ダイジェストのその後で

高柴沙紀

ダイジェストのその後で

 ここではない世界。

 女神の加護と恩恵を受けている、ある国があった。


 女神がその国に特に目を掛けていたのは、建国した初代の王が、人間の男と彼女との間に出来た彼女の息子だったからだ。

 人の寿命しか持たない息子は当然のことながら、彼女にとっては瞬きにも満たない間に亡くなってしまったが、脈々と彼の血を───女神の力の一部を受け継ぐ子孫によって、国は並居る列強を退け、堂々たる発展を遂げ続けていた。

 国に繁栄をもたらす王族は、国内の民はもとより周辺諸国の人々にも、現人神として信仰を集めるようになっていったから、女神の加護も理由のないものではなかったんだろう。


 王族への信仰は、そのまま女神に対する信仰でもある。

 彼女は、己への人々の信仰を糧に、世界そのものを支配するに至ったのだから。

 女神にとってその国は、世界を己が裡に留めるための楔であり、重要な拠点……その地における陣地にほかならなかったんだ。守護し、その発展に力を貸すのは当然のことだったんだろう。


 だから同時に、その国が、女神に敵対する存在ものにとって最大の標的となったとしても、何ら不思議じゃなかった。


 ある時、神官でもある国王に、女神からの神託が降りた。

「これより十五年後に、邪神が汝の国に舞い降りるであろう。防御まもりを築き、くにを囲え。邪神を退けるちからを打て」


 託宣は、もちろん国王のみに下ったわけじゃない。

 言葉として届かずとも、市井の占師達にさえ、女神の放った意向の不穏さは嫌でも感じ取れるほどのものだったんだ。


 沈黙は無意味だ、と民への直截の下知を指示したのは、国王の英断だったと言えるのかもな。

 やがて訪れる───おそらくは逃れようもない十五年後の災いに対処すべく、女神と王族の許での徹底抗戦の宣告と、その覚悟を、国王は民に通達したんだ。


 現実的に考えれば、それは単に神々の覇権争いにほかならず、いずれ侵攻してくる当の神が、本当に邪神かどうかは定かじゃない。

 けれど、女神を信奉している───天の声を聞き、人に持ち得ない能力ちからを持つ国王一族を信奉している国民にとっては、その託宣は紛れもない現実だった。


 それは彼らにとって、聖戦を意味していた。


 もとより国王自身とて、天からの神託を疑うべくもない。彼は即座に、己の成し得ることに着手したんだ。


 国王は女神の依代となるべき子供を……と言うよりも、天からの直接の指示を受け取って、くにに告げる者として、当時側室の腹に宿っていた我が子を、女神に捧げた。


 同時に、一年をかけて国内各地で武術の試合を行わせ、勝ち上がった戦士達を都に呼び寄せた。その後に行われた壮絶な御前試合の末、遂に国一の強者つわものを選定すると、その男に己の娘……それも正室の子である、正当な王女を与えた。

