第4話・ロンリー・プレイス物語

  ◇◆◇

 

 物語は十年の歳月を一息に跳び越える。


 十年もの時間が流れたのならば、きっと青年はあれからどうにかしてイギリスへと帰り、日本での数々の経験からくる戒めの言葉を事あるごとに自分に言い聞かせながら、望みの通り、家族と平穏な毎日を過ごしていることだろうと思うだろう。

 

 ……しかし、青年の姿は変わらず日本にあった。


 日本の小さな街の小さなの片隅にある小さな洋品店の作業場で、相も変わらず妥協を許さぬ真剣な眼差しをしながら布地と対峙し、黙々とドレスを仕立てていた。


 店の構えも作業場の雰囲気も、まさしくイギリスにあったはずの彼の店とそっくりそのままで、今にも家と繋がっているそのドアから彼の妻が顔を出し、夕飯の用意ができたと鳥がさえずるような細く美しい声で告げてくるようであった。


 ……だが、ここは紛れもなく日本だ。

 

 そんなことは起こらない。

 起こるはずもない。

 

 青年はふと顔を上げ、辺りの暗さに少しだけ驚いた顔をした。


 作業に夢中になり過ぎたため、日が暮れていたことにまったく気がつかなかったようだ。


 それに暗いと言っても、空には満月がかかっていた。


 今にも内側から弾け飛んでしまうのではないかという程にぷっくりと膨れた丸く大きな月だ。


 そこから零れる月明かりは、むしろ作業場に吊るされた小さな骨董品のランプを点けるよりも明るいくらいだったかもしれない。


 青年はこんな大きな満月を前にもどこかで見たような気がした。


 そう、あれは初めて日本に行くことを決断した夜、青年はこんな風に懐かしいイギリスの我が家の窓から、同じように一人で月を見上げていた。


 ……いや、同じではない。


 その時の青年は決して一人ではなかった。


 母がいて息子がいて妻がいて、どんなに遠く離ればなれになってとしても、青年には確かに心が繋がり合った家族がいた。


 ……そう、今とは違って。

 



  ***

 



 暴漢に襲われ、道の真ん中で気絶していた青年が次に目を覚ましたところは、泥の上でもボロ宿の部屋でもなく、白く清潔なベッドの上だった。


 体中についていた泥や血の跡はキレイに拭き取られ、かわりに包帯が全身を包んでいた。

 

 ―― やあ、目が覚めたね ――


 青年のベッドの横には、熊のように大柄な白衣姿の西洋人がいた。


 彼は自分はドイツ人で医師をしていると言い、ここは病院なのだと説明してくれた。


 青年が泊まっていた宿と同様に、これも鎖国時代の江戸の世にあって唯一交易のあったオランダの商人が作った古い西洋式の建物を、開国に合せて医療施設に改修したものだそうだ。

 

 ―― 君は幸運だったよ ――

 

 医師はイタズラっぽく笑った。


 ドイツ語特有の訛りが端々に窺えるクセのある英語ではあったが、彼はとても耳に心地良く響くバリトンの声で、青年にことの経緯を話し始めた。


 

 このところ、政府が最重要の国策として掲げる日本の近代化政策を快く思わない日本人による、外国人への暴力事件が多発していた。


 犯人の多くは変革の余波によって失業してしまった下級武士や、新たに定められたばかりの地租改正法に基づく高額な税金の支払いが困難になり、泣く泣く農地を手放してしまった貧しい農民たちだった。


 彼らは青年が襲われた時のように徒党を組み、一人でいる外国人を見つけては完膚なきまで暴行し、身ぐるみをはいだり、金品を奪ったりして逃げていった。

 

 それらを取り締まろうにも、肝心の取り締まる立場にいる日本の警察組織の中に、外国人への排斥観念を持った人間がまだまだ多くいた。


 特に組織として確立されてまだ間もない明治の初期の頃だ。


 上層部や中央に籍を置いた、国のグローバル化を推奨する選りすぐりのエリートたちの間ではそんなこともなかったのだろうが、本当の末端の人々、実際に現場で動き回る藩士あがりの警察官たちには、外国人が関連した事件の解決に消極的な者が多かった。


 このように歯止めを効かすものがいないために暴行事件は後を絶たず、被害者は日を追うごとに増えていった。

 

 こう語っている医師は建築や鉄道整備の技師たちと同じように、医学の西洋化を推し進めるべく明治政府から直々に雇われた、いわゆる『お抱え外国人』の一人だった。


 当時、ドイツの医学技術は世界最高峰として名高かったからだ。


 そしてそんな彼が派遣された病院にも、やはり襲われた外国人が毎日多く運び込まれて来た。どれも死に至る程ではないにしろ、かなりの重傷を負っており、医師は加害者側の恨みつらみの遺恨は相当根深いものなのだろうと推察した。

 

 現状を憂いた医師は、自ら近所の見回りを行うことをかってでた。


 政府が招いた大事な客人に何かあっては大変だと周りの人間が必死で止めるのも聞かず、彼は空いた時間を見つけては街を巡回して歩いた。


 幼い時から武術をたしなみ、身体も人一倍大きかった医師は、例え複数人に襲い掛かられたとしても難なく返り討ちにできるという自負があった。


 そして実際に襲撃の現場に幾たびか遭遇し、その度彼の自信の通りにかすり傷一つ負わないで暴漢を見事蹴散らした。


 医師の浮かべるしたり顔を前にして、反対していた人たちもしぶしぶ彼の見回りを了承するしかなかった。


 ……そしてそんないつもの巡回中に、地面に倒れている傷だらけの青年を見つけたという次第だ。


 医師は、駆け付けるのがもう少し早ければと悔しそうに唇を噛み、申し訳なかったと青年に頭を下げた。

 

 ―― しかしね―― 


 医師は続けた。


 ―― 私がいくら君たちを助けようが、どれだけ暴漢を懲らしめようが、根本的な解決にはならないんだ。彼らは一度や二度痛い目にあったからって襲撃をやめることはないだろう。金品強奪なりただの憂さ晴らしなり明治政府へのささやかな抵抗なりとそれぞれに動機は様々だ。しかしその根源は皆同じ、貧困や格差や政治不信などの負の力だ。そんな鬱々とした気持ちを発散させる矛先として、私たちよそ者の外国人は都合がよかったのだろう。

