献体の日に
中谷干
夫
「献体をしようと思う」
僕がそう告げた時、妻はさほどは驚いていないようだった。
「そうですか」
そう答えた彼女の目はとても穏やかで、柔らかで。
このことをいつ、どう伝えようかと何日も悶々とした身としては、少なからず拍子抜けしてしまった。
――まあ、察しのいい彼女のことだ。そんな日がくる予感はすでにあったのだろう。
「献体」というのは、自分の肉体を社会に提供すること。
臓器提供などと同じように、不要になる僕の肉体を、公共のものとして社会に献上して役立ててもらうことだ。
献体の後、公共のものになった僕の体には人工知能が組み込まれ、ある種のアンドロイドのようなものとして、世のため人のために働くことになる。
じゃあ体を献上した僕自身はどうなるかといえば、僕は当然死ぬ。
――というか因果関係が逆だ。僕が死ぬから、死んだ後不要になる肉体を、社会に献上するのだ。
僕はなぜ死ぬのか?
理由はいたってシンプルだ。
十分に生きて、十分に満足したから、死ぬ。それだけだ。
別に今何か重い病気を抱えているとか、何かに絶望しているとか、そんな薄暗い話は何もない。
肉体はいたって健康だし、気力も衰えていない。まだいくらだって生きていられる。
でも、僕はもう十分すぎるくらい長い時間を生きた。
本当に満足のいく人生を過ごしたし、やり残した事もない。悔いる事も何もない。
だから、死ぬのだ。自分の意思で、自分の決めたタイミングで。
こんな事を言うと、少し前の時代の人だったらちょっと驚くかもしれない。
でも、今はこれが一番普通でありふれた死ぬ理由だし、死に方だ。
人の寿命は、人が望むよりもずっと長く伸びた。
今や病気も老いも克服され、人はいくらでも、望むままに生き続けることができる。
かつては自然だとか運命だとか、そういうものが死期を決めていたのかもしれないが、今は違う。
人は、生きたいだけ生き、死ぬ時を自由に選べる、そんな時代になったのだ。
そんな時代だからこそ、ほとんどの人が「十分に生きた」「満足した」と思うその時に、自らの意思で死を選ぶ。
人はみな、死にたい時に死ぬ。
しかしその一方で、その器であるところの肉体は長い寿命を持っている。
ゆえに、人が死ぬタイミングと、肉体が使い物にならなくなるタイミングは、大抵の場合一致しない。肉体のほうがずっと長く使えるのだ。
ならば死んだ人の肉体を、すぐに灰にしてしまうのはもったいない。まだまだ使える体なのだから。
そこで、生前に希望した者は、死後、自身の肉体を社会に提供できるようになった。
死んだ本人の代わりに人工知能に肉体の制御をしてもらい、ある種のアンドロイドとして世のため人のために活用してもらう。
それが「献体」だ。
制度の誕生から長い年月を経て、今や献体によって提供された体はどこにでもある当たり前のものになった。
誰もがそれになにかしらお世話になっているし、その存在のありがたさを感じながら生きている。
それゆえ、宗教上のとか、何かしらの特別な理由のない限り、ほとんどの人が死ぬ時には献体することを選ぶ。
当然、僕もだ。
だから今、こうして、この白い空間で。
僕は今、献体の手続きを進めている――
「一度やると二度と戻れない。いいかね?」
白衣を着た厳しい老人が告げた。
このご老人も献体された肉体のひとつで、管理は献体管理をする役所が行っている。つまり動かしているのは人工知能だ。
それなら別に自動化されたパネル画面だけでもいいような気はするのだが、このほうが確かに雰囲気は出る。
「はい」
「では認証装置に触れながら、この内容を読み上げて。最後のところは自分で選んで」
手渡されたパネルには、簡単な文章が表示されている。
「私は自らの意思で献体することを……ええと」
最後の部分は、「望みます」「望みません」の二語が置かれている。渡されたものをただ読み上げた、のではなく自分でそれを選んだ、ということを明示するためだ。
「……望みます」
告げ終わると、画面が「確認中です。しばらくお待ちください」という表示に切り替わった。
頭部に繋がったデバイスがかすかな唸りを上げる。
