第3話・Lonely Place

      ◇◆◇

 

 物語の時代設定は明治の初期。


 ちょうど文明開化の熱狂が、都会の人々の頭上を縦横無尽に駆け巡っていた頃合いだ。


 明治という耳慣れない年号の産声を合図に、都市部を中心として西洋式のモダニズムが瞬く間に世の中を席巻し、服装から食生活、住居の造りや家具などの調度品に至るまで、日本人の衣食住のありとあらゆるものが西洋の文化・風俗に染まっていった。

 

 そんな急速に変化を遂げる日本の世の流れに便乗するべく、一人のイギリス人の青年が長い航海の末に日本の土を踏んだ。


 彼は鉄道や道路のインフラ整備、先進的な製鉄の技術などの指導のために来日した政府公認の技師に伴って付いてきた行商キャラバン隊の一人だった。


 彼は母国で主に中流階級向けの婦人服を取り扱う仕立て屋をしていた。


 腕も人柄も悪くはなく評判は上々だったのだが、いかんせん性格がお人好し過ぎた。


 狡猾なライバル店の策略にまったく気がつかず、いつの間にか足元をすくわれ、あれよあれよと破産寸前にまで追い詰められてしまった。


 青年は年老いた母親とうら若い女房、そして幼い息子を養わなければならなかった。


 亡き父親から引き継いだ大事な店だったとはいえ、廃業も止む無しと考えていたところに、事情を聞いて駆け付けた友人の行商人が声を掛けてきた。

 

 ―― 日本で一儲けしないか? ――


 その言葉は、経済的にも精神的にも追い詰められて窮々としていた青年の耳には、暗澹あんたんとした未来に一筋差し込んで強く輝く神の啓示のように響いた。


 日本……それが母国イギリスから遥か東に遠く離れた異国であるということ以外はなんの予備知識も持ってはいなかった。


 おまけに成功する確証も安全の保証もありはしなかった。


 しかし、やがて遠からず訪れるであろう破綻の時をこのままただ黙って待つわけにはいかなかった。


 家族を守るため、そして自分自身の誇りを守るためにも一度潔く店をたたみ、一財産築いた後でまた改めて店をやり直せばいいではないか、問題なのは現状に固執して嘆き続けることなどではなく、変化に柔軟に対応していかに自分を腐らせないかなのだ……。


 青年はその夜、結局寝床に入ることはなく、月の光が優しく差し込む食卓テーブルの上に広げた世界地図を一人睨み続けた。


 そうやって見つめれば見つめるほど、世界中でただ一つ、その最果ての小さな島国の上にだけしか家族が救われる道はないように思えた。


 そして夜が明け、朝日が昇る頃に青年はまさしく一世一代の決断を下す。


 ……日本に行こう。

 

 それからの行動は早かった。


 一週間後に同じ朝日が青年を照らした場所は、もはや洋上の船の甲板だった。


 老年の母はもちろん、身体のあまり強くない妻と乳飲み子である息子にも長い船旅は酷だろうと、三人をそのまま国に残し、抱え込んだ大量の店の在庫品やかき集めた商品などの大荷物とともに、青年は単身日本に向かう大型船に乗り込んだ。


 港での別れ際、元からの色白な肌が心配のために一層白くなった妻の弱々しい微笑みと、何事が起こっているのかもわからぬ息子が無邪気に手を振る姿を甲板から見た青年は、こぼれ落ちそうになる涙をこらえ、必ずや一獲千金を持って帰ることを固く胸に誓かった。


 

 


 一月半かけて船が到着した港には本当にたくさんの人が押し寄せていた。


 大英帝国の最新鋭の大型船を目当てに集まった人、その船に乗せられた多くの西洋の商品を目当てに集まった人、その富んだ人達の財布をスルのを目当てに集まった人……とにかく首都圏の住人たちが漏れなく勢ぞろいしたのではないかという程に、埠頭には人が溢れかえっていた。


 そんな鈴なりになった人だかりを船上から眺めたある性格の弱い商人は、そのうごめきと異様な熱気にてられて思い切り嘔吐してしまったくらいだ。

 

