2
手の中の子供は、死にかけている。
人はどれくらいの寿命を持っているものだろうか?
長い階段を下りながら、エリザは考え込んでいた。
ムテの人々は、それぞれに一様ではない寿命を持つ。
まるで人間のように短く燃え尽きてしまうものもいれば、マサ・メルのように五百年以上の長命を持つものもいる。
ウーレン本国の年齢に合わせて表現すれば、エリザは十四か十五歳という年齢に思われるだろう。しかし、彼女は二十歳である。
だが、ムテにおいては重ねた年月よりも、今がどのような形態をとっているかが大事である。
力というものが、その者の成長具合と比例しているムテでは、百年生きた子供よりも二十年生きた大人のほうが、はるかに充実しているのだ。
しかし、ムテ同士でもお互いがどのくらいの寿命を持って、どのくらいの時間を生きてきたのかは、計ることができない。
自分だけが、あとどのくらい生きられるのかを知っている。
時に捧げられし者……さまよう者。
余命一年と気がついたとき、ムテ人たちは旅立つのだ。
メル・ロイとしてさまよい、仲間に老体を見せることなく散るために。
その一年で、ムテ人は百年分歳をとる。
フィニエルもメル・ロイである。しかし、霊山の力によって、彼女の一年は何十年にも引き伸ばされている。
――トア・メ・ラモーラ・ムメ・アモーラ・メル・ロイ・タリラ……
「我ら、生の衣を脱ぎ捨て、すでに時に捧げられし者。今、在りし生は幻に過ぎず、命とは何ぞと、さまようのみ……」
エリザの心を読んだのだろう。時を終えた人の言葉をフィニエルがつぶやいた。
この山の力はいったいどこから来るのだろう?
増長していく自分の力に、エリザは翻弄されかけながらも、不思議に思う。
魔の島には、計り知れない古代からの力が宿るところが二ヵ所ある。
このムテの霊山と、ガラル山脈南方にあるエーデムリングの遺跡だ。
この秘密や秘密を司る者を、魔族は総称して『神』と呼ぶことがある。だからムテの神官とは、本来霊山の秘密を守り伝える者であったはずだ。
しかし、今は違う。
人々が敬うのは、力なのだ。大いなる魔力を持つ最高神官こそが、神なのだ。
最高神官が山に篭るのは、力の温存のためである。まさに、霊山にまつられた神そのものである。
強い力は、それだけ自らの寿命を削って発散される。いくら長い寿命を授かったとはいえ、霊山以外での力の発揮は、寿命を大いに削ってしまう。
大きな炎ほど、早く燃え尽きてしまうものだ。
エリザは、急に怖くなった。
今、山下りしているサリサは、霊山で受けることのできる保護を受けてはいない。同じことをしていても、はるかに力を使うのだ。
「気を散らせてはいけません」
フィニエルの声が響いた。
「でも……」
「でも、はありません。あの方は、あなたの希望にこたえようとしたのですから。それを承知の行為だったのはないのですか?」
エリザは、初めて自分がとんでもない選択をしたのだと気がついた。
――最高神官が、もしも消えてしまわれたら?
あまりにも恐ろしい想像だった。
「何を愚かな妄想を抱いているのです? 妄想で落ち込む暇がございましたら、しっかりとなさい!」
フィニエルが、呆れて怒鳴った。
「でも、私ったら……」
「確かに愚かな選択だったとは思います。でも、サリサ様は、あなたがお考えになっているほど、愚かではありません。今は大満月。消耗する者もいますが、あの方は利用することも心得ております。今回であの方が浪費する寿命なんて、一年か二年、それでも我々にとっては一大事ではございますが、あの方の長い寿命からすると、芥子粒くらいの長さです」
少し安心した。
最悪の事態はないらしい。しかし、少し疑問もある。
「フィニエル、あなたはあの方の寿命を知っているの?」
「知っているはずもございません」
彼女は自信満々に答えた。この場合、自信をもたれてしまうと、前言の説得力は半減するのだが。
――サリサ様は、なぜ、子供を救うよう命じたのだろう?