 日本は長く封建的な社会の中に閉ざされてきた。本当に気の遠くなるような長い年月だ。それが開国という旗の元に外界へと門が大きく開かれて、急激に我々西洋の文化が流れ込んできている。考えてもみてごらん、二百五十年以上も列島をぐるぐると巡って内包し続けて肥大したエネルギーと、その間も歩速を緩めることなく発展していった西洋文化の新鮮で活きの良いエネルギーとが思い切りぶつかり合うんだ。そりゃ軋轢の一つ二つ、歪みの三つ四つでてくるのは当たり前だろう?過去の世界の歴史を振り返ってみても……そう、君の母国のイギリスでも、私の愛すべき故郷のドイツでも、国が変革する時なんていうものは得てしてそんなもんなんだ。あとはここの政府の役人たちの働き次第、軋轢を解消し、歪みを整え、改革によって生じた副作用を治癒して、末端の国民一人一人にまでその恩恵を行き渡らせなければならない。……そうしなければ、いつまでも事態は終息しない。私の気まぐれな巡回くらいでは何の解決にもならない…… ――

 

 その襲撃騒ぎの影響を受けて、元から少なかったイギリスとの船の行き来が、とうとうピタリと止まってしまった。


 金銭的な面でも精神的な面でも一刻も早くイギリスに帰りたかった青年は、思はぬ足踏みを強いられた。


 どうやら最悪のパターンとして考えていた二か月先のキャラバン隊の船を待たなくてはいけないようだ。

 

 売り上げは奪われ、別にとっておいた自分の財布の中身も乏しい青年は、その二か月をどう過ごそうかと途方に暮れた。


 事情を察したドイツ人医師は、自らの技術を手ほどきしている若い日本人医師の実家が織物屋をしていたのを思い出し、元来世話好きな性分である彼は、さっそくその日本人医師に実家へ働き口の問い合わせをしてみてくれるように頼んだ。

 

 古くから続く老舗の織物屋にまでも文化の西洋化の波は確実に押し寄せていた。


 ちょうどその頃、店には洋装についての問い合わせが何件も相次いでいた。


 得意先からの注文で無下にも出来ず、どうしたものかと頭を抱えていたところに、イギリス人の腕のいい仕立て屋が職を求めているという話が舞い込んできた。


 その織物屋にとってはまさに渡りに船だった。


 青年の傷がある程度癒えるのを待って、一度彼の仕事を見させてほしいと織物屋の店主は返答した。

 

 国境を越え、言語を越え、更には和服と洋服と言うジャンルの違いを越えても、手際よくドレスを作り出す青年の仕立ての腕は高く評価され、頑固者ばかりが集まった老舗の織物屋の職人たちを唸らせた。


 見たことのない技術やそもそも洋装がなんたるかもよくわかっていない彼らは、職人らしい飽くなき好奇心と探究心を持って青年の仕事を眺め、要所要所で技術のイロハの教えを乞うた。

 

 そして織物屋のハイカラな末娘が特に青年のことを気に入った。


 店主である父に、青年を店に置いて自分のためにたくさんドレスを作らせて欲しいとねだった。


 可愛い末っ子に甘い店主は最終的にそれが決め手となり、青年が打診した二か月という期限付きではあるが、彼を雇うことにした。

 

 青年にとってその二か月はとても無感覚に過ぎて行った。


 職人に洋装の技術を教え、末娘のオーダーメイドのドレスを作るために布地へ向き合い、懇意になったドイツ人医師と時々酒を酌み交わし、少しづつ日本の生活にも慣れてきてはいた。


 しかし、青年の心はいつでもそこにはいなかった。


 彼の目はいつでもイギリスの我が家と家族の方にばかり向いていた。


 ドイツ人医師のあけっぴろげな友情も、末娘の好意以上の感情がこもった熱い眼差しも、青年には何一つとして見えてはいなかった。


 帰りたい、帰りたい……その一心で指折り数えながら、船が港に着くのを待ち続けた。

 

 そして、いよいよイギリスから大型船がキャラバン隊を迎えにやってきた。


 青年は朝から湧き上がる喜びを抑えきれずにはしゃいでいた。


 わざわざ見送りに駆け付けてくれたドイツ人医師や、すっかり青年を仲間として受け入れていた織物屋の面々は別れを惜しみはしたが、いつもは寡黙で表情の乏しい青年がそんなふうに幸福そうにしている姿を見て、やはり帰国するのが一番彼のためになるのだろうと、青年の出発を祝福した。


 ……末娘だけが終始不機嫌だった。

 

 一人一人と別れの挨拶を交わしていざ揚々と船に乗り込もうかという時に、青年は背後から誰かに呼ばれて振り返った。


 それは青年が初めてキャラバン隊に参加した時に声をかけてくれた友人の行商人だった。


 彼は青年よりもう少し遅くに帰国した後、しばらく家でゆっくりしたいと言ってずっとイギリスに留まっていた。


 その彼が自分とは入れ替わりにまた日本に商売しに来たんだろうと気安く考え、親しげな挨拶と体験談に基づく暴漢への注意をしようと青年は握手の手を差し出したのだが、友人はその手を握り返さずに目を伏せた。


 よくよく見れば、随分と顔色も優れないようだった。


 旅慣れたプロの行商人が今更船酔いをしたというわけでもあるまい。


 ……あまり良い感じはしなかった。

 

 ―― おまえの家族が……殺された ――


 最初、青年は友人の言葉がうまく頭の中で変換できなかった。


 友人の言葉は、まるで意味をなさない、例えば辺りの人々のざわめきや甲高く鳴くカモメの鳴き声と同じように、鼓膜を振るわせるただの音としてだけ青年の耳に入ってきた。


 ……家族が……殺された?

 

 しかし、それは確かに言葉だった。


 しっかりと言霊を宿し、鼓膜の向こう側にある人の心へと入り込むだけの意味や思いのぎっしりと詰まった言葉だった。


 ……家族が……殺された?