 下船後、官邸に向かう技術者達を見送り、キャラバン隊は埠頭に特設された会場でバザールを開いた。


 通貨や言葉の違い、そして何より人の数の多さのわりに目立った混乱が見られなかったのは、港に来た人々の大半が舶来の高級品になど手が出るはずもない庶民ばかりであったことと、いささか厳重に過ぎるほどの警備体制の賜だった。


 スリも置き引きも酔っ払いも、ただ物珍しさから冷やかしで眺めようとする人たちも分け隔てることなく、屈強なる警備員たちは非情と無情とを振りかざして断固会場から締め出した。


 ……まだまだ国の外海への門は開いたばかり、パンと葡萄酒が乗る食卓もポンドとシリングの違いもレディーファーストの概念もわからない平民が、その恩恵を受けとることができるのはもう少し後の時代の話だ。

 


 さて、仕立て屋の青年の商売の具合はどうかというと、なんと彼が希望的観測を存分に込めて予想をしたものに輪をかけて繁盛していた。


 実はこのバザールにおいて服飾品は花形的存在だった。


 日本の富裕層、特にそのご婦人方はとにもかくにも洋服に飢えていた。ドレスに帽子に靴にバッグにと、それが西洋社交界のトレンドである(真偽のほどはさておき)と触込めば、値段の交渉などする前に我先にと目の色を変えて飛びついてきた。


 そしてとりわけ腕の良い仕立て屋であった青年の作る絢爛豪華な服は、優れたデザイン性と質の良さもさることながら、良心的な値段をつけるということで、平静を装いながらも内心ヒヤヒヤと財布の中にある見慣れないイギリスの貨幣の数を忙しなく確認していた紳士達の受けもまたすこぶるよかったのだった。

 

 そんな中、一人の身ぎれいな中年の日本人紳士が通訳を通さず、流暢な英語を駆使して青年に話しかけてきた。


 男物はないのかということだった。

 

 決して偏見を持っていたわけではなかったが、まさかイギリス人以外の口からこれ程までに訛りのないキレイな英語を聞けるとは思ってもみなかった青年は、ドギマギしながら自分は婦人服の専門だ、と答えた。


 青年の売る商品のセンスの良さに魅かれ、紳士服があれば見せてほしかったようだ。


 申し訳ないと平服する青年の肩を叩きながら紳士は気にするなと笑い、そのまま雑踏の中に消えて行った。

 

 頭にかぶったパナマ帽から宝石のように艶やかに磨かれた革靴にいたるまで、一分の隙もなく着こなした洋服や、一つ一つの細かい仕草、一語一語が的確に発音された耳触りのいい優雅な英語などを取ってみても、あの日本人は、一介の仕立て屋である自分なんかよりも余程ジェントルマンであると思って、青年は軽いショック状態におちいった。


 お国が変わっても、富める者は富むし貧しき者は貧しいという図式が揺らぐことはないのだろうか?

 貧乏な星の元に生まれた俺は、結局どこまで行っても社会の底辺を醜く這いずり回るばかりで、永遠にそこから抜け出すことができないのではないだろうか?……。


 破産による家族離散の瀬戸際にまで追い詰められ、こんな世界の果てのような異国にまでわざわざ金を稼ぎにやって来た自分のことが、青年にはひどくみすぼらしく思えた。

 

 生活が苦しくなってから、めっきり内省的な思考に耽るのが癖のようになってしまった青年は、ややしばらくナーバスな気分を引きずってはいたが、その心を慰撫するのに十分なだけ彼の露店は繁盛し、一週間としないうちに全ての商品を売り切ってしまった。


 仲間たちは嫉妬とも羨望ともやっかみともつかない調子で、売り上げが詰まってパンパンに膨れた彼の革袋を眺めた。そして毎夜のように誰かかれかが青年を近くの外国人向けの酒場へと誘って酒を奢らせようとした。


 しかし、彼は頑なに首を振り、その革袋の口紐を一度たりとも緩めようとはしなかった。それどころか、これは自分の金ではなく大事な大事な家族の金なのだと言って、必要最低限(ときにそれすらも惜しんで)の飲み食いしかしなかった。


 おかげでその後、都合よくイギリスへと向かう別の船があり、それに乗って帰路につこうかという頃には、商品を売り切った繁盛店の店主とは思えない程にすっかりと痩せ細ってしまった。


