祈り所

 ムテ人は、陽に月に星に祈る人々である。

 光こそが受けるべき恩恵。誰もが欲し、求めるもの。

「ですから祈り所は暗く作られているのですよ。求めるものが満ち足りてあれば、祈る必要などありませんから」

 そうエリザに教えてくれたのは、最高神官である。

 彼は、今日はまだ霊山にいる。明日、最高神官は山下りをし、今日の巫女姫と同様……いや、それ以上の大きな行進を行い、夕方、祈り所に着く事になっている。

 その後、ほんの一時の休みをとるだけで本番だ。神官一堂に返して祈りを月に捧げ、厳かな儀式がはじまるのだ。

 そして翌日は、巫女姫と最高神官が、一般人に恩恵を授けるという形式で、霊山で作られたパン――固くてとてもまずいのだけれども――を人々に分け与えて、すべての儀式が終了する。

 今後の予定を思い返し、今日の出来事を振り返る。

 泣いてしまったのはまずかったが、今のところ、大きな失敗もなかった。


 しかし、それにしても祈り所は、暗くてじめじめしていて嫌なところだった。たしかに、本当にお日様が恋しくて仕方がなくなる。

 信じられないほど広い広間は半地下になっていて、外の光はかすかな空気孔から入るだけである。昼間だというのに灯りがいる。

 今夜の寝屋は、さらに地下にある。

 一時の休憩のために案内された部屋に入ろうとして、エリザは一瞬足が止まってしまった。

 じんわりと湿気が漂う。やっと眠れるくらいの小さなベッド。窓は上部にひとつだけ、しかも覗くと広間の風景がかすかに見えるだけである。つまり、外に繋がる窓はないのだ。

 巫女姫の部屋を囚人の部屋と思ったのは、間違いだったかもしれない。この祈り所の部屋を見れば、霊山の部屋は天国である。


 さらに、祈り所の管理人が現れた時には、エリザは軽い悲鳴を上げてしまった。

 管理人は、折れ曲がった腰で火を運んできてくれた。漆黒の衣装が闇に溶けあい、青白い顔と銀の目だけが妙に光る。

 かすかな灯りに、管理人の顔に刻まれた皺が、ますます深い影を落とす。蝋燭に火を移そうと伸ばされた手は、骨の上に皮が張り付いたような枯れたものだった。火がチラチラと揺れるのは、その者の手の震えのためである。

 エリザは恐れおののいて、悲鳴の言い訳のひとつも出なかった。

 管理人のほうも声をかけることなかった。

 このような反応に、もうすっかり慣れているのであろう。ただ、一度だけ頭を下げた。

 そして、ひこひこと体を左右に振りながら、部屋を出て行った。

 扉が閉められた時、まるで祈り所全体に響き渡るような、腹に響く音がした。音は大きくはなかったが、なぜかざわりとした。


 フィニエルからは、聞いていた。

 もうひとつのメル・ロイ――つまり、老いた者たちのことを。

 老いた者は、ムテにはいない。

 ムテは、寿命の最後に一年で百年の歳を重ねる。それを人に見せぬよう、メル・ロイとして旅立ち、人知れず最期を迎えるのだから。

 祈り所を管理する者たちは、霊山の仕え人たち同様、特殊な人々なのだ。ただし、似て非なる存在である。

 時の終焉を迎えつつも、生を保っているという意味では一緒である。しかし、時間が彼らの前をわずかながら多く通り過ぎ、そこで時間が一時的に止まってしまう。

 彼らは、老いを抑えるために闇で生活をする。仕え人たちが霊山で存在を長らえるのと同じように。

 彼らが悪いわけではない。

 だが、老いというものがないムテでは、老人は異形である。

 虫唾むしずが走るほどの嫌悪を覚えて、それを悲鳴という形で、はっきりと態度で示してしまったのだ。あまりに情けない自分の弱さにエリザは恥ずかしくなってしまった。

 蝋燭の光はかすかで、祈り所の牢獄の闇を払拭するには至らない。寝所の陰湿さは、エリザに更なる追い討ちをかけた。

「光は恩恵です。でも、闇は死ではありません。休息なのです。体を休め、また再び歩むために必要な、やはり恩恵なのですよ」

 そう教えてくれた最高神官の顔を思い浮かべなければ、憂鬱さに気が狂いそうになったかもしれない。

「暗闇なんて怖くないわ。明日、また光の中に戻るんですもの……」

 エリザは自分を慰めた。


 しばらくの休憩のあと、衣装を調えるために、付き人たちが入ってきた。

 内輪事行事ではあるが、神官たちへの巫女姫お披露目がある。

 ムテを守る神官たちにも、この儀式の期間以外、巫女姫の姿はさらされることがない。ゆえに今夜、彼らの巫女姫を見定めようとする目も厳しいだろう。

 もしかしたら、明日の儀式を左右することになりかねない。

 そう思うと、また震えがきた。しかし、同時にエリザはブルブルと首を振った。

 ――今のは、武者震いなのよ。


 そう言い聞かせて、一人うなずいた。

 巫女姫らしい美しさを保つ。どうやって歩けばいいか、何度も練習した。

 こっそり、後ろに回ってフィニエルのしぐさをすべてまねした日もあった。わずかな石に躓いたのまでまねをしてしまって、怒られた。

「なぜ、仕え人である私が、あなた様の前を歩かなければならないのです? 何をなさっているのです!」

 ……だって。 

 最高神官が選んだ巫女姫は、立派な巫女姫でなければいけないのだから。

 部屋を出る直前に、エリザは鏡を再度見た。そして、フィニエルがしてくれたように、前に垂れていた髪を背にまわした。

 祈り所の回廊には、かすかな蝋燭が床に置かれている。衣装に引っ掛けないよう気をつけて歩かなければならない。だからといって、びくびく歩くことはできない。


 ――失敗なんかしない。


 エリザは巫女姫としての威厳を保ち、重い衣装に負けることなく、フィニエルのような凛とした立ち姿で、祈り所の闇の中を進んだ。

 その日のすべては、滞りなく終わったのである。

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