番外 堺くんの失恋④

 啓と小鳥遊たかなしさんの結婚がいよいよ近づいてきた。

 風呂に入っていても、なんだかぼんやりしてしまう。長い間積み上げてきたものが、水で流されてしまうような気分になる。




「辰巳、スーツ着るの?」

「着るだろう、ふつうに」

「うわー、楽しみ」


 実験に使う道具の入ったコンテナを持って、ふたりで外階段を裏手の畑に下りていた。

「うわっ」

「おい」

 助けてやろうと思ったけれど、両手が塞がっていて腕を掴んでやれない。ちーはそのまま落ちてしまった。コンテナをそこに置いて、走って下りる。


「ちー? 大丈夫か?」

「……ごめん、足が滑っちゃって」

 あちこちに擦り傷ができて、中には出血してるところもある。周りにいた何人かが見に来たけれど、俺が医務室に連れて行くことになった。

「痛い? 歩ける?」

「……わたしのこと、心配してるでしょ?」

「当たり前だろう? 俺の横で落ちて」

「顔が、ふうのこと見てるときみたいになってるよ。落ちてよかった」

「……バカか、お前は」


 ちーのいうことは本当だろうか? 確かに俺は今、ちーのことだけを心配してるけど、心のどこかにまだ小鳥遊さんがいるはず……。

「お前のことはしばらく抱けないな」

「どうして?」

「そんな傷だらけじゃ、何したって痛いだろう?」

「そっかぁ」

 そんな冗談を話しながら医務室に向かったけれど、実際はちーとはあのとき限り、一度しかヤってなかった。


 幸い骨折はなかった。


「家まで送ってくれる?」

「いつものことだろう? 荷物、貸せよ」

「ありがとう」

 ちーはしばらく下を向いて黙って歩いていた。そしておもむろに顔を上げると、

「あのさー、『お試し』終わる前にもう一回、抱いてくれる?」

「お前、自分の傷、わかってんの?」

「あーまー、今日じゃなくてもいいんだけどさ、風たちの結婚式、少しずつ近づいてると思うと……『お試し』終了間近だと思うと、ツラい」

 道の途中でまた黙って、今度は立ち止まった。

「だからね、わたし、ちゃんと忘れるからさ、抱いてくれない?」




「風ちゃーん、結婚おめでとう!」

「風、おめでとう!」


真っ白なウエディングドレスを着た小鳥遊さんは、この上なく綺麗だった。彼女の、俺が見たことのなかった胸まで大きく開いたドレスの肩のラインに、どきりとする。


 すでに先に結婚した香川さんは高城たかぎ夫人になっての再会となった。ドレスを着るのに傷だらけじゃかわいそうに、と思っていたちーも、ガーゼが外れた。


「……堺くんも来てくれたんだ」

 小鳥遊さんが少し潤んだ目で俺を見る。啓は、ぜんぶ知ってるという顔で、俺たちを見守っている。

少しの間、俺と小鳥遊さんだけの時間が流れて、いろいろあったあれこれが思い出される。

俺はやっぱり、啓に負けたのかもしれない。堂々と落ち着いて俺たちを見る啓の顔を見て、そう思う。


「ねーねー、風ちゃん。堺くんとちーちゃん、つき合ってるんだよ」

「え、そうなの? 全然知らなかった」

「風ちゃんが結婚準備で忙しい間、ふたりはつき合いはじめたんだよ」

 香川さんだった高城さんが罪のない笑顔でそう言った。


 とりとめのないお喋りを少しして、席に戻ることになった。小鳥遊さんを振り返ると、やはり俺を見る目が潤んでいる。


「風ちゃんから卒業するよ」

 彼女の顔が少しだけ、歪んだ。それだけで、長い長い片思いをしていた自分が少し、報われた気がした。


 啓を見る。

「風ちゃんを大切にしろよ。いつでも奪いに行く、とはもう言えないからな」

「心配しなくても、風はオレが大切にするよ。約束してるからね」


 俺とつるんでた啓も、就職してすっかり落ち着いてしまった。まるで、ふたりでひとりのような夫婦になったんだろう。


「辰巳!」


 ちーが怪我をしたあの日、俺はちーを抱いた。なんてことはない、俺をすきだと恥ずかしそうに言う彼女をかわいいと思ったからだ。

『お試し』は終わった。

 こうして俺はちーに名前で呼ばれることになった。

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小清水くんと小鳥遊さん 月波結 @musubi-me

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