 もっとも、戦士である男を王族に迎え入れるためじゃあない。


 王族の血───女神の因子ちからと、選び抜かれた戦士の遺伝子を合わせ持つ、子供えいゆうを作らせるためにだ。

 邪神を退ける矛───神殺しの兵器えいゆうを創り出すためにだ。


 そうだな。

 側室の子である王子むすこは、女神という総司令部の命令を前線司令部に伝える端末に過ぎず。

 戦士の血に王族のそれを投与された王子まご───翌年に生まれた子供は、期待通り男の子だった───は、敵を倒す尖兵としての意義しか持ち得なかった。


 邪神の侵攻の前には、ただの人間に何一つ抗う手段などない。守りを固めるなどと言っても、それこそ効果的な何が出来るものでもないだろう。

 第一にそれ以前として、国民を守ることこそが、本来の王族の義務だ。


 神を倒すための兵器は、自らの血で作らなければならないと、彼は知っていたんだろう。


 ふたりの子供は、それぞれ王宮の奥深く……言葉を変えれば、神とも目される王族だけが暮らす、そのさらに人目に触れぬ奥深い聖域で、神官達によって育てられた。


 国王の意識では兵器───もちろん、我が子、我が孫だ。それなりに情はあっただろうが───であろうとも、常人にとっては、高貴とされる存在であることに違いはない。

 信仰の対象である王族、それも来る災厄の日に自分達民人を守ってくれることが約束されている、王子こども達だ。


 その養育に携わったのは、彼らに相応しいとされる人物。長きに渡る修練を積み、敬虔な信仰心に溢れた大神官達……過ぎるほどに老人達だった。


 つまり。

 彼らに悪気はなかったんだ。


 赤子の頃からそれぞれの王子達を敬い、畏まっていた老人達が、常に一歩控えて距離を置いていたのは、彼らの信仰上、当然のことだったんだ。

 常に自らは従者に過ぎないと態度で示し続けた彼らが、幼い王子達に与えたのは、義務とその意義。民を、国を、自分達を救って欲しいという願いだけだった。

 畏怖と、切望と、祈り。そこに幼い存在ものに当然注がれるだろう情は、なかった。


 ……いや、この言い方はちょっと酷、かな?

 老人達は決して、王子達を蔑ろにしたわけじゃあなかったんだから。

 それどころか、最大限の敬愛と責任を持って、王子達に率直に、彼らが担うべき義務とその報いとを、何ひとつ隠すことなく教え続けていたんだから。


 いずれ救世主となる王子達を、愛おしんでいいわけがないと、そんな立場ではないと、弁えていただけなんだから。


 でも、さ。

 恭しく、それでいて当然のこととして義務を要求され続けるだけの幼い心が、どれほど寄る辺ない不安と寂しさに襲われていたか。

 尊い血を宿し、いずれ兵器となるほどの能力ちからを秘めていようとも、王子達もまた、ただの子供なんだと。たったそれだけのことさえ、彼らは気付こうとしなかった。

 そんなこと考えもしなかったんだ。……無意識にであれ、彼らが目を逸らしていたのは、事実だったわけさ。


 誰もが、考えもしなかった。


 父も母も、殆ど会いに来ることはない。

 いや、王子まごの方には定期的に父である戦士が訪れていたけれど。

 それは父としてではなく、他の騎士団の団長と同様に、あくまでも武術の師としてのものだった。

 ……男が父親であると、王子が知っていたかどうかすら、誰も知る由はない。

 そして周りにいる老人達は、まるで見えない壁を挟んだ向こうから言葉だけを届けるような、従者の振舞いしか与えてくれない。


 誰からも優しいぬくもりを与えられなかった小さな存在が、どれほど本能的な心細さに震えていたのか。


 誰もが、考えもしなかったんだ。


 だから。

 神託が下ってから十年の後、ようやく引き会わされたふたりの王子の心に、互いを目にして初めて生まれた感情が、どれほど強く激しいものであるか、誰にもわかりはしなかった。


 初めて互いの顔を見た時。

『女神の面影を宿す』と讃えられる、よく似たその面差し。淡い色合いの瞳が殆どの人々の中で、一見すると黒に見えるほどに深い、深い緑の、王族だけが持つとされる瞳。


 周りの老神官達から話だけはいつも聞いていた、いずれ共に手を携えるべく育てられているという王子あいてだと、すぐに子供達は悟ったんだ。


 十歳の叔父と八歳の甥は……同じ境遇を、同じ寂しさを否応なく噛み締めていた幼い魂は。

 躊躇いがちに差し伸べた手を、恐る恐る握り返されたその瞬間に、互いがなくてはならない存在になっていた。

 たったふたりだけの運命共同体。血と、擲つことの許されない使命を互いに分け合う、兄弟であり親友であるを、彼らは初めて見つけたんだ。


 物心つく頃から刷り込まれた義務───皆を救って欲しいという、老人達の切望を無視するつもりは、もとよりない。それは王子達にとって、息を吸うことと同じほどに当たり前のことだったからだ。