 

 それからの青年の記憶はところどころ飛んでいて曖昧だった。


 ことの顛末を説明しようとする友人の顔を強かに殴った。

 何事かを叫んで暴れた。大勢の男の手によって取り押さえられた。


 日本語で英語で諫められた。

 殴られた友人は相変わらず目を伏せていた。


 カモメは相変わらず鳴きながら上空を旋回していた。

 太陽は相変わらず天高くあった。


 驚いて呆然としている末娘と目が合った。


 その顔が妻と重なった。

 そちらに手を伸ばした。


 腕が根元から引きちぎれんばかりに目一杯伸ばした。


 しかし、妻の顔はどんどんと遠のいて行った。


 更に腕を伸ばして呼び止めようした。


 それでも妻はどんどんと遠のいて行った。


 ……待ってくれ……俺を置いて……俺を一人にしないでくれ……。


 それでも妻はどんどんと遠のいて行った。


 ……やがて、音もなければ何も見えない、深い暗闇が訪れた。


 二度と明りなど差し込まないのではいかというくらいに、深い深い暗闇が……。




 犯人はすぐに捕まった。


 か弱い女と年老いた老人、そして何の抵抗もできない小さな子供にしか威張ることができない性格の弱い男で、最初のキャラバン隊で青年と一緒に来日し、テントも隣同士だった商人だ。


 自分の商才のなさを棚に上げ、日本での売り上げが芳しくなかったのは青年のせいだとして逆恨みし、青年の日本への再出発後しばらくして、迫りくる借金の返済にあてるべく彼の家へ金を盗もうと忍び込んだ。


 それは本来、自分が得るべき利益だったのだという歪んだ思い込みを抱えながら。


 しかし、家の者に気づかれて動転した挙句、そばにあった青年の裁断用のハサミを手に取り、そして……。



 この凶行に対し、司法は男に極刑を命じた。

 


 全ては友人の商人が後日教えてくれたことだ。


 青年はそのあらましを実際に自分では見ていない。


 何故なら彼は一度もイギリスへは帰っていないのだ。


 誰もが励ましを兼ねて一刻も早い帰国を彼にうながした。


 言葉では言い表せない程に辛いだろう、惨劇の起こった家の中になど入りたくはないだろう、憎き犯人の顔なんて見たくもないだろう、だが青年には遺族としてやらなければいけないことがある、唯一の生き残りとして全てを見届け、そして亡くなった家族の分まで強く生きなくてはいけないのだ、と。

 

 しかし、青年は閉じこもった。


 織物屋の下宿の部屋で、ボンヤリとした眼差しのまま天井の一点を見つめるばかりの一日を過ごした。


 はた目からはまるで魂を根元から引き抜かれてしまったような無気力な有様に写っていたのだが、決して抜け殻になったわけではない。


 むしろ彼の思考は普段よりも俊敏かつ鋭利に働き、精神世界に置いて青年を厭らしく追い詰めていった。

 

 彼は自分が家族を殺してしまったんだという思いに苛まれ続けた。


 考えれば考える程、悩めば悩む程その思いは強くなった。


 もしも自分がもっとしっかりしていれば父の店を潰さずに済んだのだろうし、もしも店が潰れなければ日本で金を稼いでくる必要もなかっただろう。


 もしも自分が必要以上に金を稼がなければ、欲目を出して再び日本に行こうとだってしなかっただろうし、その余分な金を狙って強盗が入ることもなく、もしも強盗が入ってきても大人しく金を差し出せば手荒なこともしなかっただろう。


 もしもそのお金は夫が命がけで稼いできてくれた大事なお金だから渡すわけにはいかないと言って妻が必死になって抵抗しなければ、もしも母が大声で叫ばなければ、もしも息子が例の大人を居心地悪くさせる眼差しで犯人の男を見つめなければ……。


 その気になれば、もしもやたらればなど幾らでも並べ立てることができた。


 そしてそのどれもを突き詰めて行くと、結局自分がすべての元凶なのだという同じ結論に至った。

 


 青年は食事も摂らず、ほとんど眠りさえせず、ただ静かにゆっくりと、破滅へと向かって道を歩いていた。


 辿り着いた先に待ち受けているものを知りながらも、一歩一歩、踏みしめるように確実に……。


 

 ある日の朝、青年の世話係を志願して務めていた織物屋の末娘が、いつものように食べてもくれない食事をそれでも律義に運んでくると、青年の姿が見当たらなかった。


 彼女は慌てて家族や職人たちに知らせ、皆で手分けして青年の捜索にあたった。

 

 誰もが嫌な予感がしていた。


 どう見ても普通の精神状態ではなかった。


 皆は入水の可能性のある河川や海、首つりを危惧して雑木林などを丹念に見て回った。


 知らせを受けて駆け付けたドイツ人医師も捜索隊に加わった。


 医師としての鋭い観察眼、そして何より言葉が通じるという分だけ、他の人よりも青年のセンチメンタルで繊細な性格をわかっていた医師には、彼の居場所について一つ心当たりがあった。


 ……青年がもしも自死しようとするならば、あそこしかない。

 

 ドイツ人医師の勘は的中したようだった。


 早朝にもかかわらず道にはたくさんの人だかりができていた。


 口々に恐れや好奇や、それなりに同情めいたような言葉を述べてはいるが、誰もが傍観を決め込んだように、どこか冷たく固い声色をしていた。その道は以前、青年が暴漢に襲われて倒れていた場所だった。

 

 医師や織物屋の仲間たちがその人だかりを急いで掻き分けて入っていくと、青年が目を瞑ったまま仰向けになって倒れていた。


 胸には彼の商売道具であるハサミが心臓目がけて突き刺さり、その丹念に磨き上げられた刀身と、まだ真新しく黒味のない赤い鮮血が、朝の陽光を煌びやかに反射させていた。

 


 誰の目から見てももはや手遅れの状態だった。


 しかし、発見したのが早く、その発見をしたのが何と言っても腕利きの外科医であった。


 彼の病院がすぐ近くにあったこともあり、処置も迅速にできた。


 そして実際、出血のわりに傷はそれほど深くはなかった。


 ロクな食事も摂らずに痩せ衰えた青年の腕では、ハサミを心臓まで突き刺すだけの力が残っていなかったのだろう。


 一命を取り留めてやがて青年が目を覚ました時、ある者は泣き、ある者は歓喜し、ある者は安堵した。


 それだけで青年がたくさんの人たちに愛されていたのだということがわかった。

 

 青年はそんな人々の顔を見て涙した。


 両手で顔を覆い、まだ生々しい傷口が痛むのも構わずに青年は嗚咽しながら止めどなく涙を流した。


 皆はようやく青年が家族を失った悲しみを外に出すことができたのだと思った。


 辛く残酷なものではあるがキチンと現実と向き合い、生への道を歩きはじめたのだと。

 


 だが、青年の涙の理由は、皆の考えていたものとはまるで違っていた。

 


 ―― 俺は家族を守れなかったばかりか、死ぬことだって満足にできないのか! ――

 


 青年は泣き続けた。


 体中の水分も、心に蓄えていた潤いも全て流し尽くしてしまうまで。


 ずっと、ずっと、ずっと……。



  ***



 あれから十年が経った。


 青年はおもむろに胸の傷跡を指で撫でた。


 十年経っても隆起したままの肉の赤さや、その内側の疼きは古びることなくそこにあり、今でも執拗に青年を責め続けた。

 

