祈り所の申し子
雑念
1
『祈りの儀式』の日が近い。
年に一度、大満月の夜、各地に散っている選ばれた神官たちがムテの霊山のふもとの村に集まり、祈りを捧げる大事な日だ。
神官だけではではない。一般の人も多数参列する、ムテで一番大きな祭りである。
その時だけは、霊山に篭る最高神官も巫女姫も山くだりする。
仕え人たちの多くはメル・ロイ――時を終えた人――なので山から離れることは出来ないが、下働きの者たちや見習いの若い仕え人ならば、やはり一緒に参列する。
普段はのどかに時間が流れるムテにあって、このときばかりは特別なのである。
霊山の日常も、すっかり祈りの儀式の準備のために、大きく変わってしまった。
まずは、村から打ち合わせの者が、ひっきりなしに訪れてくる。
『人々の気は霊山の気を乱す』と言われていることから、別の種族はおろか、ムテの一般人も足を踏み入れることが許されない地であるのに、今回ばかりは特別らしい。
仕え人の控え所にある応接の間にて数人が集まり、綿密な計画の確認作業が行われている。
エリザには控え所まで行く自由はないが、なぜか人々の人数さえも把握できるほど人の気を感じて、落ち着かない日々が続いていた。
癒しの基本を学んでいる時間だというのに、エリザはどうしても集中できない。
「祈りの日が近いので、霊山の力が強まっているのです。気を散らさぬよう……」
そわそわとして勉強がはかどらないエリザに、癒しを伝授する仕え人が注意をする。エリザの落ち着きのなさが許しがたいのか、書物の説明が頻繁に途切れ、注意が入るのだ。
「はい」
返事だけは立派だが、エリザはどうしても気になってしまう。
落ち着こうとしてせわしなく指先を動かしているうちに、つい手元が狂ってしまった。インク壷の端にペン先をぶつけてしまい、壷がコトリとひっくり返った。
「あっ!」
インクは、文字通りあっという間に大事な書物の上に広がってゆく。
すぐに反応する集中力さえない。黒い染みの広がる様を、エリザはしばらく呆然としてみていたが、書物ごとそれはいきなりかき消えた。仕え人がいきなり書物を机から持ち上げ、インクがそれ以上広がらないようにしたためである。
「きゃー! ご、ごめんなさい! わ、私!」
そう言って慌てて椅子から立ち上がったとたん、机を揺らしてしまった。寝転がっていたインク壷はコロリと回転しながら、エリザの服の上に落ちた。
「う……」
何が起きたのか見なくても、エリザにはよくわかった。
ひやりとしたやや気持ちの悪い感触が、白い巫女姫の衣装越しに広がってゆく。しかも、仕え人の冷たい視線が、エリザの腹部あたりに突き刺さっている。
「もう結構です。このような無駄な授業はやめましょう。私も暇ではない身ゆえ……」
真っ白い顔をますます蒼白にしながら、癒しの仕え人は一礼を残して部屋を出て行ってしまった。
授業放棄である。
エリザといえば、白い服のお腹あたりから下を真っ黒にしながら、立ちつくしていた。
我に返るまでに時間がかかった。
ひさしぶりの大失敗。なぜこんなにも愚かなことばかりしてしまうのだろう?
おそらくあるだろう更なるフィニエルのお小言を想像すると、エリザは憂鬱になった。先日、珍しくも彼女に「最近は落ち着きが出てきた」と、ほめられたばかりだったのに。
しんみりしながら机の上を片付けはじめる。
インクを拭くものが見当たらず、しばらく躊躇したものの、袖口でささっと机を拭きだした。どうせ、この服はもう着れまい。
無理やり袖を引っ張り、袖口を握り締めて雑巾代わりにする。半分肩を落としながらごしごしと拳骨で机を拭く姿は、あまり品がよいとはいえない。
そこに雑巾と水桶を持ったフィニエルが現れたのだから、エリザの受けた衝撃ははかり知れない。
その雑巾でひっぱたかれたような気分である。穴があったら入りたい。
しかし、フィニエルは泣きそうなエリザをまったく無視して、手際よく机を拭き始めた。
拭いてもインクを広げるだけの、エリザのような要領の悪さは、まったくない。何度か水を取り替えに部屋を出たが、ただ黙々と仕事をこなしている。
エリザのほうはといえば、白い服の袖口まで真っ黒にしながら、立ちつくしていた。服の肩は落ちたまま。伸びきった袖口からは、指先が出ることはなかった。
フィニエルの掃除は、あっという間に終わった。しかも、とてもきれいに。さらに、自らの衣装も汚すことなくである。
「次はあなた様の番です」
お小言を覚悟していた一言目がこれだった。二言目はなかった。
エリザはフィニエルに促されるようにして、巫女姫の自室へと戻っていった。
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