 けれど。

 国のため、民のため、女神の御ため……と唱え続けられたそのどれひとつとして、王子こども達はその目にしたことがなかったんだからさ。

 国も民も女神すらも、王子達にとっては、単なる空虚な言葉でしかなかったわけだ。


 だから初めて、自分の義務を……自分が守るべき相手を守る、その意義を、その意味を。彼らは理解したんだ。

 だって初めて、守りたいと思う人が、目の前にいるんだからね。

 友愛か、親愛か、恋愛か。

 そんな区別すら必要もない。幼いふたりにとっては、相手こそが誰よりも何よりも大事だったんだから。


 

 初めて。

 とても───とても、嬉しかったんだ。



 獣の子が巣の中で寄り添って丸くなっているような、彼らにとって最も幸福な五年間は。本当に、放たれた矢のように、あっという間に過ぎ去ってしまった。


 そして。

 ついにその日が訪れた。


 その時、神官達の教授する国政の授業の合間の息抜きに、ふたりは中庭へと出ていた。

 雲ひとつない蒼天だった。

 それなのに、ふいに雷鳴が轟いたんだ。

 咄嗟に仰ぎ見た二対の緑の瞳は、空を切り裂く雷光を見た。

 本来それを生み出すはずの雲もない、まさに空を破って現れたかのような稲妻が、轟音と共に大地に襲いかかるのを。


 そして───雷光の刃が、振り下ろされた。

 王子達が立つ中庭の、その真ん中に。


 小さな軽い体躯は、危うく弾き飛ばされるところだった。

 咄嗟に手で庇った瞼の下でも、目を眩ませるほどの閃光と轟音と衝撃が、ふたりを襲ったんだ。


 王子達が身動ぎ、恐る恐る目を開けたのは、正直に言って、かなりの時間が経ってからだった。

 本能的に、すぐに目を開けることの危険を、彼らは感じずにいられなかったからだろう。


 ───目の前の、つい先程まで美しく花々の咲き乱れていた大地が、丸く広く焼け焦げ、陥没していた。

 そして、その中心に。


 一本の長剣が突き立っていた。


 何事かと宮殿を飛び出してきたのだろう老人達の狼狽の声を、遠くに感じながら、呆然と『兄』は、その美しい抜身の刀身を見つめていた。

 だから、その傍らからフラフラと『弟』が長剣に向かって踏み出すのに気付くのが、一拍遅れたんだ。

 はっ、と我に返った『兄』が止めるよりも早く、まるで何かに命じられたかのように、『弟』は長剣を引き抜いていた。


 光が、溢れた。


 まさに雷光そのもののような、光。

 刀身が放つその白い輝きに照らされた『弟』の横顔が、ゆっくりと『兄』を振り返った。

 泣き笑いのような彼の表情に、『兄』は躊躇わず、『弟』の許に歩み寄った。彼が自分を呼んでいると、『兄』にはわかったからだ。

 危惧も、不安も、なかった。

 ただ、『弟』が自分を呼んでいる。助けを求めているのであれ、何かを伝えたいのであれ、彼が自分を呼んでいるんだから。

 それを拒むという考えは、『兄』の中には全くなかったんだよ。


 小さな手が、掲げた長剣を彼に差し出す。

『弟』の手ごと、『兄』はその柄を握りしめた。


 そして───それで十分だったんだ。


 白光に照らされた互いの顔を、ふたりは見つめあった。どちらのよく似た面差しにも、泣いているような、笑っているような……同じように、複雑な表情が浮かんでいた。


 彼らには、今や全てがわかっていたからだ。

 天から降って来たこの長剣───神剣が、女神からの授かり物であり。この手にそれが触れた今、自分達に課せられた使命が始動したんだということを。

 女神に捧げられたふたりの王子は、まるでスイッチを切り換えたかのように、人のことわりから神のことわりへとその身が移行していることを理解したんだ。


 今や、自分達が何をすべきなのか。何が出来るのか。