 

 家族はそんな三か月と数週間ばかりのうちに見違えてしまった青年の容貌にギョッとした。


 それでも帰国の挨拶もそこそこに彼が揚々とテーブルの上に広げたたくさんの貨幣を見て感慨の声を挙げた。


 その額は、滞っていた各種業者への支払いや知人から借りていた借金を返済してもなお相当の金額が彼らの手元に残った程だった。


 時を同じくして、懇意にしていた知人から職種はまるで違えども欠員の出た役所の補充の口を紹介された。


 母と妻は天の思し召しだと抱き合って涙を流した。


 ようやく元の通りに家族が揃って穏やかに暮らせるのだ、と。

 

 しかし、当の青年はどうにも心にくすぶるものがあった。


 あのバザールの光景がいつまでも彼の頭から離れなかった。


 乱れ飛ぶ金貨や銀貨の輝き、色めき立つ婦人たち、鳴り響く警備員の笛、むっとする人いきれ、そして身なりの良い日本人紳士の凛々しい立ち姿……。


 青年の胸に、それまでの人生でついぞ抱いたことのない燃え立つような強い野心が生まれていた。


 ―― あそこにいけば、こんな俺でもきっと大金持ちになれる ――


 何事もなく数日が過ぎて行ったのち、いよいよ我慢ができなくなった青年が夕食の席でもう一度日本に行って稼いでくると高らかに宣言した時、母も妻もたいそう驚いた。


 あまりに突拍子もない話に母は半ば卒倒し、妻は白い肌を真っ赤に上気させて怒った。


 借金も払った、毎日のパンに困らないだけもう十分すぎる程にお金は稼いだ、安定した勤めにも就けるし、どうしても仕立て屋がしたいというならばやってできないこともない、あなたの御蔭でとにかくこれからも家族は常に一緒にいて今までのように平穏に暮らせる、こんな幸福なことはない、それなのにわざわざ危険を冒してまで一体これ以上何を望むと言うのか?


 ……日頃から控えめで夫に意見などしたことがない妻であったが、その時ばかりは子供が怯えて泣き叫ぶのも構わず、鬼気迫る調子で夫の日本行きに猛反対した。

 

 彼女の意見はもっともだった。


 そもそも青年が日本に行った目的は困窮した生活を救うための苦肉の策に他ならず、多くのキャラバン隊の商人達と違い、決して欲を出して富を得ようというものではなかったはずだ。


 それは青年にもわかっていた。


 妻の言い分も、自分がそれまでついぞ毛嫌いしてきた醜い金銭的な欲望にとらわれていることも、彼はわかり過ぎる程にわかっていた。だからこそ彼もより頑なになった。


 金というものは少しでも足りなければとても困るものではあるが、幾らあってもあり過ぎて困るということは絶対にない、これまで苦労をかけてきた分、妻にも母にも息子にも贅沢な暮らしをさせてあげることができる、こうやって無事に帰ってきたのだから今度も大丈夫に決まっているではないか、どうしてわかってくれないのだ……。


 青年も妻ももはや引っ込みがつかなくなった。


 この仲の良い夫婦の間で、連れ添ってからはじめて言い争いが起こった。


 互いに譲れないものがあった。

 互いに正当な言い分があった。


 かたや保守的に、かたや革新的にとやり方は相容れずとも、どちらも家族のことを思って言っているのは確かだった。


 そう、その激しい怒りはどちらも強い愛情からくるものに他ならなかった。

 

 しかし、あまりにも頭に血が昇り過ぎたのだろう。


 青年は身弱な妻を深く傷つけてしまうことになるなどとはその時考えもせず、心にもないような辛辣な言葉を次から次へと彼女に向かって浴びせかけた。


 そんな理性や思いやりを容易く覆い隠してしまう程に、青年は日本という国が発する熱を帯びた特殊な臭気に酔っていた。


 この気持ちはおそらく現地に行った者にしか理解できないだろう。


 それに今は少し神経が過敏になってはいるが、そのうちきっと妻もわかってくれるはずだ、すべては家族のため……そう家族のためなんだ……。

 

