7・マリコのシャイニーデイズ    

 ◇◆◇


 「ねーちゃん!」


 と前日に病院から退院したばかりの隆司が勢い込んでマリコの部屋にやってくる。


 「なんだなんだ騒がしいな、シスコン変態青年」


 それをマリコのエプロンを着けた従姉のミサキが出迎える。


 「あれ、ミサキさん?」


 「大好きなねーちゃんじゃなくて悪かったわね。だけどマリコなんかよりもアタシの方がよっぽど美人でスタイルもいいし、多分、経済力だって三十倍くらいあるわよ。どう?このエプロン姿もグッとくるでしょ?これを機会にアタシに乗り換えてみる気はなぁい?」


 ミサキは艶めかしくポーズをとる。


 「からかわないで下さい。それで、ねーちゃんは?」


 「マリコはいないわ」


 「いない?」


 隆司の顔が固く強張る。


 「そう、マリコはいないの」


 ミサキはなんでもなさそうな口調で言う。


 「それって……」


 「マリコといえば大変だったのよ。その様子なら『催眠男』のことはもうどこからか聞いているみたいね。そうなの、実はね……」


 「あのサイコ野郎!ぶっとばしてやる!」


 ミサキの話を終わりまで聞かずに隆司は壁を思い切り拳で叩いて部屋を飛び出そうとする。


 「ちょ……落ち着きなさい!タカシくん!」


 そんな隆司の背中をミサキが厳しく一喝する。


 広い法廷に高らかと響きわたるような、ハリのあるよく通る声だ。


 その声にすくんだ隆司が廊下で立ち止まってミサキを振り返る。


 顔は怒りと悔しさと圧倒的な悲しみがない交ぜになったためにグシャグシャになっている。


 「いいから一度落ち着きなさい、ね?」


 ミサキが声を和らげながら歩み寄る。


 「だって……だってよぉ……」


 隆司はその場に膝から崩れ落ちて泣きじゃくる。


 「ねーちゃんが……そんな気持ち悪い変態男に……チクショウ……俺が入院なんてしてないでずっと傍にいてやれば……」

 

 そんなふうに打ちひしがれる隆司の肩に励ますように手を置いたミサキは、おもむろに玄関の方を一度見やってから可笑しそうに微笑えむ。


 「……そう、そんなにタカシくんはマリコのことが好きなのね?」


 「ああ、好きだよ。大好きだよ。ブスでスタイルも悪くて性格も歪んでて冗談ばっかり言ってて全然女らしくなくて男にもモテないどうしようもない女だけど、俺には大事な大事なたった一人の大好きなねーちゃんだったんだよ。……それなのに……」


 「ありがとう、私も大好きだよ、タカシ」

 

 隆司が驚いて振り返ると、そこには少し照れくさそうにしているマリコが立っている。

 

 

 ◇◆◇


 


 「ねえねえ、もう一回、さっきみたいに私のこと好きって言ってみてよ」


 私は隆司の体に甘えるように纏わりつきながら言った。


 「……やめてくれ」


 そんな私を振り払うでもなく、隆司は心底恥ずかしそうにただ俯くばかりだった。


 「ヒドイですよ……ミサキさん」


 「いやいや、さすがにこれは勝手な君の暴走よ。アタシの言ったことを振り返ってごらんなさい?何一つ含みのある物言いはしてないから」


 「私の愛しい愛しいタカシは、素直でピュアな心の持ち主なんだから、あんまり面白半分にからかわないでよね、ミサキ」


 「どの口が言うのよ。あんたみたいにその単純おバカな男の子をからかって恍惚と快感を覚えるようなサディスティックな悪趣味はないの。弟も弟なら姉も姉よ」


 「何よその変態姉弟みたいな言い方は」


 「みたいじゃなくてその通りでしょうが」


 「ふん、何とでも言えばいいよ。私とタカシとの絆は他人には決してわかりえない程に深いところで繋がっているの。ね、タカシ?だからもう一回だけでいいから私のこと好きって言ってよ」