 その輝く柄を握った瞬間に、全てが彼らの了解の下に明らかになっていたんだ。


「……行っておいで」

 柄から手を放し、『兄』が呟いた。

「……うん。行ってくるね」

 長剣を片手に下げ、『弟』が答えた。


『兄』は、微笑んでいたのかもしれない。

『弟』は、泣いていたのかもしれない。


 それが、互いに耳にする相手の最後の言葉だと、どこかで彼らは気付いていたから。


 いずれにせよ、慌てて駆け寄る老神官達が彼らに辿り着く前に、『弟』は身を翻し、中庭を駆け去っていった。

 そして狼狽する老神官達を尻目に、『兄』は宮殿へと戻り、静かに椅子に腰を下ろした。

 そして、目を閉ざし───二度と動くことはなかった。


 その体からは、神剣のそれと同じ白光が滲み出ていたと言う。

 それを目にした老神官達は、王子あにが今こそ女神の支配下に降りたことを悟った。

 ───それが、どれほど惨いことであるのかも。


 おそらく、が終わるまで、王子かれは食べることも眠ることも排泄することもないだろう。女神に仕える依代であるその身は、人としての理から外れた。全てが終わるその瞬間まで、肉体としての彼の生理は停止し……終戦と同時に、その結果として、命が失われることになるだろう、と。

 そう、悟らざるを得なかったんだ。


 滂沱と涙を流す育ての親達の遅すぎる嘆きは……いや、今はもう意味もないことだ。


 話を戻そう。

 神剣を携えた『弟』王子は聖域を風のように駆け抜け、を守るために特化した、あらゆる気配に敏感な衛兵達にすら気付かせることなく、王宮を抜け出した。

 頭の中に直接響く『兄』の声───示される、邪神の尖兵が出現する地点へと向かって。


 今や、『弟』は知っていた。

 肉体だけを宮殿に残した『兄』の目は、『弟』の目に映る物を映し、同時に女神の与える視界をも己がものとしていると。『弟』の聞く物音、声、気配を同じように感じ、同時にそれが何によるものかの情報データめがみより得ていると。


 肉体を失ったも同然の『兄』は、自分と共に在り、同時に女神と共に在る。彼我の世界の仲介者となって、この聖戦の陰で戦うことになるのだと。


 さて。その後の話は、わざわざ語るようなものじゃない。

『兄』の導きによって、何処からともなく城下街へと転移してきた敵……亜人の群れと、王子は戦った。

 突然の襲撃に町は混乱を極めたが、もとより聖戦は十五年も前に宣告されていたものだ。ましてや、都とも言うべき城下街の人々が自警を組織していないわけがない。

 圧倒的な戦闘能力を持つ王子えいゆうを支え、援護するために戦士達がすぐに駆けつけたんだ。

 十五年のその前から、元々軍に所属していた者。傭兵。商家の雇われの護衛といった戦士達に加え、王の下知以降、育てられた自警兵士の少年少女達。

 彼らもまた祖国を、同胞を守るために戦う準備を続けていたんだ。


 もちろん、誰ひとりとして王子の顔を知っていた者はいない。

 神の手の者に抗える存在が現れるなど、考えてもいなかっただろう。

 それでも王子の深い緑の瞳を見れば、その出自は明らかであり。彼が現人神である王家が民のために遣わした英雄であることを、人々は瞬時に悟った。

 もっとも王子本人は、自らが何者であるのかを言明しなかったから───『兄』以外の親族に滅多に会わなかった彼に、その重要性なんて理解出来なかったんだろうな───それはあくまで、公然の秘密ではあったが。


 それからの三年に渡る戦いは、まさに神話の冒険のそれと何ら遜色のないものだった。


 敵の攻撃を察知する度に告げられる『兄』の指示ことばに従い、王子は仲間達───もはやひとつの軍隊と言っても過言じゃあない───を率いて国中至る所へ、亜人の出現地点へと駆けつけた。