 青年は結局イギリスには帰らず、そのまま日本に残った。


 今では織物屋の店主の正式な養子に入って帰化し、立派な日本名を持った日本人として、その織物屋の流れを受けた洋服専門店の運営を一任されている。


 相も変わらず日本の生活の西洋化の勢いは衰えを知らない。


 この頃ではようやく庶民の暮らしの中にも西洋式の文化が浸透し始めてきている兆しがあった。


 おかげで青年の店の売り上げは年を追うごとに順調に伸びて行き、毎日忙しい日々を送っている。


 日本語も随分達者になり、人とのコミュニケーションもうまくとれるようになった。


 実直な人柄は相変わらず好感をもたれたし、彼を慕って仕立ての技術の弟子入りを志願する者も多くいた。


 養子にまでしてくれた織物屋の店主には素直に感謝しているし、数年前に実兄の紹介で知り合った有望な医者の元へと嫁いだ末娘は、時に夫でさえ嫉妬してしまうほどに相も変わらぬ献身と愛情を持って青年に接してくれた。


 一見すると穏やかな生活を営んでいるようにも見えた。


 青年の元にようやく人並みの平穏が訪れたのだと。

 

 しかし、青年の心に覆い被さる闇はとてつもなく濃密だった。


 ……この十年、何度、その闇に屈して死のうと思ったかわからない。


 それでも遂に死ぬことなく生き続けてきた。


 それは何故か?

 青年は思う。


 俺は今、生きているわけじゃない。

 ただ責めを受けるためだけに生かされているに過ぎない。


 妻から母から息子から、俺は永遠の責めを受けているのだ。

 死んで楽になるなんてことはできやしない。


 俺は決して楽になってはいけない。

 俺は決して幸福になどなってはいけない。


 俺は絶対に誰かを心から愛したり心から愛されたりしてはいけない。


 俺は永遠に一人ぼっちでいなければならない。


 やがてすべてが許され、来るべき時が訪れるその時まで、ずっと。



 ……青年はジッと月を見上げ続けた。


 イギリスでも日本でも。

 自分が孤独でも孤独でなくても、月は変わらずに美しいと思いながら。



 ―― 先生!先生! ――


 そう息せき切って青年の作業場に飛び込んで来たのは、彼の弟子の中でも最も若く、そして誰よりも熱心に技術を学ぼうとする真面目な少年だった。


 どこから駆けてきたのかはわからないが、あどけない顔を歪ませ、全身で激しく息をつく弟子に青年は水を飲ませて落ち着かせようとした。

 

 ―― お、俺のことはいいですから、せ、先生は、早くここから逃げて下さい! ――

 

 弟子は両目を今にも泣き出さんばかりに大きく潤ませ、青年の肩を掴んで体を揺らした。

 

 わけもわからずに困惑する青年の耳に、遠くの方から何やら騒々しいものが近づいてくる気配が聞こえた。


 声とも音ともつかない、何かくぐもった塊が迫ってくるような気配だ。

 

 ―― チクショウ、もう来やがった! ――


 一体何があったのかと青年がいさめるように弟子に問うと、彼は焦りと興奮のために何度もつかえながら脈絡のない説明をした。


 どうやら三週間ほど前に起きた、イギリス船籍の貨物船が暴風雨に遭遇して座礁沈没をしたという事件が関係しているようだった。

 


 青年もその事件のことは知っていた。


 船長以下、イギリス人などの乗組員は全員無事に助かったのだが、乗り合わせた二十人以上の日本人はすべて溺死した。


 それはあまりにも不自然だ、乗組員は日本人を見捨てたのではあるまいか?と、政府も再三抗議し疑惑の追及を強く訴えた。


 しかし、独自に領事裁判権を持ったイギリスの司法に介入するだけの力はなく、つい先日、結局判決は乗組員全員の無罪ということで呆気なく幕を引かれた。


 これは二十数人の尊い命を奪った大量殺人事件だとする日本と、これは何の変哲もないただの不幸な座礁事故だとするイギリスとの両国間における価値観の深い隔たりを浮き彫りにした、なんとも後味の悪い出来事だった。


 その後味の悪さを簡単には受け入れ難かったのは日本国民だ。


 新聞は力強い文面で大英帝国の非人情やあまりにも不平等な裁判制度について糾弾し、それに煽られた人々は裁判のやり直しを訴えるとともに、イギリス人の排斥運動を各地で激化させた。


 その激しさは時に多くの血を流し、死人さえも出していた。


 完全に帰化している身とはいえ、青年の外見は思い切りイギリス人だ。


 ただでさえ一度同じようなことで痛い目にあっていることだし十分に気を付けて歩くようにと、養父である織物屋の店主にちょうど注意を受けていたところだった。

 

 ―― どっから聞き及んできたのか、この街にイギリス野郎が日本人面して暮らしているとか言って、近くの街の過激な奴らが先生を探しに来たんです。俺、今日はその街にちょっと用事があって行ってたんですけど、そんな危ない噂を聞いて急いで帰って来たんです。先生、逃げましょう。ほとぼりが冷めるまでどこかに身を隠していればきっと大丈夫ですから。なに、心配ありません。この街の連中は誰も先生のことを告げ口したりしません。みんな先生を尊敬しているんです。みんな先生の仲間なんです ――


 そう弟子が言っている傍から怒れる群衆の気配はどんどんと近づいてきていた。


 小唄のようなものを大勢で合唱しているのだろうか、聞き取ることのできないざわめきの中にもところどころ節のようなものが付いていた。

 

 急いてばかりいて落ち着きのない弟子を尻目に、青年は随分と冷静なものだった。


 もう一度窓から月を見やった後に一つ大きく息を吐き、ゆっくりとした動作で作業用のエプロンを脱いだ。


 そして簡素なドレッサーに歩み寄ると、中から黒いツイードのジャケットとボウタイ、丈の短いシルクハットの三点を取り出し、姿見の鏡の前に立ってそれらを身につけた。


 ジャケットの袖とボウタイを結んだ襟元から見えるシャツは、出過ぎてもいないし出なさ過ぎてもいない絶妙な具合でその白さを主張し、頭にのせられた帽子は半ば浅く、半ば後ろ気味に傾けて被られ、青年のキレイな額をこれまたいい塩梅に見せていた。


 ズボンと靴が薄汚れた貧相なものであったのが惜しいところではあるが、それは青年が今現在できる、最上級のフォーマルな着こなしだった。

 

 ―― 何やってんだよ先生!早く逃げようってば! ――


 弟子は思わず声を荒くした。


 彼が憤慨するのも無理はない。


 崇拝する師匠の魂をねらう物騒な死神たちの足音がすぐ傍まで近づいている。


 それなのに、とうの師匠は呑気に正装をして鏡の前に立っている。


 せっかく二山分ほどの長い距離を一心不乱に駆けぬけて危機を知らせに来たというのに、それはあんまりではないか。


 すべてが手遅れになってしまう前に……早く!