 あたりに漂っていた静寂の固く冷たい感触に彼がハッとして我に返ると、妻はその場に崩れ落ちるようにひざまずいてさめざめと涙していた。


 彼女の肌はもはや白さなど通り越して死人のそれのように蒼白になっていた。


 そして、いつの間に泣き止んでいたのか、一歳にもならない息子はなんとも言えない表情を浮かべてジッと父親の顔を見ていた。


 大人が成長と共に忘れてしまったためにうまく形容ができなくなった、肯定とも否定ともつかない独特の色合いをもった表情だ。


 そんな息子の視線を避けるように青年はくるりと踵を返し、足早に家を出て行った。


 ……その夜、青年の姿は珍しく近所の酒場にあった。


 カウンターの端で正体もなく酔い潰れたその姿を、普段の彼を知る他の客たちは怪訝そうに眺めた。

 


 明くる日から青年は家に隣接する作業場にこもり、憑りつかれたように服を作り続けた。


 何が売れるのかなどわからずに、とりあえず手近な物を詰め込んで持って行った前回とは違い、今度は主な客層と彼らが求めている商品の傾向がハッキリとしていた。


 バザールで買い物をするのは日本でも極々限られた富裕層である。


 彼らは高級志向が強かった。

 他者よりも良質なものを、誰もが羨むような本物をその手に持ちたかった。


 それならば、そんな潤沢に抱え込んだ自尊心や優越感を巧みに刺激してやれば、とにもかくにも彼らは満足し、金を惜しげもなく落としていくのではないだろうかと考えた。


 青年は材料も手間も妥協しなかった。


 より豪奢で美麗で高価なドレスをたくさん作った。


 既製品や装飾小物を仕入れる時にもその傾向を念頭に置き、上流階級御用達として知られる遠方の卸売街にまでわざわざ足を運んだ。


 そんなふうにして青年の二か月は準備のために忙しなく過ぎて行き、そしてとうとう日本に向かうという別のキャラバン隊の船を見つけて、それに乗せてもらえることになった。

 

 出発の日、乗船の間際にあの言い争いの日から一度も口を聞いていなかった妻が一人港まで見送りに来たのを見つけた青年は驚いた。


 殆ど無意識のうちだったとはいえ、彼女には随分ひどいことを言った。


 そのままついに謝ることができずに今日を迎え、よもや見送りなどないだろうと肩を落としていた矢先のことだった。


 駆け寄ってきた妻は何も言わずに彼の体に抱きつき、胸板に顔を強く埋めた。


 人目が気になって恥ずかしくは思ったが、久しぶりに触れる妻の危うげなほどに細い体に感極まり、青年はまわした腕の力を強めてより妻を自分の方へと引き寄せた。


 最後まで二人の間に言葉はなかった。

 しかし、互いの想いはどんな愛の囁きよりも充分に伝わったようだった。


 


 今回のバザールは前回より規模も小さく賑わいにも翳りが見えていた。


 青年が参加していないだけであれからも数度にわたってバザールは開かれていた。


 そのため、最初は珍しさから無駄に集まっていたたくさんの野次馬たちもさすがに見飽きてしまったのだろう、すっかり人の入りは減ってしまった。


 それでも客である富裕層のご婦人連中だけは相変わらず豊富な購買欲を辺り構わず発散させながら、熱に浮かされたように高揚していた。

 

 青年の扱う品も変わらず評判が良かった。


 彼の売り上げ袋は前回を上回るペースで重さを増していき、今回もあっという間にすべての品物を売り切った。


 ねらいの通り、品物の質を上げて価格も高めに設定したことが功を奏したようだ。

 

 しかし、青年の顔はあまり浮かなかった。


 どれだけ革袋が膨れていこうが、どれだけ自分の仕立てたドレスを日本の美しきレディーが賛辞しようが、心から喜ぶことができなかった。

 

