番外 堺くんの失恋③
ちーは、冗談抜きにすべて初めてだった。「やめてほしい」と言ったキスも。
聞いてみれば小中、女子校育ち。高校のときの同級生と腐れ縁で、もうつき合ってるつもりでいたやつも勘違いだったという、実に痛いやつだった。
「お前さ、それで俺なんかとヤっちゃってよかったの?」
「あー。それね……」
朝のダイニングで彼女はもじもじして、なかなか顔を上げない。熱いコーヒーを彼女が出してくれる。
「今日から学校で顔、合わせづらいね……」
「ちがうだろ、そうじゃなくてさ。もっと、自分を大事にした方がいいんじゃないの?」
ちーはぽろぽろ涙をこぼし始めた。
泣かれるのはいちばん困る……。やさしくしなくちゃならない。
「あのさ、別にはじめては本当にすきな男のために取っておいてもよかったんじゃない?
ちーを大切にしてくれるやつに 」
「
「……何度も言わせるなよ。俺は
「わたしも同じ。辰巳が忘れられない……。風がすきな辰巳を、ずっと見てきたのにどんどんすきになるんだもん」
「……」
俺はわからず屋のために、椅子を引いて座った。
「いい? 大事なことだから、忘れるなよ」
ちーは、こくり、と真面目な顔でうなずいた。
「あー、あれだ。『お試し』。でも俺は啓みたいにお前と強引につき合おうとしない。正直、『お試し』って何をするのかわからないし」
「『お試し』? 一緒にランチに行ったりするんじゃないの? 風たちはしてたよ」
「じゃ、そういうの。あのふたりの結婚式まで。でも、『お試し』のうちは人に言うなよ」
「いいの?」
「聞いてた? 人には言うなよ。……それから、名前で呼ぶなよ」
「……なんで?」
「つき合うまで、ダメ」
小鳥遊さんにも名前で呼ばれたことはない。
それから俺とちーは、周りから見たらなんとなく、「いつもよりふたりでランチを食べに行くことが多くなったんじゃないか?」くらいの仲になった。
学校ではそれくらいでも、一応、暗くなれば送ってやったし、そのときに少しちーの部屋に上がることもあった。『お試し』とはいえ、最初がアレだったので、キスくらいはした。ちーは、してほしいとよく言った。
「自分のこと大切にしろって言ってるだろう?」
「……風にはそんな言い方しないのに……」
こいつはいわゆるツンデレなのか? ……本当によくわからない。しかも、こんな赤裸々なこと、相談できる人もいないしなぁ。啓はああ見えて奥手だし。
そのうち研究室で飲みがあって、案の定、気がつくとちーは浴びるほど飲んでいた。ビールから始まって、ワイン、日本酒、焼酎……。酒に強いのか弱いのか、とにかくよく飲む。
「ほら、ちー、帰るぞ」
「んー、辰巳、立てない……」
「立てなくなるまで飲むなよ」
まったく、と思いつつ、肩に腕を回してちーを立たせる。
「堺さーん、深見先輩とやっぱつき合ってるんですよね?」
後輩その1に聞かれた。
「は? なんで?」
「だって今も深見さん、堺さんのこと下の名前で呼んだじゃないですかー?」
……だから名前で呼ぶなってあれほど言ったのに。
「小鳥遊先輩も来月、結婚しちゃうし、先輩も心の切り替えできてよかった」
後輩その2(女子)に言われる。
「小鳥遊先輩をずーっと想い続けてる堺さんも、ロマンティックで素敵だと思ったけどね」
ふふふ、と女子たちは微笑んだ。
まさか、周りからそんなふうに見られてたなんてちっとも思っていなかったので、いつになく動揺した。
そのとき、ちーが突然、自分の力でつま先立ちになり、俺にいきなりキスをした。
「そうなのー、辰巳は風が忘れらんなくて、わたしは辰巳がすきだったからずっと大変だったんだよ。ロマンティックでしょ? 辰巳、送って?」
さっきまでの泥酔状態が嘘のような足取りで、ちーは重い扉を開けた。
「ごめん、約束破って名前で呼んじゃって、失敗。許して」
ちーは深く頭を下げた。
「あー、まー、大筋は間違ってなかったからいいよ。みんなが俺が小鳥遊さんをすきだってこと知ってたのはびっくりしたけど」
「見てればわかるじゃん。……風のピンチになると駆けつける辰巳、すごーくステキだった」
「なんだよ、それ?」
「……そういうの見てたら女の子はみんな惚れちゃうってことよ! 言わせないでよ」
学部の冷たく白い壁が続く階段の踊り場で、ちーとキスをした。いつか、この建物の入り口で啓と小鳥遊さんがキスしてたのを見たことを思い出す。あの頃は悔しさでいっぱいだったのに、今はちーに今まででいちばん深いキスをしている。
「辰巳……攻め上手」
ちーが、はぁっと、息を継いでそう言った。
「風にもしちゃえばよかったのに。きっと、落ちたよ」
「うるさいな。……しても落ちなかったんだよ」
少しだけ愛おしいかもしれない、と思ったのに気持ちは振り出しに戻る。
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