 「……もうやめてくれ、頼むから」


 隆司は耳まで真っ赤になって言った。


 「それでお目当ての本は売ってたの、マリコ?」


 ミサキは隆司のために話を逸らすように私に聞いてきた。


 「うん、やっぱり話題性充分だから目立つところに平積みになってたよ」


 そう言って私は、たった今書店で買って来たばかりのぶ厚いハードカバーの小説をバックから取り出してミサキに手渡した。


 例の十四歳の夏休みに読んだミステリー小説を書いた作家の約五年ぶりとなる待望の描き下ろし作品だ。


 何を隠そう、あの作品を読んでからというものの私はすっかりミステリー小説のファンになってしまい、今度の彼の新作にしても発売日を指折り数えながら待ち焦がれていたのだ。


 本を受け取ったミサキは特に興味もなさそうにその重厚な表紙の装丁を眺めてからまた私に本を返した。


 「あんたもその作家さんのこと本当に好きよね?」


 「ミサキだって弁護士やってるくらいだもん、この手の小説、好きなんじゃないの?」


 「その逆よ。弁護士やってるせいで一切その手の小説は読まないの。だって、わざわざ貴重な時間を割いて活字を追っかけて想像しなくたって、毎日毎日、嫌でも事件や事故と現実に対面しなければならないのよ。その裏側にある人間の醜聞だの強かさだのも含めてね。まるで小説や映画なんかのフィクションの世界の出来事なんじゃないかって思うほどに、現実の世の中には本当にたくさんの残忍で凄惨で理不尽でむごたらしいことが実際に起きているの。余った時間くらいそんな重ったるいものから解放されたいもの」


 「事実は小説より奇なり?」


 「そうね、よっぽど小説の方がキレイに筋道がたっていて納得がいけることばかり。誰がいつどういうわけでそんなことをしなければいけなかったのか?正義はどちらで悪はどちらなのか?地球は青いのか?血は赤いのか?……時々、現実の世界ではそんな当たり前のことたちがあやふやになってしまう時がある」


 「……確かにそうなのかもしれないね。世の中には現実を普通に生きたくても生きられない人たちだっているんだもん。真っ当に真っ直ぐ進んでいるつもりが、気付けば大きく蛇行していたり全く反対の方向に歩いていたり、生きるということはなかなか難しいものなんだよね。……だけど」


 「だけど?」


 ミサキは真剣な顔で私を見据え、私もミサキの目を真っ直ぐに見た。


 「だけど、それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。どんなに辛くても苦しくても馬鹿らしく思えても全て投げ出したくなったとしても、這いつくばって血ヘドを吐いて、それでも強くたくましく全力で生きて一生懸命に人生を全うしなくちゃいけない。それが私たちの使命、命ある者すべての義務なんだよ。……そうでしょ、ミサキ?」


 「……さあ、ただの三十路手前の独身キャリアウーマンのアタシにはよくわからないわ」


 そう言ってミサキはただ微笑むだけだった。


 でも、心なしかいつもよりも柔らかくて優しくて、とても嬉しそうにしているように見えた。


 「ほらほら、それよりも二人ともすっかり箸が止まってるわよ。日々仕事に忙殺されていつもは存分に振るうことができないアタシの料理の腕を、せっかく今日は余すことなく注いであげたんだから、全部残さず食べるのよ。タカシくんもいつまでもへこんでないで食べた食べた」


 ミサキはそうせっついた。


 「料理って言ったって、ただのサラダと豚の生姜焼きじゃない。こんなの料理の内に入りません」


 「それにこの生姜焼き、ただ豚肉を生姜で炒めただけですよね?」


 ようやく復活した隆司が言った。


 「え?だから『生姜焼き』っていうんでしょ?」


 「……ちゃんと味見しましたか?」


 「人生は出たとこ勝負、味見も下見もできないから面白いのよ坊や。ねぇ、マリコ?」


 「ごめん、さすがにこれは庇いきれないかも」


 「ふん、そんなに文句があるなら食べなくてもいいわよ、もう……」


 「あ、でもこのアサリの味噌汁は美味いですよ。そうだよな、ねーちゃん?」


 慌てて隆司がフォローをいれた。


 「うん、そうそう、とってもいいダシが出てる。これはセンスがないとなかなか出せない味だよ、ホント」


 「そうね、その『お味噌汁の素』を作った人はきっとアタシなんかと違ってセンスがあるんでしょうね」


 ミサキはすっかりふて腐れてしまった。

 


