも、そうではないらしい。

 天井で舞う銀の粒子は、最高神官の力を受けているのか、先ほどのようにエリザを呑み込もうとはしない。きれいな文様を描くだけだ。

 彼は、この力に翻弄されるような、弱い存在ではないのだ。

 力が違いすぎた。

 サリサとエリザでは、力の差が大きすぎるのだ。

 計り知れない力を、魔族は総称して『神』と呼ぶことがある。まさに、今のエリザにとって、サリサは『神』だった。

 お互いに分かち合おうと言ってくれた。でも、分かち合えるはずがない。

 さらに涙があふれ出てくる。


 どうしても、わけがわからない。

 なぜ、怒らせてしまったのだろう?

 仕え人たちに冷たくされても、祈りが苦手ても、勉強がわからなくても、食事がまずくても、どんなに辛くても……。たとえ故郷に帰れなくても。

 あの人だけは同志だったはずなのに。


 ――自分の力を信じて……

 そう言ってくれたのに。


 ――私を信じないでください……

 それってどういう意味?

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