場を取り繕うため? いや、そうではない。
どのような命だって、最高神官になれない女の子だって、大事だからだ。
祈りの儀式の間中、心が結ばれた感じがした。ちくりと痛んだ胸は、けしてエリザだけのものではないはずだ。
私が言い出さなかったら、きっとあの方が言い出したに違いないわ。
「ここです」
フィニエルの足が止まった。
気がつくと、いつの間にか開けた空間にいる。
その向こうに、何層もの銀の粒子が舞っていて、さらに奥に水晶の台座があった。
「この台座の上こそ、生命を留める力が強いのです。しかし、同時にムテの技を使う者の寿命を吸収してしまうこともあります」
一瞬、気のせいかフィニエルの声が小さくなった。
黒々とした岩の洞窟の中に、水晶の台座は氷のように透明で、なにやら違和感すらある。
が。
できる限り、ぎりぎりのところまで、やってみよう。
たった今、フィニエルは言った。
「今は大満月。消耗する者もいますが、あの方は利用することも心得ております」
――私にも……出来るのではないだろうか?
儀式のときのサリサの笑顔を思い出す。
「大丈夫、自信をもって……」
そういって握ってくれた手のぬくもり。
――私は選ばれた巫女。きっとできる。
エリザは、決心した。
「フィニエル、ごめんなさい。あの……外してもらえます?」
その言葉に、フィニエルは返事をしなかった。すぐに意味を呑み込めなかったらしい。
「あの、私一人でがんばりますから……」
「いけません」
今度はすんなりと返事が戻ってきた。
子供を癒す祈りの言葉を、フィニエルは唱えることはできない。
彼女は時を終えたメル・ロイなので、余計な力を使うと、たちまち消えてしまうからだ。
エリザは呼吸を整えて、もう一度ゆっくりとお願いした。
「私、一人でこの子を癒したいのです。お願いですから、ここを外してください」
「お言葉ですが、エリザ様。あなた一人でここに置いていくことは、正直危険が伴います。あなたは先ほど、この山の魔力に呑まれそうになったばかり。祈りに夢中になりすぎて、同じ状況に陥ったときに、手助けする者が必要です」
その通りだった。
でも、気を一致させようとするたびに、集中力をそがれていては、おそらく山の力を充分に利用することはできない。
「大丈夫。私、きっとできますから」
「できません」
即座の返答。でも、負けられない。
「大丈夫、あの……。私、今までの私とは少し違うんです」
どこが? という怪訝そうな顔で、フィニエルが睨みつける。その視線に圧倒され、たじたじになりつつも、エリザはがんばった。
「あの、祈りの儀式のときも絶好調だったんです。フィニエルがいなくても、失敗せずにうまくやっていたんです。あの、だから、きっと大丈夫です」
行進のときはともかく、儀式のときは最高神官が横にいた。本当に自分の実力なのかは、エリザにもわからない。
「おそらく……あなたの力ではありません」
「そうかも……でもあの方は、大丈夫って、言ってくれたんです」
フィニエルの顔が呆れ顔になった。その変化に動揺しながらも、エリザは続けた。
「私を選んでくれたのは、サリサ様です。だから……私には、きっとできるんだと思うんです」
「私にはそうは思えませんが」
エリザは力をこめて言った。
「私、あの方の言葉を信じます」
フィニエルの顔が、まるで紙に書いた絵のように無表情になる。ぱかっと割れたように、彼女の口から言葉が漏れた。
「あなたは……信じると? あの方を?」
こくりとうなずくエリザを見ることもなく、フィニエルは視線をそらした。
それはまるで、遠い世界を見つめているかのよう。まさに彼女はメル・ロイである。存在と非存在の狭間を見ているかのようだった。
「信じる……ですか」
フィニエルは何度も飲み込むように繰り返した。
「……信じる……のですか。まぁ、それも良いでしょう」
独り言か、何かの呪文だった。
エリザはきょとんとしてしまった。
フィニエルの反応が、いつもの彼女とは違ったように見えた。が、フィニエルは何かを納得したらしく、立ち上がると岩屋の出口へと向かった。
「わかりました。私はこの場を外しましょう。ですが、けして無理はなさらぬよう……。素質がどうであれ、あなたはまだ、力を持つほどに成長してはいません」
エリザがふっと息をついたとき、階段を上りかけてフィニエルが言葉を付け足した。
「無理はなさらぬよう。あなたが失われたら、あの方はきっと、ご自分の選択を後悔なさいます」
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