 何日も前から敵の出現地点を察知する王子に、人々は「さすがは、王様かみの御子」と畏怖に打たれはしたが、その行動を疑う者はいなかった。


 王子は……それが『兄』王子の能力ちからであり、彼が自分と共に在ることを、あえて言及することはなかった。

 自分の内に、もうひとりの王子がいるなどと、人々に理解することは出来ないだろうし、何より自らの犠牲を『兄』が誰にも伝えられたくないと思っていることが、彼にはわかっていたからだ。

 少なくとも、そう思うだろうと確信する程度には、王子は『兄』の性格をよく知っていたんだ。


 もちろん、王子には『兄』の真実の気持ちなど、わからない。

 彼らは互いに、明確な言葉として変換された思考こそ交わすことが出来たが、互いの心の内を知ることは出来なかった。

 全く別の人間、別の存在なんだ。相手が何を考えているか、何を感じているか、その全てがわかるという方がおかしいだろう?


 ただ、微塵も相手を疑うことなく、彼らは互いを信頼していたに過ぎなかった。

……ただ、それだけだったんだ。


 各地での自警兵士と、王子と共に全国を駆け巡る部隊とによって───何よりも、神に唯一対抗出来る神剣を振るう王子の存在は、まさに大きい───三年もの間、邪神の手下である人外の者を相手に、圧倒的な勝利こそなくとも、少なくとも戦いは敗北の憂き目を見ることだけはなかった。

 人々は踏み止まり、邪神に踏み躙られる犠牲も極々僅かに止められていた。

 よく、持ち堪えていたと言っていいだろう。

 人々は、まさに神の如き王子に心酔し、命を預けることをも厭わなかった。


 それでも、その内情は少しばかり違っていたけれどね。


 現人神としての王族を敬愛し畏怖する大人達とは違って、王子と歳の近い、まだ感性の柔らかな子供達は、いつしか彼を友人として扱うようになっていた。

 命懸けで最前線で戦い、皆を守る、その立場に何ら違いはなかったからね。彼を理由がなかったんだ。

 もちろん、王族かみであり救世主えいゆうである少年だ。全く無遠慮に、というわけにはいかなかっただろうが、王子の奇妙に子供っぽい性質に隔意を持ってもいられなかったんだろうな。

 人と接することの少ないまま成長してきた王子は、根本的に子供らしい純粋さを失ってはいなかったから。ある意味無垢で幼い素顔を知ってしまえば、絆されずにはいられなかったんじゃないかな。


 王子の方も、権力者のそれのように傅かれて育った、というわけじゃあなかったから、そうした少年達の扱いに反発することもなかった。

 むしろ、彼らと自分との距離が近くなったことを、喜んでいたんだろうな。


 ただ……時々、後ろめたさを感じてはいたんだろう。

 そうして自分の世界はどんどん広がっていくけれど、彼の半身とも言うべき『兄』は……同じように彼らの笑顔を見て、同じように彼らの言葉を聞いていても、決して触れることの出来ない場所にいる。

 彼らの傍らにちゃんといるのに、それを知ってもらうことも出来ない。

 ただ傍観しているだけしか出来ない『兄』の寂しさを、王子がわからないはずがなかった、と思うよ。


『兄』王子のことを皆に知ってもらおうと、王子が彼らに打ち明けようとしたこともあった。

 けれど、その度に『兄』に穏やかに止められていたんだ。

 それは、必要のないことだ、と。


 おそらく現実の話として、彼らと出会うことはないまま終わるだろう自分のことで、おまえの仲間達にいらぬ心痛を味わわせることもないだろう。

 おまえを取り囲む温かい仲間達の想いを見ていられるだけで、十分だ、と。




 三年だ。

 命懸けの戦いと、賑やかな日常を、王子は周りの少年達と、それまででは考えられなかった当たり前のものとして共有し続けた。

 その中にいるのは、戦いに従事する者ばかりじゃない。なんたって、国の存亡がかかっている。従者、小者、小間使い、料理人、医師、薬師……自主的に、防衛を担う一団に参加する人間、あるいは子供を差し出す人間は多かっただろうからね。