 ***

 


 ミサキが帰った後、隆司はまた後片付けを手伝ってくれた。


 私がテーブルを拭いたり空いた缶や瓶を処理し、隆司が茶碗を洗った。


 私は黙々と無駄のない動作で茶碗を洗う弟の背中を見つめているうちに、改めて隆司がさっき言ってくれたこと、そしてこの前お母さんが言ってくれたことを思い出した。


 「……ねえ」


 「うん?なに?」


 隆司は背中を向けたまま応えた。


 「さっきはアリガト。私のことすごく心配してくれたんだよね?本当に嬉しかったよ」


 「……うるせーよ」


 「こんな、ブスでスタイルも悪くてなんの取り柄もないお姉ちゃんだけど、愛してくれて本当にありがとう。私もタカシが思ってくれているのと同じくらい、タカシのことを愛してるよ」


 「……うるせーって」


 「そしてお父さんもお母さんも私のことを愛してくれているし、私も二人のことをとても愛してる。ミサキだってそうだね。……ほら、私にはこんなにも愛してくれる人、そして愛する人がいるの」


 「……」


 隆司は手を休めずにいるけれど、その無言の背中からはしっかりと私の言うことを聞いてくれているというのが伝わってきた。


 「私はすごく幸せだよ、タカシ。うん、こんなに愛の溢れる豊かな生活を送っている私は本当に幸せ者なんだなってつくづく思う。なんだか何でも中途半端でデキ損ないみたいな私だけど、愛だけは確かにこの手に持ってる。その愛がある限り、私はちゃんと生きていける。強く前に向かって歩いて行ける。……だからもう大丈夫。もう何も心配することなんてないよ。タカシはもっとタカシ自身の幸せを追いかけてもいいんだからね」


 「もういきなり倒れたりしないか?」


 「大丈夫」


 「もう……死のうだなんてしないか?」


 隆司は振り返った。


 「うん、大丈夫」


 私は心配ないという印にニッコリと大きく笑った。


 「わかった。……だけど今までみたいにちょくちょく顔は出すからな」


 「シスコン変態ストーカー青年」


 「ああそうだよ、それの何が悪い」


 「あ、ついに開き直った」


 私はプッと吹き出し、隆司も楽しそうな笑い声をあげた。


 「でも大概にね。じゃないとそのうちマキちゃん、呆れて離れていっちゃうよ」


 「マキちゃんとは……そんなんじゃねーよ」


 「本当にいい子だと思うな。小学生の頃から看護師さんになりたいって言ってたけど、まさかそれを実現するだなんてね。……お母さんの影響なんだって。具体的にはよく解らないんだけれど、マキちゃんのお母さん、小さい時に誰かに命を救われたらしいの。だからお母さんは人に救われたその命を今度は誰かの命を救うために役立てたいって看護師になったんだけど、マキちゃんもその話を聞いて自分もお母さんがいなかったら生まれてこなかった、だから私も誰かに救われた命なんだって言って同じ道を志したんだって」


 「……なぁ、どうしてそんなにマキちゃんのことに詳しいんだ、ホント?同級生だった俺よりも知ってるじゃねーか」


 「いやー本当にいい子。あんな子が義妹になってくれたらいーのになぁ」


 「聞けよ、人の話!」


 

 これから私の人生が一体どれくらい続いていくのかはわからない。


 この先百年生きるのかもしれないし、はたまた今晩のうちに死んでしまうとも限らない。


 私にはわからない。


 風の行方も、日本の未来も世界の明日も、自分はこのままでいいのか、それとも悪いのかも、私には何一つわからない。


 ……ただとりあえず信じてみようとは思う。


 こんな私でも確かに生きているんだっていうことを。


 それだけで、私の生活は豊かな光線に照らされた、立派なシャイニーデイズなんだと。


 「あ、また雨が降ってきやがった」


 「そんな嫌そうな声出したら可哀相でしょ」


 「ずいぶん雨の肩を持つんだな」


 「だって、雨が悪い人とは限らないよ」


 「じゃあ、雨は良い奴なのか?」

 

 「ええ、おまけにあんたなんか足元にも及ばないくらいにいい男だよ、きっと」


 

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レイニーデイズ・シャイニーレイズ @YAMAYO

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