僕が薬物や催眠、ナノマシンの類でコントロールされていないこと、そして僕の意思に嘘偽りがない事の確認の処理だ。これ以外にも、生体認証、個人認証つきの音声記録や映像記録など、様々な形で「本人が本人の意思で手続きをした」ということの確認と記録がなされているはずだ。
一人の人間の生命に関わることだ。万が一悪用されればある種の殺人が可能にもなる。
第三者の意思などではなく、本人がその意思で行っている、ということは過剰なくらいにしっかりと確認される。
微かな機械音をBGMに、画面のプログレスバーが少しずつ進むのを待つ。
今どき、「待つ」というのもなかなか珍しい体験だ。コンピュータの処理速度も何もかもが高速化され最適化されたこのご時世、ここまでの時間を待たされることは普段滅多にない。
まあ、手続きの途中で気が変わる人も少なからずいるため、そのための考える時間を用意している、なんていう話もある。何割かは演出みたいな意味もあるのかもしれない。
かくいう自分も、さすがに心変わりはしないにしても、これまでの人生にあったこと――特に、ガラス窓の向こうで今もこちらを見つめている妻との記憶――をふと思い返して少し涙ぐんだりしてしまった。
いや、もちろんよく考えて決めたことだ。死ぬことに対して抵抗もないし、悔いはない。
それでもやはり愛し長く過ごした人と別れることはたまらなく寂しい。
しばしの時を経て、画面が「お待ち下さい」から「完了」に切り替わる。
「献体の処理を始めるが、よいかね?」
横からさきほどの老人が尋ねた。
ここで「はい」と一言答えたなら、僕は死ぬ。
僕が僕であるという自己認識は完全に消失し、僕という人間は世界から消え去る。
僕の脳にある、僕の人格に関わるような記憶は、人工知能の抱えるデータの一部になりながら破壊されていく。
一方で僕の肉体は社会に役立つアンドロイドとして、朽ち果てるまで残り、肉体的に記憶された運動能力などはそのまま活かされ、誰かの役に立っていくことになるはずだ。
僕の全てが一瞬で全部ゼロになるわけじゃなく、何か残せるものがある、肉体という僕の人生の証が残る、というのは死にゆく者としては嬉しい。そういえば献体の制度が始まってから、極端に長く生きようとする人が減ったという話があったが、それも今ならちょっと分かる気がする。
ガラス越しに僕を見つめる妻に目を向ける。
僕が献体する瞬間を見たい、その後ひと言話しをしたい、と彼女に言われた時には驚いた。
でも、今はそんな気持ちも理解できる。
かつては肉体が朽ちることと死とは分かちがたく結びついていた。
人が死ぬ時には必ずそこに機能しなくなった肉体があり、機能しなくなった肉体の主は必ず死んでいた。
しかし今は、僕が死ぬことと、僕の肉体が朽ちることは、まったく別の出来事だ。
僕の精神が消失することこそが死であり、肉体がどんな状態であるかなんて、全く関係ない。
僕の精神さえあれば、僕の肉体が有機物でなくたってそれは生きていると言えるのだろうし、献体した後、僕の肉体がどれだけ元気に動き回っていたとしても、僕は生きてはいない。
こんな時代に、「死」というのはどう受け止めて、どう納得したらいいのか。
そういえば僕も、母親が死んだ時には、今後もう会えないという事を長い間うまく受け入れられずにいたんだっけ。
だからきっと彼女も、僕の死というのもを正しく受け入れるために、そんなことを望んだのだろう。
僕は彼女に微笑みかける。
うまく笑顔が作れたかどうかはわからない。が、伝わったのだろう。彼女は僕に微笑み返すと、小さく手を振ってくれた。
これで、お別れ。
色々な思い出が頭をよぎる。
長い時間、色々な経験をした。
もちろん、悔いはない。十分に満足している。
悔いがあったらこんなことはしない。もう少し生きる事を選ぶだろう。
僕は感謝の気持ちを込めてもう一度彼女に微笑みを返し――
そして「お願いします」と告げた。
微かな機械の唸り声の中、やがて、僕は死んだ。
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