 下世話で品もなく、金にばかり執着する成り上がりの金持ちや人を卑下することに慣れた中流貴族や大名あがり……バザールでは殆どそんな客ばかりを相手にした。


 由緒正しき下層階級の青年は本能的に、彼らの体から匂い立つ傲慢さが正直ひどく不快だった。


 そしてそんな不快な相手が誰よりも自分の作った服を気に入り、なんのてらいもなく支払ってくる金貨を、彼は複雑な心持で受け取ったものだ。


 その金貨を手にして自分もまた、傲慢さを共有する仲間になってしまったような気になってしまうのだ。


 前回はそれでも家計のために仕方がないとうまく割り切ることができた。


 しかし、今回は違う。


 まさしく下世話に、とにかく強欲に駆り立てられるまま日本に来た自分に、今更ながら激しく嫌悪感を覚えた。


 彼の腕にはいつまでも華奢な妻の骨ばった体の温もりが残っていた。


 醜く金欲に駆りたてられた自分をジッと見つめる息子の目が脳裏から離れなかった。

  

 ―― 俺が間違っていた。俺は来るべきじゃなかったんだ ――


 青年は今すぐにでも我が家に帰りたかった。


 そして母を子を、そして妻をきつくこの腕に抱きしめたかった。


 そしてもう二度と出稼ぎなんてしなくてもいいように欲を出さず、これからは何をするでも地に足をつけて家族と共に穏やかに暮らそうと強く思った。


 そうして早々に露店のテントを畳んだ青年は、前回と同様、極力自分のために金を使うことはせずにじっと宿の部屋にこもった。


 相も変わらず売り上げ袋を肌身から離さず、ミノムシのように布団にくるまりながら帰国の日を待った。


 元は鎖国時代から交易のあったオランダ人向けの安普請の古い宿ということで、すきま風が容赦なく部屋の温度を下げて行ったが、それでも青年は動かなかった。

 

 一日で部屋を出る時といえば、ただ一度の食事をとりに食堂へ行く時と、埠頭へイギリス行きの船の情報を探しに行くほんの僅かな時間だけだった。


 いまだ定期便や郵便船も就航していない日本~イギリス間の航路は長く険しい。


 それに耐えうるだけの大型船がそうそう都合よく見つかるわけもなかった。


 最悪、あと二か月先にキャラバン隊を迎えにくる船がやって来るが、それでも青年は一刻も早く母国の土を踏むために僅かでも可能性があるならと船を探し続けた。

 

 そんなふうに数日があっという間に過ぎていった。


 その日もいつものように昼過ぎに船着き場へと足を運び、有力な情報が入らなくてトボトボと肩を落としながら自分の宿まで歩いていた。彼の心情に同調したのかしなかったのか、空には黒くて重たげな雲が広がり、余計に青年の落ち込んだ心を滅入らせた。

 

 そんな風に自分の精神世界の中でウジウジと膝を抱えていた青年は、現実の世界において自分の周りに異変が起こっている気配に全く気がつくことはなかった。


 ようやくハッとして俯いた顔を上げた頃には、もはや四方を人が囲い込み、どこにも逃げ道はなかった。

 

 ―― よう外人さん、おたく商人だろ?景気はどうだい ――

 


 正面に立った男は日本語でそう言ったのだが、生粋の英国人である青年に言葉の意味などわかりようもなかった。


 しかし、人を威圧するためだけに鍛え上げられたような屈強な肉体と濁った虚ろな黒い瞳からは、抑えきれない程におびただしい量の殺気が漂っていた。


 周りを取り囲む男達もまた然りで、今にも飛び掛かって行きたいのを必死で堪えているように落ち着きなく体を揺らしていた。

 

 ―― 愛想がねぇな ――


 言葉が通じないことに一向かまう様子もなく、正面の男は淡々と日本語で話し続けた。


 ―― あんたの顔は見たことがある。かなり儲かってたみたいだな。外人野郎にかぶれた金持ちども相手ならさぞや商売がしやすかったことだろう。あいつらはあんたらが持ってきたもんならなんだって高い金払って買っちまうんだ。使う使わない、着る着ないに関わらずな。知ってるか?あいつら今日買った物を明日になりゃもう飽きったって言って燃やすか捨てるかして、また同じようなものを買いに港に馬車を走らせるんだ。信じられるか?俺らが毎日汗水たらし、血反吐を吐きながら働いたもんから容赦なく巻き上げていった金を、あいつらはそんな風にゴミみたいに投げ捨てちまうんだ。こっちは食うや食わず、それぞれ嫁さんやガキや年寄りを養うためにギリギリの生活をしてるっていうのにな ――


