第5話・ロンリー・プレイス・アヴェニュー

 「その本には触るなと言ったはずだぞ」


 いつの間に帰っていたのか、僕が読み終えた本から顔を上げると共に、タケじいがそう声をかけてくる。


 「……なんなんだよ、これ」


 僕は思わずそう呟く。


 「松元重五郎が自ら命を断とうとする友人に向けて送った、小説のような長い手紙だ」


 「……なんだ、もう読んでたの」


 「もちろんだ。売り物じゃなく、数少ない俺の私物だ。かれこれ五回は読み直している」


 「……自殺って何さ?」


 「ちょうどその本が書かれた頃、年号はとっくに明治から大正へと変わっていた。世間にはすっかり西洋の文化が定着し、各行政・各自治体はこぞって美しく近代的な街並みを造ることを競い合っていた。さらに、その数か月ほど前に首都圏で起こった大きな地震によって露呈した古い木造日本家屋の脆弱さに、建物を耐震・耐火に優れた鉄筋コンクリートのものに移行していこうという世論が一気に高まった。……その辺りのことは現役高校生のお前の方が詳しいんじゃないか?」


 「いや、歴史は苦手なんだよ」


 「……ふん」


 何か毒づいてくるかと思ったけれど、タケじいは意外にも余計なことは何も言わずに続きを話し始める。


 「仕立て屋の松本の個人的作業場、つまりは師匠から受け継いだ作業場がある地区も、その流れの中にあって例外ではなかった。造りこそ古き良き英国の洒落たレンガ造りの物だったが、築年数がゆうに四十年以上も経っていた建物は外見にもわかるくらい相当ガタが来ていた。世界遺産の寺院なんかに見られるように、昔の建物の方がかえって丈夫で長持ちする例もあるが、そんなものは例外中の例外、今ほど建築技術の発達していなかった当時の築四十年じゃ、蓄膿気味のオオカミが鼻息をかけただけでも簡単に吹き飛ばせそうな程に脆い代物だった。松本はそれでもなんとか金をかけてそこを維持してきてはいたし、これからもそうやって未来永劫まで建物を残そうとしてきた。だが、何に付けても限界というものは必ず存在するもんだ。景観がどうこういうよりも、日本の洋装界を牽引する大切なリーダーが家に潰されたら大変だと、地域の首長や織物業界の大物やらが直々に説得に訪れ、松本は泣く泣く師の遺産を手放すことを承諾した。それがちょうど、重五郎と酒を酌み交わして泣いたあの日の午前中だったそうだ。……まあ、渋々ながらとはいえ、結果としてその取り壊しの決断をしてしまった自分に絶望してしまったんだろう。それまでなんとかギリギリのラインで保たれていた生と死の均衡が大きく傾いた。建物と一蓮托生、松本は作業場の取り壊しの当日、すべてを見届けた後で自分も師の思い出と共に去ろうと心密かに企てていた。そしてそんな企てを敏感に察したのが松元重五郎だった」


 「そんなに簡単に気づかれるなら全然、密かになってないじゃない」


 「いや、重五郎が特別なだけだ。松元重五郎……もとい元木五郎は聡明でとても思慮深い人間だった。物語の中では、こうと思ったら昼夜をまるで考えないで友人の家の戸を叩く、直情的でどこか滑稽な人間として自らを描いていたが、あれはなんというか、重五郎なりのユーモアだ。むしろ本当の彼は、無作法な友の訪問を少しも迷惑がらず親しげに微笑んで出迎えた松本のように、とても穏やかで超然とした人柄だった」


 「まるで神様か仏様みたいに松元重五郎のことをよく知っているんだね」


 「本は色々なことを教えてくれる。物書きが創造の神と言うならば、読者は想像の神となってこの世の全てを知りうる」


 「超然としているのはいいんだけど、僕には彼のことがただの変人みたいに見える。自殺の気配に気付いたなら直接言って止めた方が話は早かったんじゃない?わざわざ小説だか手紙だかよくわからない本まで印刷して、手遅れになったら元も子もない。そうだよ、事実、ちゃんとこの本を手渡して、なおかつその意図を松本がキチンと汲んでくれたとはどこにも書いてないじゃないか」


 僕は一体、何を意地になって松元重五郎の人と成りを否定しているのだろう?何で彼を認めることを簡単に良しとしないのだろう?