 そして、その中に、彼女もいた。


 ───愛らしい少女だった。あと五、六年もしたら、誰もが振り返るだろうと当たり前に思える可憐な面差しと、華奢な体つきの小柄な少女だった。

 何よりも、目の前の物事に一生懸命になってしまう素直さと、春の日溜まりのような笑顔が温かい、少女だった。

 病で早々に亡くなった両親の代わりに村全体で育てられた少女は、村の人々に、村を守ってくれる国の人々に恩返しがしたいという想いで、聖戦が始まってすぐに自警軍に参戦した。

 戦う術は知らなくとも、負傷者の看護や、食事の支度、物資の手配、と細々した仕事に、彼女は前線で従事していたんだ。


 悲鳴と絶叫と、怨嗟の声が響く戦場は、恐ろしかっただろう。

 血塗れの負傷者の姿や、壮絶な表情を刻んだままの亡骸の傍にいることは、恐ろしかっただろう。


 けれど華奢で小柄な少女は、青ざめ震えながらも、逃げ出したりはしなかった。涙を溜めることもあったけれど、笑顔を作り励まし合いながら、仲間達と共に走りまわっていた。


 王子のすぐ傍で。


 三年だ。

 千人単位の部隊であっても、それだけ共に過ごしていれば、互いの顔も見慣れてくる。部隊の中心である王子は別としても───実際、彼を知らぬ者はいなかっただろう───少なくとも見覚えのない顔があれば、すぐにわかる程度には、ね。


 王子とて、戦うだけが三年間の全てじゃあなかった。それに、常に無傷で勝利していたわけでもないから、看護の手を必要としたこともある。

 戦場以外の場で、彼女と顔を合わせ、言葉を交わす。

 そんな当たり前の時間だって、あったんだ。


 そうして王子と少女は、時間と共にゆっくりと、その距離を縮めて気持ちを育てていったんだ。


 彼女の無邪気で健気な気性と、温かな笑顔に、王子が惹かれていったのは当然の成り行きだったのかもな。

 彼女のように他意もなく嬉しそうに笑う人を、王子は知らなかったし、本当に分け隔てのない優しさを惜しみなく与える───それも義務なんかじゃなくて、だ───人の存在は不思議なものとさえ思えていたんだろう。義務と寄せられる期待だけが常に傍に在った彼には、押しつけられない、けれど包み込むようなその温かさが、とても貴重なものに感じられたんだと思うよ。

 ───人ならざる者であるとはいえ、命ある相手を直接手に掛ける日々を送らざるを得ない彼には、特にね。


 そして、少女の瞳の中に、自分への気持ちを……自分と共にいる、それだけで幸福だと笑う表情いろを認めてしまえば。

 きっと、愛しいという気持ちは、自然と生まれてしまうものだよね……?


 平時なら身分違いだの、興味本位の戯れだのと、空気を悪くするような視線もあったかもしれない。

 けれど、明日をも知れないのは誰しも───それこそ王子や少女もだ───同じだったし、何よりふたりが真剣だったのは見ている誰にだってわかることだったから。

 周りの仲間達は老いも若きも温かい眼差しで、ふたりを見守っていたんだ。


 少なくとも、、そうしようと思っていただろうな。


 ───そして、転機が訪れた。


 王子が防衛に出ていた中央前衛に陽動を向けておいて、敵の本隊が左翼前衛を食い破り、ついに部隊の中心にまで浸透襲撃を仕掛けてきたんだ。

 突撃してくる亜人の猛攻に、死に物狂いで人々は抵抗した。王子や仲間達も急いで反転して駆けつけたが、敵の牙は危うく非戦闘員───衛生兵を請け負っていた人々にまで届くところだったんだ。