 やはり話している内容はわからない。


 それでもその男たちのみすぼらしいボロボロの綿織物の服や垢のこびりついた顔などを見て、おそらく自分と同じく最下級層に属する人たちなのだろうと青年は察した。


 地主やら雇い主やら悪徳金融やらから文字通り搾り取る様に財産を搾取され、その日暮らしていくのがやっと、夢や希望を抱くゆとりなんてありはしない。


 ……男たちの目が一様に死んでいるのは、おそらくそんな日々を長く続けてきたせいなのだろう。


 同じく貧しさを経験してきた青年には彼らの気持ちがよくわかった。


 これまで会ったどの日本人よりも親近感が持てた。


 ……しかし、そのことを呑気に嬉しく思える程穏やかな場面ではない。

 

 正面の男はおもむろに右手を挙げた。


 それを合図にして周りの男たちがジリジリと青年の方ににじり寄ってきた。青年は唾を飲んだ。逃げ出そうにもすくんだ足はピクリとも動かず、何か叫ぼうにも一文字も喉の奥から出てこようとはしなかった。

 

 ―― ……悪く思うな ――


 正面の男は相変わらず無表情に言った。


 すると次の瞬間、青年の後頭部に強い衝撃が走った。


 痛みはない。

 

 ただただ強い衝撃が後ろから加えられ、青年は眼球が飛び出していきそうになるような感覚を覚えながら、そのままバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。


 反射的に体を起こそうと地面に手をついて四つん這いの姿勢になるが、その背中がまたしたたかな一撃を浴びる。


 今度のものは痛みがあった。


 肉も骨も、反抗する心までをも折ってしまうような痛烈な痛みだ。


 地面に突っ伏し、たまらず唸り声をあげた青年の体を男たちは何事か奇声をあげながら矢継ぎ早に攻撃する。


 ある者は脇腹を蹴り上げ、ある者は頭を踏みつけ、ある者は太い角材で尻の辺りを打ち付けた。


 そのどれもが痛かった。


 固いような痛みもあれば、しなやかな痛みもあった。


 突き刺すような鋭い痛みもあれば、押しつぶすような鈍い痛みもあった。しかし痛みの種類は数あれど、青年に与えるものはただ一つ、圧倒的な絶望感だけだった。

 

 絶望と腹立たしさと諦めが青年の心を満たした。


 もはや痛みなど通り越した。


 何も感じないし、何も聞こえない。


 あらゆる方角から間断なく加えられる攻撃に頭の処理能力はパンクし、まったくの無感覚の状態に陥った。






 そんな青年の頭の中には、イギリスの小さな田舎街にある我が家の映像が浮かんでいた。


 家々がひしめき合うようにして連なった住宅街の片隅、立てつけの悪い扉を開けると、年老いた母は揺り椅子にもたれて編み物をし、幼い息子は幼児用のベッドの上でスヤスヤと穏やかな寝息を立て、愛する妻は夕飯の準備をする手を休めて振り返り、ニッコリと大きく笑って青年を出迎える。


 そこには幸福しかなかった。


 どんな種類の痛みも悪意も絶望もありはしなかった。


 俺はようやく帰って来たんだな。


 ……目が悪いんだからあまり無理をするなよ母さん。


 おいおい疲れて帰ってきた父ちゃんにお帰りもなしで寝てるのか?


 お、美味そうな匂いだ。おまえの作るシチューは絶品だものな。


 ……ああ、ただいま……。


 



 頬に打ち付ける雨粒の感覚で青年は目を覚ました。


 目を覚ますと、柔らかな灯りも、温かな暖炉の火も、芳しいシチューの匂いも、愛する家族もそこにはなく、ぬかるんだ泥の地面に汚らしく横たわった自分がとうとう降り出した雨に打たれているばかりだった。

 

 ―― ……夢だったか ――


 前後の記憶を失くしていた青年は、どうしてこんなところに自分が寝ていたのか皆目わからず不思議に思った。


 しかしそれも一瞬のことで、とりあえず起こそうとした体にはまるで力が入らず、その代わりに鋭い痛みが稲光のごとく駆け巡って青年は悶絶した。


 そして青年は全てのことを思い出した。

 