 「重五郎は聡明でとても思慮深い人間だ。他人を思いやれる優しさと確かな英知を併せ持った本物の人格者だった。……しかしそれらが束になっても勝てないくらいに、とにかく不器用な人間だった。特に相手が親しければ親しい程、愛しければ愛しい程、自分の愛情を素直にぶつけるということがうまくできなかった人だった。……俺がこの作家の好きなところは、数々の美点よりもそういう人間臭いダメなところなんだ」


 「ふん……」

 それでも一生懸命、松元重五郎を否定しようとする自分がいて馬鹿らしいと思う。


 不器用で素直に愛情を示せないのなら僕だって負けない。


 「……まあ、不器用で素直に愛情を示せないのはお前だって負けないな」


 僕の心を見透かしたようにタケじいは言う。


 「そしてその天邪鬼あまのじゃくな性格はきっと親譲りなんだろうな」


 「え……?」


 「ロクに飯代も持ってないだろうから渡してくれって」


 そしてタケじいは、ずっと手に持っていた小さな紙袋を僕に手渡す。


 手にした瞬間、もちろん僕はそれが何であるのかがわかる。


 心持ち冷めてはいるけれど、次の日の朝でも衣のサクサクとした食感が変わらないと評判のうちの惣菜屋の自家製コロッケだ。

 

 個数は五個。


 僕が生まれる前からずっと食べていた物だから、中身を見なくてもそれくらいは簡単に言い当てられる。


 「相も変わらず繁盛してるな、お前のとこは。毎日座りっぱなしで足腰の弱った年寄にあの行列はしんどいだろうなぁなんて思いながら店の前を通りかかったら、お前の両親、俺を見つけるや否や他の客なんてうっちゃって俺にそいつを手渡してきた。そんで毎日揚げ油がはねてるんだろう、二人ともあっちこっち火傷して赤くなってる手で俺の手をガッチリと握って何回も頭を下げるんだ。『うちの馬鹿息子の面倒を毎日見てくれてありがとうございます。アイツは我儘で屁理屈こきで救いようもない馬鹿野郎だから、迷惑をかけるようならさっさと見捨ててやってくれても構いませんから』だと。全く、お前たち親子と会話する時には裏の意味まで探らないとダメだから他の奴らと話すよりも骨が折れる」

 

 唐突に柱時計が鐘を打つ。ゴーン、ゴーン、と六回なって止まった鐘の音は午後六時の到来を僕らに告げるとともに、張られたばかりでまだしっくりとは馴染みきってはいない不完全な夜の帳を厳かに揺らした。

 

 ……そう言えば朝から何も食べていないことを思い出して急に腹が減る。


 僕は紙袋の中からコロッケを一つ取り出して無心で齧る。


 食べ慣れ過ぎてしまって最近では何も感じなくなっていたけれど、空っぽの胃袋に入れたことで、改めて僕はうちのコロッケの美味しさに気がつかされた。


 丁寧に処理された程よい甘味の北海道産ジャガイモと、前身の肉屋から受け継いだ秘伝のレシピを元に様々な部位が配合された牛と豚の合挽き肉の見事なまでの調和。


 荒さの違うパン粉を混ぜる比率から細かい揚げ油の温度と時間まで、これまた門外不出のノウハウによって生み出された、出しゃばり過ぎない程度にサックリと歯切れのいい独特の衣……。


 まるで、気の置けない友との肩ひじ張らないゆっくりとした語らいの一時を思わせるような、シンプルかつほっこりとした味わいが食べる者を飽きさせず、人々の舌を魅了してやまない。


 ……僕はあっという間に一つのコロッケを平らげてしまう。


 何もない胃にいきなり揚げ物を入れるのはどうかと思う人もいるだろうけれど、うちの店で使っている油は、お年寄りにも病人にも優しい特別な油を使っているから全く胃にもたれないのだ。