 

 ―― It's been a long time coming.……(とうとうその時が来たみたいだ……) ――

 

 ―― え?なんですか? ――

 

 ―― ……心配してくれてありがとう ――


 青年は弟子に向かって柔らかく微笑みながら言った。


 風の吹かない夕凪の海を思わせるような、とても静かで心に素直に染みこんでくる温かくて優しい声だった。


 その完璧な日本語の発音は、普通の日本人が話すものよりも的確で美しかった。

 

 ―― ……先生? ――

 

 ―― 心配をしてくれて本当にありがとう。そんなに息を切らして、汗だくになりながらもこんな私を助けようと一生懸命になってくれてとても嬉しい。君は真っ直ぐで優しい心の持ち主なんだろうね。それは君が作る洋服にもちゃんと滲み出ているよ。技術も早さもまだまだ修行がいるけれど、きっと君は将来素晴らしい仕立て屋になるはずだ。君の先生として私が自信を持って保証するよ。……太鼓判を押すって言うんだったっけ、こういう場合? ――

 

 青年は弟子の元へと進み、その自分の胸ほどの背丈しかない少年の頭を優しく撫でた。


 いつか成長した息子にそうするはずだったように、無償の愛と慈しみを込めた掌で、何度も、何度も。

 

 そうしている間にも外のざわめきは音量を増していった。


 もはやその殺気や憎悪みたいなものが発する熱を、肌が敏感に感じとれるくらい近くまで暴徒は迫っているようだった。

 

 ―― さて……君は絶対にここから出て来るんじゃないよ。中までは入って来ないとは思うけれど、念のため机の下にでも隠れているんだ ――


 ―― 先生……早く逃げないと……お願いだよ…… ――


 弟子は青年の柔らかな物腰と、それに似合わぬ固い意志のようなものが窺える瞳に、ついに堪え切れなくなって涙をこぼしてしまった。


 ……この人は初めから逃げる気なんてないんだ!

 

 ―― いいかい、よく聞くんだ ――


 弟子の涙を拭ってやりながら、青年は一層声を和らげ、目の前にいる少年に諭すように言った。


 ―― この国は素晴らしい国だ。みんな優しいし、食べる物は美味しいし、景色や自然、空の色だって本当に世界で一番美しいと私は思っている。だけど何よりも美しいのはね、何と言っても人々の心だ。侍の精神はイギリスで言うところの騎士道精神と同じで、なんと志が高いものかと思うし、『ワビ・サビ』や『粋』だなんていう感受性は他のどの国の国民にも見られない美しく豊かな考え方だと思う。……今こうやって外で騒いでいる人たちにしたってそうだ。あの沈没事故で犠牲になった人たちの顔見知りがあの群衆の中に一体何人いるだろう?見ず知らずの命のためにあんなにも怒ったり嘆いたり、まるで自分が辱められでもしたかのような真剣さだ。もちろん、人種を差別された、国民の主権を踏みにじられたと言って憤っている人も多いのだろうけれど、それでもそんなにまで本気で自分達の権利を守ろうと立ち上がれる、強くて素晴らしい日本国民の一人になれて、私は本当に誇らしい気持ちでいっぱいだよ ――

 


 青年はもう一度だけ弟子の頭に手を置き、そして白い歯を見せてニッコリと大きく笑った。


 いつもどこか陰がかった淡い表情しか見せない師匠が、こんなにも顔全面を崩して笑うのを弟子の少年は見たことがなかった。


 その顔がなんと若々しかったことか……。


 熟練工のような落ち着いた佇まいと乏しく動きの少ない表情、そして何よりも子供らしい畏敬の念から、少年の目にはかなりの老齢のように写っていたが、改めて自分の先生がまだ年の頃三十あまりの青年であることを思い出した。

 

 そして青年は弟子の頭の上から手を放し、外へ続くドアへと進んで行った。


 おそらくその薄い扉を一枚隔てた向こう側の世界には、いきり立った群衆が待ち構え、青年を遥か遠い場所へと連れ去って行ってしまうのだろう。


 ―― ……だけど、私はイギリス人なんだ ――


 ドアの方を向いたままで青年は言った。


 ―― 名前と国籍をもらい、日本語を喋り、こうやって当たり前のようにこの国で十年も暮らしてきた。君も織物屋のみんなも本当に私によくしてくれた。家族を失い、生きる希望を失った私に愛情を持ってすごく優しく接してくれた。それがどれだけ救いになったかわからない。……だけどね、私はやっぱりイギリス人だ。固くてまるで味気のない安物でもやっぱりお米よりもパンが好きだし、ススの掃除や温度調整が大変だけれどやっぱり暖炉の炎の揺らぎがとても恋しい。日本人になるには私はあまりにもイギリス人過ぎたようだ。……そして、そんな母国にももはや私の帰る場所は残っていない。そう、私にはもうどこにも居場所がない……ここは……この世界は私にとって、ただただ広くて大きいだけのLonely Placeだったんだ ――

 

 ―― ……ロンリー……? ――

 

 不意にドンドン、ドンドンとドアが叩かれて弟子の少年はビクリとした。


 確固たる意志を感じさせる激しいノックだった。


 ノックの主は何事かを大声で叫んでいるようなのだが、辺りの喧騒が更に輪をかけて騒がしかったのでうまく聞き取ることができなかった。

 

 ―― それではそろそろ失礼するよ、ミスター・マツモト ――


 青年は弟子の方に向き直り、頭に被ったシルクハットを脱いで仰々しくお辞儀した。


 ―― これから私の身に何が起こっても、君は誰も憎んではいけないよ。これは全て私が自分で招いたことであり、私はそれがやってくるのを長く待ち続けていたんだ。……そして、この先の君の人生に何があったとしても、君は日本人として生まれてきたことに誇りを持って生きなさい。これから日本はきっと誰もが驚くような大きな成長を遂げて、世界の先頭に立つような立派な大国になるはずだ。何せほら、これだけのエネルギーに満ち溢れている国民がいる国なんだからね ――