 実際に、敵の刃に倒れた小者や医師もほんの僅かだけど、いた。


 彼女も……まさに間一髪というタイミングで王子が滑り込んだことで、かろうじて命を長らえたひとりだった。


 激しい戦闘の末、人々はどうにか亜人の群れを撃退した。


 けれど。

 王子には、その一瞬が……少女がまさに惨殺されようとしていたその瞬間が、目に焼き付いてしまったんだろうな。

 王子の動揺は酷いものだった。

 彼女を失うかもしれない。その覚悟は、出来ているつもりだったんだろう。

 でも、実際にそれが現実になってしまえば、覚悟なんて何の役にも立たない、と。彼は、知らざるを得なかったんだ。


 怖くなったんだろう。

 不安になったんだろう。

 彼女が、王子にとって、何者にも代えがたい唯一となっていたことを、王子は胸の痛みと共に認めずにはいられなかったんだ、と思う。


 だからその夜、王子が少女を抱いたのは……ただただ、必死な想いからだったんじゃないかな。

 ここに、いて欲しい、と。

 生きていて欲しい、と。

 衝動は、王子から何もかもを吹き飛ばす程に、激しいものだったんだろう。


 王子は、確かに少女を愛していたんだから。




 その翌日。

 どんなに呼びかけても、王子には『兄』王子の声が聞こえてはこなかった。


 ───それは、王子が女神の加護を失ったということに、ほかならなかった。




 その後の話は、もはやするまでもないよ。

 敵の動きがまるでわからなくなった王子を嘲笑うように、亜人の襲撃は国中のありとあらゆる場所で起こった。もとより女神の神剣ちからを授かった王子を中心として機能してこそ、人々は人ならざる敵と渡り合えたんだ。

 神剣を持つ王子が、その力を発動する場に間に合わなければ、もはや是非もない。


 それを撃つ先を示すレーダーがなければ、兵器があっても何にもならないってことを、王子は証明してしまったんだ。


 王子と仲間達が駆けつけた時には、すでに地は焼かれ、皆殺しにされた人々の屍が散乱している。

 そんな一方的な虐殺が、国中の至る所で繰り返された。

 迷走する部隊は、徐々にその士気も削がれ、不意を突かれるかたちでの度重なる襲撃に、成す術もなく瓦解が進んでいった。


 王子は戦った。

 最後まで、力を振り絞って。



 そして───国は、滅んだ。

 女神を信奉していた人々は、国王を始めとして老若男女を問わず、赤子に至るまで屠られた。


 敗れた女神は───彼女を信仰する人々を悉く失った女神には、もはやかつての力なんて無かった───地中深く繋がれ、天界はおろか、二度と世界の表舞台に現れることはなかった。

 こうして、女神の加護と恩恵を受けた世界は、滅びたんだ。




「……ずいぶんとロマンティックなお話ね」

 無表情に彼の長い話を聞いていた少女が、口を開いた。

 ブランコを囲う鉄柵に寄りかかり、彼を見下ろす白い顔は、長くまっすぐな黒髪に縁取られている。クラッシックな紺のセーラー服の裾が、風に揺れていた。

「つまり、王子が少女を愛したことが、王子の加護を失わせたの?」

「いや」

 小さくブランコを揺らし続けながら、彼は言葉を継いだ。

「加護を失ったのは王子じゃなくて、『兄』王子の方だったんだ」

 少女が僅かに眉を上げるのを眺めながら、彼は言った。

「『兄』王子は、常に王子と共に在った。

 王子と共に、少女の笑顔を、その泣き顔を、その躊躇いを、その心の向かう先を見ていた。王子を慕う少女の眼差しを見ていた。

 ───彼女に惹かれていたのは、『兄』王子も一緒だったんだよ」

「………」

「少女の嬉しそうな、幸せそうな瞳を間近にして、愛しいという気持ちが育つのは、どうしようもなかった。それが王子の物だとわかっていても……どうしようもなかったんだよ」

「………」

「同時に王子もまた、『兄』王子にとってはかけがえのない存在だった。たったひとりの大切な存在だった」

 自分の口元が皮肉に歪むのを、彼は感じていた。


「だから。王子が彼女を抱いた時……『兄』王子は、

「…………」

「たぶん、『兄』王子にもわからなかったと思うよ。嫉妬していたのは、王子にだったのか。少女にだったのか」



「目を背ける……咄嗟に『兄』王子はそうしたわけだけれど、それは、あるいは決して、してはならないことだったのかもしれない。それまでひとつに重なり合っていたふたりの王子の、何かを引き裂くようなことだったのかもしれない」