 「ちなみにもう一つだけ小耳に挟んだ面白いネタがあるけど聞くか?」


 タケじいは僕を番台から追い払い、いつもの所定の位置に腰を落ち着ける。話をするというわりには僕が今まで読んでいた『ロンリー・プレイス物語』を開く。


 「いいよ、別に話さなくても」


 「どっかの高校で、教師同士が職員室で殴り合いのケンカをしたらしい」


 もちろんタケじいは僕の言葉なんて頭から無視する。


 初めから僕の意志がどうという問題じゃない。


 要するにタケじいが喋りたいから喋るのだ。


 僕は緩んでいたスニーカーの靴ひもを一度解き、また結び直す。


 「テレビや新聞なんかで教育現場の崩壊だなんて言葉をよく見るようになったが、まさか職員室で教師がケンカをおっぱじめてしまうとはな、世も末だ。なんとなく学校にいかないことにしたお前の判断は、あるいは懸命だったのかもしれない」

 

 僕はつま先を床にトントンとして靴を足に馴染ませ、目当ての本を探しに棚を探った。


 是非とも作品を一から全て読んでみたい作家ができたのだ。


 「どうしてそんなことになったのか?これまた原因も原因でな、朝の職員会議でとある不登校の生徒の処遇について議題が上がったんだが、そんなやる気も根気もないお荷物なクソガキは、学校の評判を下げるだけ、他の生徒に悪影響が出るからさっさと辞めさせるべきだと発言した教師がいた。もちろんインテリメガネ野郎のそいつがこんな露骨な言い方をしたわけじゃないが、陰険で遠回しな分、余計に意地が悪く聞こえたんだろう。向かいの席に座っていた、お荷物クソガキの担任の教師が顔を真っ赤にさせて反論した。あいつはお荷物なんかじゃない、俺の可愛い生徒だ!とでも言ったらしいが、それでも嫌味ったらしく生徒を侮辱しようとするメガネに担任が思い切り殴り掛かっちまったから、もう大変だ。神聖なる職員室の中で渦巻いた混乱と衝撃に巻き込まれ、誰が何を言ったのかなんて正確に覚えていられる図太い人間はそうそういない。……まったく、ガキに勉学や倫理や人生を教えたもう聖職者が聞いて呆れる。うん、お前が朝に言ってた『大人は身勝手論』は的確に的を射た論理だったわけだ」


 「……あ、あった。この本借りていくから、よろしく」


 僕は書棚から一冊のぶ厚い本を取りだす。全十五巻ぞろいの文学全集のうちの一冊だ。


 「『うちは図書館じゃない論』をいつになったら受け入れてくれる」


 「ガリレオの『地動説』だってなかなか受け入れてもらえなかった」


 「バチカンの公認はとっくに受けている。頑なに異論を唱え続けているのはお前だけだ」


 「ねえ、この『松元重五郎全集』だけど……全十五巻で幾らぐらいするの?」


 「そうだな……お前んとこの八十円のコロッケが一万二千個ってとこかな。まあ、知り合いのよしみだ、一万一千五百個くらいにまけといてやる」


 「なるほど、なるほど」

 

 僕は頭の中でざっと計算する。暗算はあまり得意ではなかったけれど、これ位ならどうってことはない。


 ……払える払えないは別として。


 「……出世払いってことでいいかな?」


 「出世するには就職しなくちゃならないし、就職するには昨今の世情を踏まえると高校くらいは最低卒業しておかなくちゃならない。そして高校を卒業するには学校に行って勉強をしなくちゃならないし、学校に行くには……」


 「明日から学校に行くよ」

 

