生と死の狭間


 フィニエルが出て行ってしまうと、エリザは突然不安になってしまった。

 もしかしたら、とんでもないことをしようとしているのかもしれない。

 エリザは子供を台座の上に置き、癒しのための祈りを捧げた。

 気を近づけるために、香り草も焚かない。薬も使わない。そのほうが、効果が上がると感じていた。

 素の自分であることが、この場合一番いいのだろう。

 祈り続けて……子供の手を握り締める。


 やはり……。力が増幅してゆく。

 銀の粒子が、エリザの頬をなでる。誰かの意思を感じる。

 霊山の意思。力の解放を促し、エリザを分散させようとする意思。


 まるで、川が流れるように。

 ごく自然に。当然の摂理で。

 分散して散ってゆく自分。


 一瞬、エリザは体を震わせた。

 ちがうのだ。山には意思などはない。

 確か……最高神官は言っていた。力に意思はないと。意思は、力を操ろうとする側にある。

 でも、今、私を圧倒しようとしているものは……。


「神?」


 意識が遠のきかけたエリザの脳裏に、ふっと、最高神官の声が聞こえた。

 それは、いつの会話だっただろう? 確か祈り言葉を教わった時のことだ。

 エリザが、サリサを「神のよう」と言ったことに、彼は複雑な反応をしたのだ。

「私は、神なんかではありませんよ。ただのムテ人の一人に過ぎません」

「でも……全然同じとは思えないんです。私とは……」

 力が違いすぎて、サリサが出来ることをエリザは出来ない。同じ言葉を同じように唱えても、同じ結果は導き出せない。

「同じです」

 最高神官の結界が緩む。すっと抱き寄せられると、心臓の鼓動を感じた。

 今は、本当は祈り言葉を教わっている時間ではなく、本来は抱き合っていなければならない時間だ。それでも、サリサはエリザの疑問には、納得がいくまで答えてくれるのが常だった。

「神官は神ではありません。力を操るものであっても、力そのものではないのです。神とは、自然の大いなる力。不思議な秘密に満ちているので、大いなる意志……とも呼ばれますが、人格はありません」

「どのようなものなのですか?」

「どのようなものかわからないものに、私をたとえたのですか?」

 エリザはサリサの胸の中で、恥ずかしさに湯気が出そうになっていた。その熱っぽい頬に手を当てて、サリサはエリザの顔を見る。

「神は力。純粋な力です。手も足も耳も目も何もない。だから、何も感じないし何も思わない。何も悲しまないし、何も期待しません」

 エリザにはちっともわからない。目を丸くして聞いているだけだった。

エリザが不思議そうにすると、サリサは必ずくすっと笑う。そういうときは、フィニエルの言うとおり、確かに少年らしさが漂う。

「神には意志がありません。でも、神官には意志があります。たとえば……」

 真剣に聞いているエリザの耳元で、サリサは呟いた。

「たとえば……あなたを抱きたいとか」

「え? 今、抱いているじゃないですか?」

「そういう意味じゃなく……」

「……あ……」



 ――神には意志がありません。

 山にも意志はありません。ただの力の集合体です。

 強い力を見ると、どうしてもそこに意志があるように感じるものなのです。

 意志は操るほうにあるのです。


 しかし今、山の圧倒的な力に触れて、エリザは力の意志を感じていた。

 体が硬直する。それは一瞬で、今度は体が軽くなる。

 それも違った。エリザは高みにいた。

 ふわふわと浮いた感じがする。下を見下ろすと、子供の手を握りながら祈っている自分がいた。

 水晶の台座に銀の髪を散らしながら、病魔に食い尽くされたかのような肌の子供を、包み込むようにして祈っている。が……。

 エリザの口は、もう祈り言葉を発してはいなかった。呼吸もしていない。ただ、子供の手を握って青白い顔をしているだけだ。

 水晶の透明は、あたりの黒を透かして、より黒い。漆黒の闇だ。 

 ぞっとする。怖い。

 死の香りがした。

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