打ち上げ花火

忠臣蔵

打ち上げ花火

 リジーは今日で部屋からいなくなる。就職のため海外へ研修に行くのだ。

 ユクスキュルという昔の生物学者によれば、ダニは人間のことを人間と思っていない。血を出す巨大な温かい袋だと思っている。もっともこれはダニの認識能力の乏しさを指摘する意図で述べられた見解ではなく、その逆――つまり、人間以外の生き物が周囲の世界をいかに人間と異なった、豊かな意味合いにおいて捉えているかを示唆するものだ。彼はこれを自分の著書で環世界と名づけている。ダニと人間は同じ世界の中に投げ込まれながら、それぞれ異なる環世界を生きているのだと。

 リジーはダニの一種なので当然ながら人間とは異なる環世界に暮らしているわけだが、それが原因で同居にトラブルが発生することはこの四年間ついぞ無かった。たとえばリジーがこの脳味噌を乗っ取るとか、むしろ地球を乗っ取るとか、そういうことがあればよかったのかもしれないが現実はつまらないものだ。変わったことといえば、昔働いていた近所の繊維工場が閉鎖したことぐらいか。

 というわけで、冷蔵庫の隣の四角くて真っ黒な保温器から円形のシャーレを右手で取り出す。左手で握り締めたスマホでアプリのトークルームを開くと、〈おはよう〉という文面が絵文字つきで表示されている。こちらも〈おはよう〉と打った。絵文字は入れない。実際に本人と会話しているわけではないからだ。

 正確には、リジーの本能的な認識や走性のパターンを中央政府の感情省がデータとして収集し、それを体内に埋め込まれたナノチップのAIが翻案し、あたかも知能を宿した存在としてコミュニケーションを投げかけているように見せているのだった。今の例では、真っ暗な保温器から蛍光灯の明かりの下へとシャーレを突き出すことでダニであるリジーは灯光に反応したわけだが、それは人間になぞらえれば夜が朝になったのと同じことだから、おはよう、という文面を生成すべきとAIが判断した、そんな感じだ。詳しいメカニズムは知らない。四年前、係員の人に聞かされたことを自己流で解釈しているだけだ。

 ダニと同居するバイトを始めたのは大学一年生の夏休みだ。元々は治験ボランティアの名目での応募だったが、面接に出向いてみるとそんな話をされた。生育省が最新技術を結集して飼育した特別なマダニと同居する仕事。特別な保温器も貸し出されるので専門的な室温管理は不要、餌や予備のシャーレも定期的に支給されるから説明に従えばさしたる苦労はない。旅行などで長期不在になる場合は代理人を見つけなくてはならないなどいくつかの制限はあったが、下宿暮らしの身空でも充分に実行可能な内容ではあった。金払いもよい。ちょっとよすぎるほどで、怖くなって他のバイトもしたが長くは続かなかった。せいぜい半年だ。卒業するにあたり確かめたが、月額に換算すると就職予定の場所の初任給の七割ほどをもらっている。いかにも辞めるのが惜しくなってきて、すると人形遊びの延長と分かっていても別れに際して真心の通ったやりとりを残すべきではと、シャーレに向かってスマホを介して呼びかける。

〈おはよう。今日はいい天気だね〉

〈そのようですね。洗濯物は干しましたか?〉

 リジーは同居している人間が夜中に洗濯機を回していることを知っている。隣が空室になってからの習慣だった。就職先での事前懇親会やら研修やらで帰宅が深夜になることも多く、すると他に空いている時間がない。丑三つ時に洗浄を済ませ、繊維工場とちょうど反対方向にある24時間営業のコインランドリーで乾燥を済ませる。というかいつでも洗濯物は干さず乾燥機を利用していて、なぜかといえばベランダがないからだ。一度説明を試みたが途中で面倒くさくなり、話を適当に合わせていたら勘違いされた。誤解はとけないままにお別れとなりそうだ。

〈うん。干したよ。いい天気だね〉と返信しておく。

 最後の日だといってもなにをすればいいのだろう。Youtubeで観た「【完全版】プロの作る本物のペペロンチーノ【超簡単】」という動画を参考に昼飯をつくりながら考えたが、いいアイデアは浮かばない。

 一般論として、相手の喜ぶことをすべきだ。

 たとえばリラックスできる環境を提供する、とか。これが彼女とかなら下北沢とかにある石鹸ばかり置いている店のアロマでも焚けばいいのだろうが(そんな店に入ったことはないのであくまで想像の産物だが)、そもそもリジーにとってもっとも好ましい環境はこの部屋ではなく保温器の内部だ。実現は難しいというか意味がない。理想の暗室は現に存在し、こちらはそこから愚かにも連れ出してしまっている立場なのだから。

 いいものを食わせる。悪くない。たとえばお手製のペペロンチーノ。しかしダニはそんなものを食べない。そもそも最適な餌が雇用契約の相手方から定期的に送られてくる。新たなものが届けられることはないが今日を乗り切ってなおありあまる分は確保されている。コンビニで売っているコンソメキューブのような見た目と大きさで、この量でおよそ一週間は保ってしまう。与えると〈ありがとう〉とか〈おいしいです〉とか返信してくれる。

