「献体をしようと思う」


夫がそう告げた時、私は自分でも驚くほど、静かな心地でした。

ああ、その時がきたんだな。

ただ、シンプルに、そう思ったのです。

きっと、ずっと前から覚悟というか、予感というか、そんなものはあったのでしょうね。


彼は私を冷たい人間だと思ったでしょうか。

いいえ、少しは驚きはしたでしょうが、私のカンのよさはよく知っているあの人のこと。きっと「察していたのだろうな」とか、そんなことを思ったりしたのでしょう。


「献体」というのは自分自身を終わりにして、残った肉体をロボットのように活用してもらうこと。

人としての人生を終え、空っぽになった器である肉体の制御を、公共の人工知能に取って代わってもらうことです。

古い時代ふうに言うなら、自殺をして、その後臓器提供する、みたいなことになるのでしょうか。


自殺のようなものですが、これを自殺だと思う人はもういません。

望むままに長く生きられる時代だからこそ、自分を終える時は、自分で自由に決められるし、決めたい。

そしてその終わりの時、もしも自分の体がまだ「使える」ものであるならば、献体をして誰かの役にたてたい。

それは、今では当たり前の考え方です。


今の世の中、そうして献体された体が、色々なところで人のために働いています。

私たちが生きている世界は、人にとってとても生きやすい環境です。

だから、人とまったく同じ仕組みの生き物が、人のために働いてくれるなら、そんなありがたいことはありません。

人のために作られた食べ物でエネルギーをまかなえ、調子が悪ければ人と同じ方法で治せる。人と同じように喋り、人と同じ道具を使って働く事ができる。

そんな生き物が、身近で色々な手助けをしてくれるというのは、本当にありがたいことです。

私も、死ぬ時には、是非献体をして、私の体を世のために活かしてほしい。そう願っています。


だから、あの人が献体をすると言ったとしても、それは悲しむような事でもなければ、必死に引き止めたりするような事でもありません。

もちろんこれは永遠のお別れで、とてもさみしいことだし、引き止めたい気持ちが、全く、これっぽっちもないと言ったら嘘になるけれど。

でも、これだけの長い時間をあの人と過ごし、たくさんの思い出を積み重ねて。

今、あの人に対して思い残すことも、やり残した事も、悔いるようなこともありません。

本当に満足で、感謝の気持ちでいっぱいで。

だから素直に思えるのです。あの人が望んでいるのなら、そうさせてあげたい、と。


献体をする事を選んだとういことは、きっとあの人も同じように思っているのでしょうね。

だって、何か足りないこととか、悔いが残っているなら、きっとまだ生きることを選ぶでしょうから。


だから私は、あの人が献体すると告げた時、とても静かな気持ちでいられました。

むしろ、「ああ、この人は十分に満足できるだけ生きることができたのだな。私もそれに少しでも役に立てたのかな」と、嬉しく、誇らしく思ったくらいです。

だけど……そんなふうに落ち着いた気持ちではあったのだけど。

私は少し考えたあと、ひとつだけ、お願いをしました。


「献体する様子を見て、献体した後のあなたと、一度話をすることを許してほしい」


本当はいけないことです。

実際に目の前で献体の処理を見ると、どうしたって情だとかそういうものに心を動かされてしまいます。

それでトラブルになった事も過去にはたくさんありました。

だから、献体は基本的に1人きりで行い、お別れは、その前に済ませておく。それが世間の常識であり、ルールです。


でも、私はどうしてもそうしたかった。

あの人が身体を残して死んでいく様を、どうしてもこの目で見ておきたかったのです。


彼はちょっと驚いた様子でしたが、受け入れてくれました。

受け入れてくれたから、今、こうしてこの白い部屋で。

献体の手続きをする夫を、見つめています――



ガラス窓の向こうで、いくつかの機械に繋がった彼が、淡々と献体の手続きを進めています。

詳しい手続きの内容は非公開のため、音は聞こえませんが、何かを話したり、書いたり、端末に触れたり、頷いたり。普段では滅多にないような、複雑な手続きのようです。

なるほど人一人の生命がかかっているのだし、丁寧な手続きが必要なのでしょうね。


少し緊張した面持ちで手続きを進める彼をこうして見ていると、これから彼が死ぬということが、何かの悪い冗談のような気がしてきます。このあと何事もなかったような顔で「終わったよ」って彼が出てくるんじゃないか。そんな気がしてきます。

でも、違うのです。彼は、今間違いなく死ぬための手続きをしていて、これが生きている彼を見られる最後の機会です。

悲しいような、寂しいような、そうでもないような、なんだかとても不思議な気持ちです。


彼は引き続き、淡々と手続きを進めていました。

パネルを手に何かを読み上げたり、しばらく待たされたり。

そんな様子が繰り返された後、彼の視線がふっとこちらを向きました。

彼が、彼の目が、私のほうをじっと見つめていました。


ああ、何か大事な手続きが始まる。そんな気がしました。

彼は、いつものあまり上手じゃない笑顔で、私に小さく微笑みかけました。

やっぱりそうだ。きっとこれが、お別れの合図。

胸がきゅっと締め付けられるような、そんな心地がしました。

でも、決めていました。最後は、笑顔で送ろうと。

私は、彼に応えるように微笑みを浮かべると『ありがとう、さようなら』そんな気持ちを込めて、小さく手を振りました。

彼はもう一度微笑みました。その目が、その表情が『ありがとう、さようなら』そんな事を言ってるように見えました。

そして彼は横のご老人に何かを告げると、ゆっくりとその瞳を閉じました。

ああ、献体の処理が始まったのだ。そう、理解しました。

これで、お別れ――

最後の最後まで笑顔で送りたいと思っていたのだけど、やはり涙は止められませんでした。


しばらくして、献体の処理を終えた彼が現れました。

安全のため、直接は触れ合えない距離。透明な壁を隔てての対面。

こんな場所があるということは、こういう事を希望する人が他にもいるのでしょうね。

見飽きるくらい見慣れた彼の姿。少し睫毛の長いかわいい目。薄い唇。少し猫背気味の姿勢。今朝言葉を交わした彼と全く変わらない、でももう彼ではないものを目の前にして。

私はしばしの逡巡の後、一言

「こんにちは」

そう、声をかけました。

なぜ挨拶だったのか、それは自分でもよくわかりません。ただ、それがその場にふさわしいような気がしたのです。

すると彼は、柔らかに微笑み、言いました。

「こんにちは」

聞き飽きるほどに聞き慣れた彼の声。

でも、そこには親しさや、私に対する気持ち、気遣い、今日の機嫌、今日の調子、どんな色もついていません。

何の色もない、ただ淡々としたあなたの声。

こうしてあなたの肉体が目の前にあり、あなたの声がどれほど耳に心地よく響いたとしても。

あなたの声、あなたの表情が私を忘れた時、私の中のあなたも確かに死んだのです。

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献体の日に 中谷干 @nakayakan

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