 ―― そうだ、俺は襲われたんだったな ――

 


 青年は痛む体を何とか仰向けの体勢にした。


 そして念のために首からぶら下げて大事に懐に隠していた売上袋を確認してみた。


 ……案の定、革袋はなくなっていた。


 彼が家族との時間を犠牲にし、時に荒れ狂う暴風の中を船に揺られてようやく日本へと辿り着き、込み上げる不快感をこらえながら必死で稼いだ大量の金は、あの暴力的な男たちによって、にべもなく奪われてしまったのだ。

 

 雨の中、道の真ん中に寝そべる血と泥とで薄汚れた外国人を、道行く人々は避けて通った。


 同情的な眼差しを向けてくる人も中にはいたが、大半は迷惑そうに顔をしかめたり、関わりあいになるまいと見てみぬふりを決め込む人ばかりだった。

 

 そんな通りすがる人々の姿、ささやかれる言葉、文化、思想、歴史、土、水、雲、風、空気……。


 とにかく目に映る物・目に映らないモノのことごとくが、どれも青年にとって母国のそれとは異質なものであり過ぎた。


 そしてそんなふうに次々に露呈していく相違点の数々は、異国に来た人が等しく感じるであろう興味や好奇心で許容できる範囲をあっという間に通り越し、遂には恐怖すら感じる程の領域にまで達してしまった。


 見知らぬ国の見知らぬ街の見知らぬ人々……青年は自分がこの広い世界の只中にあって、ただ一人ぼっちになってしまったような気がした。


 周りに味方なんて誰もいない。わかりあえる者なんて誰一人いない。

 

 ―― Lonely Place…… ――

 

 そう言って青年はまた気を失った。


 振り絞るように呟いたその一言にどれだけの感情が集約されていただろうか。


 結局、青年はここではただの無力な異邦人。


 彼にとって日本とは、どれだけの国土が広がり、どれだけの数の人が息づき、そしてどれだけ文化が西洋化していこうとも、ただただ『孤独なる場所』でしかなかった……。

 


  ◇◆◇



 そこまでがタケじいの読んでいたところだった。


 まだ全体の半分も読んでいないだろうか。


 文字が小さく、言いましも仮名遣いもいちいち古くて、こんなふうに頭の中でわかり易く要約する作業を挟みながらなので、本の厚さ以上に読むのに時間が掛かってしまった。


 柱時計の針の進み具合を見ると、読み始めてから三度鐘が鳴ったはずなのだけれど、すっかり物語の世界の中にのめり込んでしまった僕の耳に、その鐘の音は一切聞こえてはこなかった。 

 

 元来、真剣に読み始めたら周りが見えなくなってしまう傾向にあったとはいえ、こんなにどっぷりと本の世界の中に入り込んだ感覚は初めてだった。


 僕の五感は終始、物語の中で主人公の仕立て屋の青年のそれとシンクロし続けた。


 僕は大洋に浮かぶ船の甲板から潮の匂いを嗅ぎ、安宿でとる質素な食事を味わい、妻の体に腕を回して温もりを感じ、のしかかってくる圧倒的な孤独感にうちひしがれた。


 せっせと徹夜してドレスを作り続け、スマートな日本人紳士にショックをうけ、金持ちたちを嫌悪し、無慈悲な暴力を雨あられのごとく体中に受けた。


 ……緻密な計算と巧みな言葉遣いに裏打ちされた、黄金比のごとく美しく絶妙な均衡を持つとされる松元重五郎の小説としては、正直、ところどころ荒さの目立つ文章だったけれど、その分かえってよりリアルな臨場感を僕は覚えた。


 まるで人々の息遣いや生命の生々しさが行間から直接僕のイメージに訴えかけてくるかのようだった。

 

 悪くない心地だ。


 僕は一度こわばった体をほぐして深呼吸をする。


 そして、どうかこの人の好い、しかし一刻の野心のために災難にあってしまった青年に、これ以上悪いことが起きないようにと願いながら、改めてページを開く。



 ……すぐに僕の体を明治の風が吹き抜けていく。


 

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