分かち合えぬもの
1
「あなたがついていながら何てことを!」
最高神官サリサ・メルの、フィニエルの話を聞いて出た最初の言葉は、これだった。
祠の階段を駆け下りながら、サリサはいらだっていた。
この階段は、長すぎる。
伝言を受けて慌てて帰ってきてみれば、最悪の事態が起きていた。
「仕方がなかったのでございます」
後ろを追いかけるフィニエルの声は、冷静だった。
「仕方がないって……そのようなことを、あの人ができるわけないことは、百も千も承知のあなたではありませんか!」
「……」
返事がない。
サリサはさらに苛々を深めていた。
山の気と一体化して、その力を利用しようなどと……。
エリザのような能力のない少女には、到底できることではない。
うまく気を解放したところで、力を利用どころか、何もできぬままに呑まれるのに決まっている。
「あなたにお願いしておけば、安心だと信じていたのに」
岩にこだまするのは、最高神官とも思えない動揺したサリサの声である。
「信じる?」
フィニエルの声が冷たく響いた。
「エリザ様は、サリサ様を信じるとおっしゃいました。ですから、私は、もう何もできなかったのです」
今度はサリサが押し黙った。
「あの方のことを本当に心配なされるのであれば……もう、巫女姫に力があるように見せ掛けるのは、およしください」
フィニエルの言葉がさらに追い討ちを掛けた。
パン配りは、うんざりするほど長くかかった。
今夜は霊山には帰らず祈り所で休み、明日はあの子供の母親を見てから戻ろうか? などと思っていた。
そのような時に、霊山から伝書言の葉が届いたのだ。
伝書言の葉とは、言葉を気にこめ飛ばすムテ独特の通信手段である。とはいえ、魔の力が失われている今の時代、使いこなせる者は少ない。霊山から各地の祈り所へ、各神官たちへ……が、唯一使われているだけである。
おそらく、最高神官だけが霊山にいなくても気を飛ばすことができる存在であろう。
普段は伝書の仕え人のみが言の葉を放つ。しかし、サリサが受け取ったものは、何とフィニエルからだった。
彼女には、かつて強い力を秘めていたとはいえ、もう残された寿命はない。慣れない伝書言の葉を送るのは、かなり危険を覚悟してのことだった。
だから『帰』のみの短い伝言であっても、それが非常に重要な問題を秘めていることに気がついた。
もちろん、エリザのことに違いない。
ゆえにサリサは、頭をひねる者たちを無視して、急遽の帰還を決めたのだ。
「夜道は避けたほうがいいのでは?」
祈り所の管理人の言葉に対し、
「大満月の光があれば、問題はありません」
などと、もっともらしいことを言うことも忘れない。
ただし、供の者を一人も連れずに……というのは、いささか不自然であったかもしれない。
大満月の夜は、あたりが青白く染まる。
かつて子供だったころのサリサは、それが不気味で怖かった。今は、その光を充分に受けることができる。
この霊山までの山道は、サリサにとっては登山などではない。
不思議な力――まさに神が、サリサを運んでくれるかのようである。
だから、呼吸が荒くなるのも、心臓が早く打つのも、まったく別の理由からだった。
控え所の門の前に、月光を浴びて輝くフィニエルは、そのようなサリサをよく知っている。
子供のときも……。
成長したあとも……。
水晶台に、巫女姫は横たえられた。
銀色の髪が打ち広げられて、まるで水のごとく……である。
巫女姫がやろうとしていたことと同じことを、今度はサリサが試みる。
やり方はまったく同じ。手を握り締めて祈るのだ。しかし、巫女姫のようなあやふやさはない。サリサは、完全にこの力を掌握していた。
それでも、エリザを手繰り寄せるのは簡単なことではなかった。
岩屋のこの場所は、霊山の気が一番集まる場所である。
サリサは眠るエリザの手を握り締めながら、かつての最高神官マサ・メルの言葉を思い出していた。
「この水晶の正体を知っていますか? これはムテの人々の気の結晶なのです」
巫女姫が祈りで使う宝玉も、この水晶に似たものである。しかし、大きさ、透明度、すべてにおいて、比べ物にならない。
水晶台は使い方を間違えれば、最高神官といえども寿命を激しく浪費することになる。教えてくれた本人、マサ・メルがそうだったように。
そのようなたいそうな代物を、エリザは、なぜ一人で使いこなそうと思ったのだろう? 祈りの宝玉の扱いも一人ではままならないのに。
その答えは、先ほどフィニエルが教えてくれた。
――最高神官の言葉を信じたから。
サリサは、台座に吸い込まれてしまいそうな、エリザの青白い顔を見つめた。
おそらく……自分がどのように危険な目にあったのかすら、気がついてはいまい。表情は安らかですらある。
いつもエリザに力を貸していた。誰にも、本人にすらも、気づかれぬように。
でも、今回はそれが裏目に出てしまった。
そばにいる時はどうにかなっても、離れてしまえば力は及ばない。さすがにそれだけの力をもつほど、サリサも成長してはいなかった。
今回は間にあった。
でも、またこのようなことがあったら?
守りきれるのだろうか? いつでも助けてあげられるのだろうか?
今日ほど、エリザを巫女姫に選んだことを後悔した日はないだろう。
サリサには暗示の能力がある。
相手がまっさらな状態であれば、物事を信じさせることは比較的簡単なことだ。しかし、ほどほどに信じるよう……という暗示はない。
純粋に信じられれば信じられるほど、狂おしいくらいに辛くなる。
「私は嘘つきなのですよ……」
サリサは、握った指先に唇を押し付けた。
「あなたに素質はありません。すべては、私のわがままであなたを巫女姫に選んだのです。ですから、無茶はしないでください」
そう白状してしまいたかった。
でも……それを知ってしまったら、彼女は巫女姫としてのすべてを無くす。
蜂蜜飴を二人で分けた日、サリサはエリザに自分の気持ちを伝えるはずだった。
だが、笑ってくれると思った彼女は、なんと泣き出してしまったのだ。
サリサにとっては、かなりの衝撃的な出来事だった。
単なる一個人のわがままのために、エリザという平凡な少女が捨ててきたものの大きさ、今後課せられる使命、その重さを、初めて実感させられてしまった。
心から、エリザに申し訳ないと思った。
故郷や家族を思いながらも、巫女姫としてがんばろうとしている痛々しい姿を見せ付けられて、自分の小ささを強く感じて恥ずかしかった。
当然、不純な告白など出来るはずもない。
――大人になりたい。
あの日、サリサは生まれて初めてそう思ったのだ。
身勝手で人を苦しめるような、子供の自分ではありたくはない。
この人を包み込んで守りきれるような、大人になりたい。
分かち合った蜂蜜飴は、サリサにはほんのりと苦く感じた。
願うだけでは大人にはなれない。
サリサは心を乱したまま、ただエリザの意識が戻るのを待つしかない。
やがてうっすらとエリザの目が開いた。
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