 ドアは相変わらず強くノックされていた。


 もはやノックというよりかは、そのままドアを叩き壊して中に侵入してこようとしているかのように、ひどく暴力的なノックだった。

 

 ―― どうだい、この恰好は似合っているかな?こうやっていれば、どこからどう見ても立派な英国紳士にしか見えないだろ? ――

 

 最後に青年は茶目っ気もたっぷりにそう言って、また優雅な仕草で帽子を被り直した。


 そして再びドアへと向き直ると錠を外し、ドアノブに手をかけた。


 ……その広い背中はまるで、大事な招待客の到着を出迎えるために出て行く屋敷の主人のように、喜びと誇らしさの満ちた堂々としたもので、そこに恐怖や躊躇いの色など一欠けらも見受けられなかった。


 


 ……どれくらいの時間、少年が隠れていたのかはわからない。


 彼がふと気がつくと、辺りには凛とした静けさが漂っていた。


 まるで荒れ狂う嵐が、時間の流れや世界中のあらゆる音さえをも共に巻き上げてどこかに運び去ってしまったかのような、完璧な静寂だった。

 

 少年は作業台の下から這い出し、おそるおそるドアを開けて外の様子を窺った。


 そこには誰もいなかった。


 そればかりかその夜の出来事の全ては、自分が狭い台の下で見た夢か幻だったのではなかろうかと彼が思わず訝ってしまったくらいに、変わらぬ街並みと平穏がそこには広がっていた。


 相変わらずの美しい月夜に、少年はホッと胸を撫で下ろした。

 

 しかし、所詮それが無力な子供が抱いた、はなはだ愚かしい現実逃避にしか過ぎなかったのを彼は直ぐに痛感する。


 薄くたなびいた雲が過ぎ去り、再び満月の月光が世界を照らし出した時、の乾いた赤土の地面にはおびただしい数の足跡が残されていた。


 そしてその道の真ん中には、踏みつけられて完全に潰れてしまったボロボロのシルクハットと無残に破り去られたジャケットが、そこで行われたであろう凄惨な現実を象徴するかのように、静かに、そして何よりも能弁に横たわっていた……。



 

 (作者はあとがきと呼ぶにはいささか長いエピローグを綴っている)



 この物語は、私の親しい友人がいつか二人で酒を酌み交わしている最中に漏らしたある一言から始まった。


 『ロンリー・プレイスか……』


 唐突にそう呟いた彼の目には、瞬く間にたくさんの涙が溢れた。


 深酒の勢いもあったのだろうが、日頃から寡黙であまり多くの感情を露わにしないこの友人がそこまで心をかき乱す様を、私は驚きと共に物書き屋特有の好奇心を持ってして彼にどうしたのかと尋ねた。

 


 友人が私にこの話をするにあたり、折り目正しく、一から十までツラツラと一息に語ったわけではないことを初めに述べておきたい。


 彼は終始、激しい心の葛藤に情緒の安定を欠き、所々つかえたり言葉を詰まらせたりと、存分に苦しみながら声を絞り出していた。


 母国から遥か遠く離れた辺境の異国において孤独に散っていった、一人の薄幸な英国人の運命を間近で見ていた人間の一人として……もしくは彼のことを師と崇めていた人間の一人として、結局、彼を救うことは出来なかったのだという後悔の念が、当時の記憶を呼び起こそうとする度、否が応にも胸に去来して友人を苛めてしまうのだ。


 その強い罪悪感を前に、私が相槌のごとく挟む月並みな励ましなど何の助けにもならなかったことだろう。

 

 あの時ああすれば良かったのではないだろうか?あの時こういう言葉をかけてあげれば良かったのではないか?作中で私は、突然家族を奪われてしまった仕立て屋の青年の哀しみと絶望の心情を表すものとして、不毛なたらればを何度も繰り返し使っていたが、その辺りの心の揺れ動きは、まさしく友人自らが長年に渡って密かに心中で反問し続けてきたものをそのままそこに投影したまでに過ぎない。


 人が何かを悔やもうとする時、『もしも』や『こうだったかもしれない』などの言葉は、いつも決まって枕詞のようにそこに寄り添っているものなのだ。

 

 そう、友人は師匠を救えなかった。


 怒れる暴徒たちの怒れる腕によって彼の魂が絡めとられていくのを、まだ半人前の仕立て屋見習いで無力な子供であった友人は、ただ見送ることしかできなかった。


 ドアの向こう側で一体何が起こっているのか、叫び狂う暴徒たちが師匠をどのようにして迎えたのか、友人は一切見ていない。


 彼は師匠がいつも服を仕立てる作業をしていた台の下で目を瞑り、耳を両手で固く塞ぎながらただただ怯えていた。


 目には己の瞼の裏しか見えず、耳には己の震える歯がガチガチと鳴る音しか聞こえなかった。


 ただ彼は薄い木戸一枚隔てたところで巻き起こっていた暴力的な熱狂の渦の恐怖に、為す術もなく吞み込まれてしまったのだ。

 

 それでも師の予言の通り、後にこの友人は洋装の仕立て屋業界ではかなり名の知れた存在となった。


 親しき仲の贔屓目というものが過分にあるのかもしれないが、どれだけ成功を収めて名声を勝ち取ったとしても、変わらぬ実直さと寡黙さで今もなお服を作り続ける彼の腕は、当代一のものだと私は思っている。


 彼との付き合いはたかだか十年そこそこであったが、おそらく、あの出来事が起こってからの友人の研鑽や努力は、他の追随を許さぬ比類なきものであったのだろうと普段の彼を見ていると容易に想像ができる。


 彼は毎日毎日、朝から夕方まで店で働き、夜には今もなお残っている師の作業場にこもって洋裁の技術を磨き続けている。


 ただ真摯に布地と対峙し、黙々と作業をする師匠の姿を思い出しながら、早く彼に追いつきたい、彼のようになりたい、そして彼の予言した言葉を現実のものとしなければならないという一心で、友人はひた向きに生きてきたのだ。


 もちろん、彼の胸にはいつも自分が日本人であるという誇りが抱かれていたことは言うに及ばないだろう。


 さて、折しもその二人きりのささやかな酒宴を開いた日は、まさしく三十数年前に友人が師を失った日であった。


 それを何もしらない私がいつもの調子で一杯やろうと呑気に誘ってしまい、断るのも悪いと彼は私の元へと平静を装いながらやってきた次第だ。


 しかし酒の力も相まったのだろう、宴もそこそこに友人の心は脆くも崩れ、感極まってしまった。


 全てを語り終える頃には友人も平素のような落ち着きを取り戻し、笑顔すら見せはしたが、せっかくの楽しい酒の興を削いでしまって申し訳ないと、帰るまで恐縮しきりだった。

 