 娯楽を与える、というのはどうだろう? 娯楽、という言葉にふさわしい物体を部屋の中で探しあぐね、ひとまずテレビをつける。実家で処分する予定だったものを譲り受けた。かろうじてブラウン管ではないが本体だけではDVDもブルーレイも再生できない。映ったのは中央政府放送の正午のニュースで、ソマリアに派兵されたうちの国防軍がロシア軍と協力して反政府勢力を殺しているとアナウンサーが言った。チャンネルを替えるとゴルフとマラソンとドラマの再放送と旅番組の再放送をやっていた。ドラマはジャニーズの誰かが、旅番組は元関取が出演していた。すべての放送局を確認したが放映されているのはスポーツか夜の番組の再放送だけだ。

 悩んだ末にトークルームのログを音読してみることにする。音声認識をオンにして、リジーが内容を理解できるようにしてからひとつずつ声に出してみる。

 最も古い記録によればリジーに〈マダニ?〉と話しかけている。それに対する返信はこうだ。〈マダニは、節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 (Ixodidae) に属するダニの総称である。/マダニの唯一の栄養源は、動物の血液です。幼ダニ・若ダニは発育・脱皮のため、成ダニは産卵のために吸血します。その吸血の際に、原虫やウイルス、リケッチア、細菌などさまざまな病原体の重要なベクター(媒介者)となることがあります。/マダニが媒介するウイルス感染症「重症熱性血小板減少症候群(SFTS)」を予防するためには,マダニに咬まれないようにすることが重要です。/マダニ/マダニの/マダニは、幼ダニ期から若ダニ期にかけて2度の脱皮をへて成長し、成ダニ期を迎えます。/マダニの感染症に注意!/野山の河川にはむやみに近づかないようにしましょう。〉

 記録にはないが文面の一文をコピーしてネットで検索した記憶がある。冒頭はWikipediaからの引用で、あとは厚生労働省とか環境省とかが出している生態の解説や注意喚起の切り貼りだ。ということを確認してがっかりした記憶もある。AIというからもっと自然な会話を演出してくれると踏んでいた。これではSiriのほうがよほど優秀じゃないか。

 とはいえ、こういう不器用さがいじらしいというか愛らしいというか、そういう風に思えてくるのに時間はかからなかった(大学生活が想像以上に暇なもので、ちょっとおかしくなっていたようだ)。二年生の盆休みだったか、実家に帰省した折に犬か猫でも飼わないかと両親に打診したこともある。理由を聞かれ、バイトで同居しているマダニがかわいいからということを述べると、わけがわからないと言いたげにしきりに首をかしげられた。

 同居。仕事内容についてはそのように説明されている。

 リジーを飼育しているとは思っていない。言いたいのはこういうことだ――バイトの内容がそもそもマダニとの同居であると告示されていたのであって、おれが愛らしさを感じたあげく、これは同居であると思い込んだわけではない。そういえば、今回のお仕事が未来の同僚との交友を深めるきっかけに、などと冗談のようなことがパンフレットに書いてあったが、こうなってみるとあながち嘘とも言えない。地球の裏側にいようといまいと同じ部署で働き同じ月を見る社会生活を思い描けば、マダニとだって同僚になれる。

 何の話だっけ? そう、リジーとの思い出話だった。

 あとはこんなこともあった。新潟のほうへスキー旅行に出向いたとき不在のあいだの代理を依頼する相手が見つからず、とうとう一緒に連れていかざるをえないことになってしまった。とはいえ保温器を持参するわけにはいかない。少なくとも自分の冷蔵庫よりも大きいし(シャーレ1個に対して明らかにスペースの無駄なのだがどういう理由かは不明だ。温度管理との兼ね合いという気がするが、単なる推測なので本当のところはわからない)、高価で特殊な装置であるからして万一の損害賠償の額は四年分の学費を上回っていたから、リスクを勘案してカイロでどうにかすることにしたのだった。新幹線に乗っているあいだは何とかなったのだが、現地に到着してみると旅館のストーブが壊れていることが判明してしまう。従業員の人に預かってもらうことは不可能だった――代理人を立てる際は、信頼できる相手を自分が選定したうえで誓約書をしたためてもらわねばならない。見ず知らずの旅館の従業員をあてにすることはできなかった。で結局どうしたかというと、人間が寝ている蒲団の内部はおよそ33度に保たれるということをネットで調べ、ゲレンデには出ずに終日を蒲団の中でシャーレを抱えて過ごした。元々来たくて来た遊びではなかったのでそれでよかった。チャット機能のカメラを通して友だちが楽しむ様子を見ながら背中を丸め、俺はリジーに話しかける。