 僕はタケじいの言葉を遮り、そのまま出口の方へと向かう。


 決して振り向かずに、真っ直ぐ前を見て。タケじいが例の老眼鏡を下げた上目づかいでこちらを見ている視線を背中に感じる。


 「はて、この本に不登校のミソクソ野郎を更生させる有りがたい言葉なんて書いていたっけかな」


 「どうだろう?少なくても、あんな大人達のようにはなりたくないなと心から思ったよ。出てくる人がことごとく不器用で、みんな損して生きてるみたいに見える」


 「ふん」


 そう鼻で笑ってから、タケじいが『ロンリー・プレイス物語』に目を落とした気配がわかる。


 「……ねえ、歩く百科事典、いくつか聞いてもいいかな?」


 「なんなりと」


 「結局、松元重五郎は友達を救えたの?」


 「ああ、救えた。この出来事がきっかけで二人の友情は一層深いものとなり、その厚い親交は終生にまで亘った。そして仕立て屋の松本は名実ともに日本洋装界のドンとなり、松元重五郎と筆名を改めた元木五郎はお前も知っている通り日本文学界の巨星となった。……お伽話にするにも出来過ぎなくらいのハッピーエンドだ」


 「その二人と、この商店街は何か関係があるの?」


 「さあ、それはさすがに歩くブリタニカ事典にもわからない。ただ二人のうちのどちらかが、もしくは二人が協同してこの商店街の原型となったに何かしら関係していたとしても別におかしいところはない。なにせ相変わらず『ロンリー・プレイス・アヴェニュー』についてハッキリとしたことは何一つわかっていないからな。可能性は無限大だ」


 「ふーん……。それじゃ、本は人を変えることができると思う?」


 「お前はどう思う?」


 「……明日、学校に行くよ」


 「それはさっき聞いた」


 「頑張って出世する」


 「俺が生きているうちにたのむぞ」


 「……ちなみに小学校の頃にさ、僕が熱心にこの商店街の歴史について調べていたこと覚えてる?それでどうしても『ロンリー・プレイス・アヴェニュー』の由来がわからないってタケじいに相談したことあったろ?」


 「知らん。なんで俺がそんな身の肥やしにもならないことを覚えていなくちゃならない」


 「ごめんね。多分大変な思いをして探してくれたのに、課題が終わった途端、一気に興味がなくなった僕に渡し損ねたんだよね?」


 「知らんと言っている」


 「……ありがと」


 背後でタケじいが口をひん曲げて微笑んだような気がするのだけれど、さすがに目で見もしないでそこまで感じられる程、僕の背中は熟練してはいない。


 そう、僕はまだ十七歳。中くらいのランクの私立高校に通うごくごく有り触れた高校二年生で、今時お伽話にもならないくらいの出来過ぎた話や、素直になれない大人達から垣間見える不器用な優しさにもわりと簡単に感化されてしまうような未熟者なのだ。



 

 タケじいの古書堂を出て僕は歩き出す。


 街頭の時計は今まさに午後の七時を指そうとしている。


 きっとタケじいのところでは、またあの柱時計が一時間に一度の大仕事をそつなくこなすべく万全の準備をしているに違いない。

 

 僕は立ち止まって夜空を見上げてみる。


 空には『星辰街商店街』と名乗るにはやっぱりもう少しという程度に星々が瞬き、そのギャップを何とか埋めようとするかのように大きな大きな満月が一つ浮かんでいる。


 『月はなんでも知っている』という言葉を残したのは確か松元重五郎だったなとふと思い出し、僕はさすがだなと思った。


 そう、月は何でも知っている。


 かつてこのが『ロンリー・プレイス・アヴェニュー』だったことも。

 かつてこの世界に一人のイギリス人の青年が確かに生きていたことも。


 そんな青年を救えなかったことを長らく悔やみ続けた男がいたことも。

 

 そんな彼をなんとか救おうと必死でペンを走らせた男がいたことも。

 

 一人のひねくれた性格の少年が孤独性を装いながら、その実、内心では寂しかったのだということも。


 月はいつでもそこにいて全てを見届けてきた。


 ……そしてこれからもきっと見ていてくれるはずだ。


 僕がかつての『ロンリー・プレイス・アヴェニュー』を真っ直ぐに歩いて家に帰り、両親に向かって元気にただいまと言って笑うことも、明日学校の読書クラブに顔を出して例の生徒と松元重五郎の素晴らしさについて大いに語り合うことも。


 

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ロンリー・プレイス・アヴェニュー @YAMAYO

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