祈り所
1
ムテ人は、陽に月に星に祈る人々である。
光こそが受けるべき恩恵。誰もが欲し、求めるもの。
「ですから祈り所は暗く作られているのですよ。求めるものが満ち足りてあれば、祈る必要などありませんから」
そうエリザに教えてくれたのは、最高神官である。
彼は、今日はまだ霊山にいる。明日、最高神官は山下りをし、今日の巫女姫と同様……いや、それ以上の大きな行進を行い、夕方、祈り所に着く事になっている。
その後、ほんの一時の休みをとるだけで本番だ。神官一堂に返して祈りを月に捧げ、厳かな儀式がはじまるのだ。
そして翌日は、巫女姫と最高神官が、一般人に恩恵を授けるという形式で、霊山で作られたパン――固くてとてもまずいのだけれども――を人々に分け与えて、すべての儀式が終了する。
今後の予定を思い返し、今日の出来事を振り返る。
泣いてしまったのはまずかったが、今のところ、大きな失敗もなかった。
しかし、それにしても祈り所は、暗くてじめじめしていて嫌なところだった。たしかに、本当にお日様が恋しくて仕方がなくなる。
信じられないほど広い広間は半地下になっていて、外の光はかすかな空気孔から入るだけである。昼間だというのに灯りがいる。
今夜の寝屋は、さらに地下にある。
一時の休憩のために案内された部屋に入ろうとして、エリザは一瞬足が止まってしまった。
じんわりと湿気が漂う。やっと眠れるくらいの小さなベッド。窓は上部にひとつだけ、しかも覗くと広間の風景がかすかに見えるだけである。つまり、外に繋がる窓はないのだ。
巫女姫の部屋を囚人の部屋と思ったのは、間違いだったかもしれない。この祈り所の部屋を見れば、霊山の部屋は天国である。
さらに、祈り所の管理人が現れた時には、エリザは軽い悲鳴を上げてしまった。
管理人は、折れ曲がった腰で火を運んできてくれた。漆黒の衣装が闇に溶けあい、青白い顔と銀の目だけが妙に光る。
かすかな灯りに、管理人の顔に刻まれた皺が、ますます深い影を落とす。蝋燭に火を移そうと伸ばされた手は、骨の上に皮が張り付いたような枯れたものだった。火がチラチラと揺れるのは、その者の手の震えのためである。
エリザは恐れおののいて、悲鳴の言い訳のひとつも出なかった。
管理人のほうも声をかけることなかった。
このような反応に、もうすっかり慣れているのであろう。ただ、一度だけ頭を下げた。
そして、ひこひこと体を左右に振りながら、部屋を出て行った。
扉が閉められた時、まるで祈り所全体に響き渡るような、腹に響く音がした。音は大きくはなかったが、なぜかざわりとした。
フィニエルからは、聞いていた。
もうひとつのメル・ロイ――つまり、老いた者たちのことを。
老いた者は、ムテにはいない。
ムテは、寿命の最後に一年で百年の歳を重ねる。それを人に見せぬよう、メル・ロイとして旅立ち、人知れず最期を迎えるのだから。
祈り所を管理する者たちは、霊山の仕え人たち同様、特殊な人々なのだ。ただし、似て非なる存在である。
時の終焉を迎えつつも、生を保っているという意味では一緒である。しかし、時間が彼らの前をわずかながら多く通り過ぎ、そこで時間が一時的に止まってしまう。
彼らは、老いを抑えるために闇で生活をする。仕え人たちが霊山で存在を長らえるのと同じように。
彼らが悪いわけではない。
だが、老いというものがないムテでは、老人は異形である。
蝋燭の光はかすかで、祈り所の牢獄の闇を払拭するには至らない。寝所の陰湿さは、エリザに更なる追い討ちをかけた。
「光は恩恵です。でも、闇は死ではありません。休息なのです。体を休め、また再び歩むために必要な、やはり恩恵なのですよ」
そう教えてくれた最高神官の顔を思い浮かべなければ、憂鬱さに気が狂いそうになったかもしれない。
「暗闇なんて怖くないわ。明日、また光の中に戻るんですもの……」
エリザは自分を慰めた。
しばらくの休憩のあと、衣装を調えるために、付き人たちが入ってきた。
内輪事行事ではあるが、神官たちへの巫女姫お披露目がある。
ムテを守る神官たちにも、この儀式の期間以外、巫女姫の姿はさらされることがない。ゆえに今夜、彼らの巫女姫を見定めようとする目も厳しいだろう。
もしかしたら、明日の儀式を左右することになりかねない。
そう思うと、また震えがきた。しかし、同時にエリザはブルブルと首を振った。
――今のは、武者震いなのよ。
そう言い聞かせて、一人うなずいた。
巫女姫らしい美しさを保つ。どうやって歩けばいいか、何度も練習した。
こっそり、後ろに回ってフィニエルのしぐさをすべてまねした日もあった。わずかな石に躓いたのまでまねをしてしまって、怒られた。
「なぜ、仕え人である私が、あなた様の前を歩かなければならないのです? 何をなさっているのです!」
……だって。
最高神官が選んだ巫女姫は、立派な巫女姫でなければいけないのだから。
部屋を出る直前に、エリザは鏡を再度見た。そして、フィニエルがしてくれたように、前に垂れていた髪を背にまわした。
祈り所の回廊には、かすかな蝋燭が床に置かれている。衣装に引っ掛けないよう気をつけて歩かなければならない。だからといって、びくびく歩くことはできない。
――失敗なんかしない。
エリザは巫女姫としての威厳を保ち、重い衣装に負けることなく、フィニエルのような凛とした立ち姿で、祈り所の闇の中を進んだ。
その日のすべては、滞りなく終わったのである。
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