「たった、それだけのことが?」

「女神と人とは位相が違うからね。人の心の機微なんてわからないだろうし。

 それ以前に、王子達は女神に捧げられた存在だ。最初から自由意志なんて、考えもされなかったのかもしれないな。

 ひとつに寄り合わされたものが引き裂かれるなんて思いもしなかっただろうから、元に戻す術なんて、きっと最初から想定されてなかったんだ」

 ブランコを揺らす足を、彼は止めた。

「再び『兄』王子が『弟』にコンタクトを取ろうとした時には、全てが終わっていた。彼は、『弟』の傍へ心を寄せることが出来なくなっていた。そんなことになるなんて、思いもしなかった。

 ……そして、肉体を失っているも同然の彼には、もはや成す術はなかった。

『弟』が破れ、国が滅びるまで」


「そしてね」

 白く整った面立ちを、彼は見上げた。

「邪神とされた神の報復か。あるいは、女神の祟りか。

 案外、皆殺しにされた人々の怨みや呪いかもしれないな。

 いずれにせよ、滅亡の引き金を引いたふたりの王子、そして少女には大いなる罰が下されたんだ」

「罰?」

 彼は頷いた。

「うん。……例え、生まれ変わっても───すぐ傍にあろうとも、彼らの誰ひとりとして決して結ばれることは許さない、ってね」




 くすくす、と小さな笑い声が聞こえて、彼は首を傾げた。


「結ばれることはない……ね。それ、どういう意味かしら?」

「どういう意味?」

「私達は、言葉を交わすことも、笑い合うことも、触れ合うことだって出来るわ。確かに次世代に何物をも残すことは出来ないかもしれないけれど、それがどれほどのことだと言うのかしら?」

「………」

「それでも、ずいぶんマシだもの」

 何かに挑みかかるような笑みを、少女はその麗しい貌に浮かべた。

「私達に、優先されるべき義務はないわ。社会や人の思惑や立場や……確かに難しいものはたくさんあるけれど、それでも私達を引き裂けるほどのモノは何ひとつないわ」


「それとも?」

 鮮やかな笑みを唇の片隅に刻んで、少女は彼を見据えた。

「男に生まれた『兄』王子は、成長した暁には今度こそ力尽くで、?」


「まさか」

 彼は、苦く笑った。

 短く柔らかな手足。体躯に比べて大きな頭部は、未だ覚束ないバランスに頼りない印象を彼女に与えているだろう。


 今生、彼は未だ五年しか生きてはいないのだから。


「そんなことに、何の意味がある?」

 体だけ奪うことに、一体何の意味が? それだけで……このふたりの何を奪えるというのだろう。

 確かに、愛し合っている、このふたりから。


「そうね」

 初めて少女は、柔らかくその頬を緩めた。

「……あなたを、恨んではいないわ。私達は今、幸せだから、もういいの。

 もういいのよ」


 遠くから、少女を呼ぶ声が聞こえた。

 振り返った少女の向こうに、彼女と同じセーラー服姿の、華奢で小柄な少女が手を振っているのが見える。

 彼女に手を振り返して、少女は再び彼を見おろした。

 一見すると黒に見えるほどに深い、深い緑の二対の瞳が、互いに見つめ合う。


 そして。


 彼の懺悔を……長い昔話を黙って聞いてくれた少女が、微笑んだ。

 それは、いつかの誰かよりもずっと……ずっと優しい微笑みだった。


「さようなら。あなたが今度こそ幸せになってくれることだけが、今の私の願いなのよ」

「今度こそ?」

「今度こそ」


 少女は、微笑んでいた。

 彼は、泣いていた。


「……行っておいで」

「……うん。行ってくるね」




 生まれ変わったら今度こそ、「あなたが幸せであること」だけを、ずっと祈っていたのだから。


 ───彼も、彼女も。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダイジェストのその後で 高柴沙紀 @takashiba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