 それからの数日間、私の心の中には常に何かが引っ掛かっているような感覚があった。


 二流の物書きとしてペンを持ち、スズメの涙よりもまだ慎ましやかな原稿料を得るために原稿用紙に向き合っていても、一向に文章の一字一句が出て来ない。


 気分転換に街をぶらつき、小料理屋の隅で安酒をちびちびとすすって帰り、さて仕事をするかと思ってもやはり何一つとして書けやしない。


 まるで胸につかえるその何かが私の物語を綴る能力(原稿料よりも更に慎ましやかなものではあるが)の源泉の上にどかりと腰を落とし、流れを塞いででもいるかのようだった。

 

 一体このつかえが何モノなのか?……私には初めからわかっていた。


 友人の話を聞きながら、彼が夜道の中を帰っていく姿を見送りながら、いつまでも眠れぬ布団の中でジッと天井を見つめながら、私はある想いへの抗い難い程に激しい衝動に駆り立てられていた。


 ……この物語を小説として書きたい。

 

 友人が話を物語るすぐそばから、私はすでにそんな想いに囚われていた。


 その一人の英国人の半生は、ただ聞き流すにはあまりにも数奇で、あまりにも私の心を揺さぶり刺激するものであった。


 しかし、これはあくまでも私の友人の個人的な物語だった。


 今の彼という素晴らしい人間を造り上げるうえで中核をなしているであろう最も重要な出来事だった。


 その聖域を他人が無暗に犯してはいけないし、職業作家が勝手に原稿用紙におこして世に出してはいけない。


 ……これは人間として、親しき友人として、作家としての倫理の問題なのだ。

 

 私の中にも葛藤が生まれた。


 私は物語自身が書いてくれとせっついてくる声に知らぬ振りをし、そいつがペン先まで出かかってくる寸でのところを辛うじて抑え込むという毎日を霹靂しながら送った。


 抑え込めば抑え込むほど物語は私の皮膚の下で際限なく膨張していき、その存在をより強固に、より明確なものにしていくようであった。


 おかげで何一つ他の文章が書けなくなったというのはもはや前著の通りだが、このまま作家生命を断たなければならないのだろうかというところまで、私は本気で危ぶみさえした。

 

 そんな日々に根っから堪え性のない私が長く耐えられようはずもなく、いよいよ堪りかねた私は、とっぷりと陽の暮れた夜分遅くであることも忘れて友人を訪ねに行った。


 驚いて出迎える友人とその妻の顔を見るや否や、私は衣服が汚れることなど気にせずその場に土下座し、土間に額をこすりつけて自らの思いのたけを発散した。

 

 君の師匠の話を書かせてくれ!


 ……倫理も義理も道理も踏みつけて、私は己の気持ちが趣くままに大声で叫んだ。


 一度そう口にしてしまったことで心のつかえが僅かに熱を持ったような気がした。

 

 それでいい、それでいいのだと囃し立てているようでもあった。


 私は顔を上げられなかった。


 彼の傷を再びほじくり返すようなことをしてしまったのではないだろうか?


 物書きとはなんと利己的なものだと軽蔑したのではないだろうか?


 そんな思いが私に友人の顔を見ることを怖れさせた。

 

 だからその時、友人がどんな表情をしていたのかはわからない。


 それでも私の肩に手を置き、顔を上げるようにと促した友人の声はとても柔らかく、幾分楽しそうでさえあった。

 

 ―― こんな夜更けに一体何事かと思えば……。君は僕なんかよりもよっぽど生真面目な人間らしい。君の仕事は物書きなんだ、書きたいことを書けばいいさ  ――


  友人の声は私の心を慰撫してやまない優しい調子だった。


 後に私はその感動を是非とも作中に反映させたいと思い、最後の場面、逃げるように急かす弟子の少年を諭した時の、イギリス人青年の穏やかなる佇まいとして使わせてもらったわけだ。


 帰宅後、私は居ても立ってもいられず、すぐさま書斎に駆け込んで創作に取り掛かった。


 滑らかなに進んでいくペン、次々に文字によって埋められていく原稿用紙、止めどなく溢れ出てくる言葉……。


 私は想像力の羽を大きく広げて物語の中を縦横無尽に飛び回った。


 私はその中で仕立て屋を生業とする人の好い英国人の青年となり、彼の家族を手にかけた歪んだ商人となり、青年に心酔する無垢な仕立て屋見習いの少年となった。


 その世界に吹き抜ける風を感じ、大空をさすらうカモメの声を聴き、神聖さすら帯びた大きな月を見上げた。


 愛の至福を知り、世の無常を知り、孤独の辛さを知った。


 私は当事者になって全てを見ていた。


 友人が語ったことも語らなかったことも、彼が見たことも決して見なかったことも全て飲み込み、消化し、そして滋養として新たな物語を紡いで構築した。


 ……書き出しから終わりまで、これ程までに確固とした形と手応えを持ったまま小説を書いた経験はこれまで一度もなかった。


 そして何より、これ程までに書きたい、何としても書かなければならないと強く思った作品は今までありはしなかった。


 何を隠そう、その辺りの文学的熱意の致命的な欠落が、私をいつまでも二流、三流の小説家の枠からはみ出させてこなかった一番の要因でもあったのだ。

 

 三日としないうちに私は『ロンリー・プレイス物語』の第一稿を書き上げた。


 もはや頭の中で物語の構成という骨組みは完璧に仕上がっていたので、あとの装飾や細部を詰めていく肉付けの作業はとても容易なことだった。


 その出来栄えに、私は至極満足を覚えた。


 これまでの創作人生のうちで一番の傑作に仕上がったという自負すらあった。

 

 早速、私は書き上げた原稿の束を友人のところに持って行った。


 一刻も早く彼の感想が聞きたくて堪らなかったのだ。


 そのようにまたしても突然の夜半の訪問ではあったが、彼は小言一つ言うわけでもなく、むしろ寝間着姿で申し訳ないと詫びつつ私を客間へと招き入れ、そして真夜中の読書会が催された。

 

 今更ながらに私はこの己の常軌を逸した迷惑行為を恥じたいと思う。


 その日も友人は遅くまで仕事をして相当疲れていたはずであろう。


 読書などさっさと打ち遣って温かな布団の中で眠りたかったことだろう。


 それを日頃から知識人ぶって威張っているくせに、常人は夜中には眠っているという子供でも容易くわかりそうな常識一つわきまえない三流作家が、目を爛々と輝かせながら訪ねてきたのだ。


 彼には私を足蹴にして追い返してもいいだけの正当な権利が十二分にあった。

 

 しかし、友人は嫌な顔をまるで見せず、丁寧に一行一行を噛み締めるように時間をかけて読んでくれた。


 顔色どころか眉根一つ動かさないで読み進める友人に、私の心は随分と居心地が悪かった。


 その少し前まで我が作家人生で一番の大傑作を書き上げたつもりでいたのだが、この客間に入って椅子に腰かけてからというもの、世紀の大駄作をこの世に生み出してしまったのではないだろうかとひどく弱気になっていた。


 気を悪くしてしまったのではないだろうか?

