2
「離して……くれないと、あなたも一緒にいっちゃうよ……」
声がした。
エリザは驚いて、声が響いたと思われるところに意識を集中した。
そして、自分の手の中に、いつの間にか別の手があるのに気がついた。
女の手だった。
「もう、私の体はもたないからって。それは手放してこちらにおいでって。私、向こうに行かなければならないのに、あなたが手を離してくれないから……」
銀の粒子がゆらゆらと女の形をとってゆく。しかし、エリザの心に響いてくる言葉は、見かけの女のものにしては幼い。
「うまく向こうにいけないの。離してくれないと、一緒にいっちゃうよ」
銀のムテをよくあらわした女。
はるかに成長してはいるが、彼女が流行病に黒く染められた子供であることに、エリザはすぐに気がついた。
間違いない。
肉体を離れてしまったけれど、エリザは手をとって祈っていた。祈りは気をこめること。魂を繋ぐことである。
大人の姿をとって現れたのは、おそらく本来はそこまで生きることができるからだ。子供の寿命は尽きていない。
「でも、向こうに行きたくないでしょ? まだ、がんばれるでしょ?」
女の影は、悲しそうに微笑んだ。
「うん、でも……誰かが呼んでいるの……」
体が引かれていくようだった。
このままだと、女とともに向こうの世界にいってしまうかもしれない。
エリザの体は呼吸していない。心臓も止まっている。
流行病の子供の手を握り締めたまま、冷たく硬直している。皮膚が水晶の台座のように透き通って、青白く見える。
やがて闇色に染まるだろう。
――もう、限界だ。手を離さないと。
戻らないと、エリザ自身の体も死に食い尽くされてしまう。
今のエリザは、まるで宙に置かれた石のようなものだ。当然、エリザの意志にかかわりなく、あるべき方向に落ちていってしまう。
フィニエルの声が脳裏に響いた。
「無理をしないで……あの方は後悔なさいます」
手を離さないと。
しかし、エリザは離しかけた手を再び強く握りしめた。
「いいえ、一緒に戻りましょう。私が、ちゃんと体を元通りにするから。そう、お母さんに約束したのだから」
「お母さん?」
女は、一瞬懐かしそうな声を上げたが、首を何度も振った。
「でも、誰かが呼んでいるから……」
「誰も呼んでなんかいないわ」
エリザの言葉に、女は不思議そうに首をかしげた。
「向こうには誰もいない。誰も呼んだりなんかしない。それは、夢なの」
エリザは必死だった。本当かどうかはわからない。
でも、とにかく少女を引き戻すためには、何か言わなければならなかった。
「向こうには誰もいないから、誰かを呼んだり、励ましたり、幸せにしたりなんか、しないもの」
そう言いながら、エリザは少しだけ悲しくなった。
遠い島に住む人々は、意志ある神を持つそうだ。
神は、人々に愛情を掛け、大切にし、寿命を迎えれば呼び入れてくれ、祈れば希望を叶えてくれるという。
人間と呼ばれるその種族は、ゆえに何の力も持たない。力など持たなくても、神の愛に包まれているのだから、幸せなのだ。
ムテ人たちは、代わりに魔の力を備わった。力を取り入れ、解放する能力を持っていたのだ。しかし、その力は尽きかけている。
ムテにとって、最高神官サリサ・メルは、まさに最後の砦である。
――サリサ様は、辛くはないのかしら?
祈っても、何もすがるものがないのに……。誰からも恩恵を分け与えられないのに。
私たちは、ただ神々しいといって、ありがたく思うだけで救われているのに。
ムテの力が尽きたとき、神は意思を持つのだろうか?
我々を哀れみ、愛し、願いを聞いてくれるのだろうか?
「そんなの、単なる夢で妄想なんだわ……」
エリザが思わず言葉を漏らすと、女はややつまらなそうな顔をした。
エリザは慌てた。
何かあると、他人に夢だとか妄想だとか散々言われて、いつも腹立たしく思ったり、悲しく思ったりしているのは、エリザのほうだった。
「いえ、あのね。夢を見るのって、悪いことではないのよ。とても素敵なことなのよ。こんな夢もあるわよ。元気になってね、お母さんと仲良く暮らす夢。そしてね、大きくなったら……」
そこまで言って、エリザは真っ赤になってしまった。それは、自分の夢だった。
「大きくなったら素敵な恋をして、結婚するとか……」
エリザは巫女姫になるという、もっと大きな夢を実現した。
巫女姫を降りたら、その後は恋をして結婚することも可能だろう。
でも素敵な恋というのは、きっとない。他の誰かを好きになることは考えられない。
先日の行進で見た家族を思い出した。
巫女姫の輿に乗っている限り、あの暖かい家には入れないのかもしれない。
ひとつが叶えば、ひとつを捨てなければならないのが夢。
しかし、捨てきれずに心に温めておくから、ゆえに夢。
――サリサ様と結婚したい……。
私の横で、子供を抱き上げる人が、あの人であってほしい。
女は、何ともいえない微笑をもらした。
実態ではない気だけの存在は、エリザの願いを同時に感じてしまったのだろう。
すっとエリザの手を握り締めた。
「それ……素敵かもしれないわね」
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