 私たちの友情はここで終わってしまうのではないだろうか?と。


 私は閻魔大王の前に跪いて審判の時を待つ、死せる魂のハラハラとした心持ちというものを、現世にいながらにして体験した稀有な人間だ。

 

 そして、永遠のごとく長い長い審議が終わり、友人は原稿をテーブルの上に置いた。長時間、厚い紙の束を持って疲れた腕を揉み、肩と目の周りをほぐし、最後に彼は不安な気合いを隠そうともしないでビクつく私の目を真っ直ぐに見つめた。

 

 ―― 君は本当に小説家なのかい? ――

 

 ああ、やってしまった!


 私は閻魔の怒りに触れる程の大罪を犯してしまい、真っ逆さまに地獄の底へと落とされてしまうのだ。


 もう二度と浮かび上がれない奈落の奥底に!

 

 ―― 君は作家じゃない。まるで神か仏かになって全てを天上から覗いていたんじゃないのかい?それくらいに素晴らしい模写だよ。何故、当事者の一人であった僕よりも君の方が先生のことを良く知っているんだい? ――

 

 そう、物書きというやつは、ある意味合い、ある限定された世界の中においては、創造主としての神と成りえるものなのかもしれない。


 しかし、その静かで奥ゆかしき微笑みを浮かべた友人の姿の方が余程、私には地獄から救い上げてくれる崇高なる神か仏かに見えた。





 さてと……。その後、から指摘された細かな相違点やそれに伴う辻褄合わせの改稿、そしてこのあとがきを書き添えたことで『ロンリー・プレイス物語』は完成した。


 私はその原稿を抱え、今度は日頃から個人的に交流のあった印刷屋に無理を言い、特別に一冊だけ本を刷ってもらった。


 よく書けているし、編集の人間に見せればいいのにと君は言ったな。


 確かに我ながらよく書けていると思うし、これだけの質のものならば新聞社も喜んで載せてくれることだろう。


 世に出したこの物語はきっとたくさんの読者の心を打ち、かつてこの国に実際に生きていた、あまり幸福だったとは言い難い男の存在を知ることとなるだろう。


 ある人はその運命の残酷さに同情し、ある人はその体、その心に負った痛々しいばかりの傷を我がことのように思って涙し、同じ日本人の犯した不人情な許されざる罪として悔やみ、恥じ入るのかもしれない。

 

 しかしだ。


 果たしてこの小説の主人公はそんなことを望んだだろうか?


 真面目でお人好しで牡蠣のごとく寡黙な、あの広い背中を持つ偉大な英国紳士は、そんなふうに自らの人生を商業的な晒しものにされることを喜ぶだろうか?

 

 ……君が一番よくわかっているはずだろう、松本?


 そうだ、これは君たちの物語だ。


 私は世間の不特定多数の人間に向かってこれを書いたわけではなく、ただ君のために書き上げたものだ。


 三十年以上経った今でも彼の人生に同情し、涙し、悔やみ、自身を責め立て続けている君のため……そして君の中で未だ息づいている先生のための鎮魂歌だ。

 

 もう十分だろ、松本。


 君の先生が言ったんだろ?

 誇り高く生きろって?


 あれはきっと、日本人であること云々と言うよりも、自分の死については松本を含め、他の誰にも一切責任はない、全ては自分の招いたことであり自分はその責めを甘んじて受け入れる、だから誰も恨んではいけないし責めてもいけない、胸を張って前を向き、強く生きていけという意味だったのではないかと私は解釈している。

 

 どうだ、松本?


 君は確かにこの三十数年をひたすら脇目もふらず前だけを向いて生きてきたのかもしれない。


 強靭な体躯と凛々しい口髭を蓄えた立派な大人として、気立てのいい妻をめとり、可愛い子宝にも恵まれた。


 もう、あの頃のように無力な子供ではない。


 だが、君はやはりいつまでもあの頃に囚われている。


 前を見て歩いているようで、その実、君の心はいつまでもあの机の下で震えながら見ていた深い闇に囚われ続けている。


 二度と明らむことのないのではないかという程、深い深い闇だ。

 

 どこかで見たことのある表現だろ?

 

 そうだ、君の先生も同じような闇を抱いてた。


 大切な人を守れなかった、救えなかったという濃密な闇だ。結局、先生はその闇を晴らせないままに吞まれていった。あるいは吞まれることでしか彼の闇は晴らせなかったのかもしれない。それがそこから逃れるために残された唯一の道だったのかもしれない。

 

 だが、松本。君は違う。


 君にはまだ大切な人がいる。

 君を心から愛してくれる家族がいる。


 多少偏屈だが君を無二の親友と慕うお節介な友人だっている。


 だから死のうだなんて考えるな。

 闇を受け入れて吞み込まれようとするな。


 君はまだ大丈夫。


 これまで三十五年間苦しんできたのだろうが、これから先の三十五年、いや百年だって喜びに満ち溢れた至福のものとなるはずだ。


 ほら、前を見るんだ。


 顔だけ向けるのではなく、ちゃんと心の目を開いて前を見るんだ。


 ……どうだ?幸福が手招いているのが見えないか?


 


 それと見開いたついでと言っては何なのだが、これからずっと見届けてはくれないだろうか?


 君の『松本』という苗字と、君の先生である『ジュード』が日本名として使っていた『重(じゅう)吾(ご)』、そして私の名である『元木五郎(もときごろう)』を合わせた『松元重五郎』という小説家の行く末を。

 

 今度のことで君たちが私の文学への情熱を刺激してくれたのにあやかりこの筆名を名付けてみたのだが、もしも不愉快千万だったならば言ってほしい。


 ……もちろん枕元に化けて出るなどではなく、くれぐれも生きたままでということはあしからず。


 

元木 五郎



◇◆◇



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