〈リジーはバイトが終わったらどうすんの? おれの同僚って具体的にどういうことなん?〉

〈モガディシュの天候:晴れ〉

〈なんじゃそら笑 わけわからん笑笑〉

 粗雑な口調だ。このときはまだ丁寧な口語でないと反応が鈍いことを理解していなかった。

〈寒い~ストーブつかんとかマジありえん笑〉

〈ストーブがついていません〉

 とリジーは返信している。どう答えたらよいのか迷って、

〈いやそうだよ?〉

 と当時のおれはメッセージを打ち込んでいる。

〈ストーブがついていませんか?〉

〈そうです笑 ストーブがついていません〉

 ペンギンが雛の卵を抱えるように、腹にシャーレをくっつけている。電気もつけず寒気に肩を震わせながら舌打ちした。よりにもよって害虫とこんなやりとりをしているうちに長期休暇が終わってしまいそうだ。

〈ストーブをつけますか?〉

 そのメッセージにはすぐに既読がついた、というか自分でつけたのだが、読んでも意味をとりかねた。こいつはいったい何を言っているんだ? 垂れ流しのチャットの音声をミュートしてから、首を突き出して部屋を見回す。畳、押し入れ、蒲団、テレビ、ビデオデッキ、壊れたコタツ、壊れたストーブ。

〈ストーブをつけます〉

 少し考えてそう返信すると、かちんと金属を指で弾くような音がして、壊れたものの片方、部屋の隅に設えられたほうが橙色に光り始める。錆びて赤銅色になった金網越しに熱源が燃えていく。上体を伸ばし掛布団から突き出した手の甲をかざすと温い。

 振り返ると粉雪が窓外を舞っている。窓枠の上端に吊り下がったつららが、見えない手にように垂直に落下し、鋤を土に振り下ろすような明快な音を立てた。

 今頃あいつらはなにをしているんだろうか、スキーやスノボをしているに決まっているか、それにしてもゲレンデは寒いだろうと、当たり前のことを考えながら午後をやり過ごした。



 アパートを出て、鍵をかけ、財布をコートのポケットにしまう。細道を出たところにある自販機でホットの缶コーヒーを買い、がこんと音を立てて飲料が吐き出されたところで選択を後悔した。いくら十二月でもこんな時間にコーヒーを飲んだら睡眠に支障をきたす。社会人としてこれから早寝早起きを習慣づけなくてはならないというのに、こういう手癖は今のうちに直していかなくては。

 コンクリートの階段を昇り堤防の上にたどりつく。風が鳴っている。

 リジーを連れて夜半の川べりを行く。鯰の皮膚を思わせる質感のあおぐろい水面は、林立する常夜灯の橙光を受けてふるえるようにうごめいている。晴れているが月は出ていない。風が鳴っている。薄手のボトムスの生地を間断なく冷やしている。踝が縮こまるが、上半身は逆に空気を含んだように膨らんでいく。コーヒーはおいしくない。缶だとブラックはまずくて飲めないので加糖のものを買うようにしているがそれでもおいしくない。

 懐中電灯のアプリを起動し、国道の通る大きな橋のほうへ歩く。眼下には遊歩道が川沿いに延びていて、橋げたに隠れるようにしてブルーシートがある。ホームレスだろうがなんだろうが他人に見られたくない気がしていた。省庁から正式に依頼された業務だし、これをもって終了するのだから身構える必要はなかろうが、かといって見世物になるつもりもない。どこかのYoutuberが自分で撮影し実況している動画もあったが、ああいうことをする度胸もない。ああいうことで生活できれば楽しい気もするが触手が動かない。なんだかんだと一年生のうちから内定が出てしまったことが影響しているのかもしれないが、振り返ると万事そんな調子で、部活動にもサークルにも入らず慣性の学業と付き合いをこなしているうちに卒業年度になってしまった。いきなり将来が不安になってきて、すると反射的にくしゃみが出て洟をすすった。これから年末なのに風邪をこじらせ寝込んでしまえば休暇が台無しだ。

 寒さに空気が澄んでいるのか、通り過ぎる自動車や自転車のヘッドライトはどれも輪郭が明確でそれぞれ独立した生き物のように見える。橋をスニーカーで渡っていると振動が足底に伝わり、同時に無数の光源が傍らを通り過ぎ追い越していく。吐きかけられる排気ガスが悪臭と熱を拡散し消える。冷凍食品の会社のロゴが入った白い大型トラック、青いワンボックスカー、高速バス、いろいろな車種が通り抜けていくのを横目に見ながら反対側の堤防まで渡りきる。下草の密生する急な斜面を、踵を埋めるようにしてふんばりながら斜めに下っていく。

 繊維工場は青みがかった墨色の空を背景に、なおも黒々とそびえているのだった。昔働いていたときに貰って返していない鍵の束を取り出し、入り口の門扉を開ける。不法侵入だがリジーに頼まれたのだからしょうがない。

 頼まれたのは映画館に入る直前だった。機会があれば映画をいっしょに観たことを思い出し(といってもシャーレをリュックに忍ばせ上映中に取り出して膝の上に置くだけなのだが)、ふとセンチメンタルな気分になった。そんなところだ。

 映画の内容はこんな感じだ。外国の海辺の街で金持ちの大家族が暮らしている。そこに親戚の女の子がしばらく滞在することになる。家族のうち最年長のおじいさんが劇中で自殺未遂を起こし、以後のシーンでは車椅子で登場する。引退して息子と娘に家業を譲っているが、息子の名前を忘れることがあるので家族にはと思われている。あるとき女の子とおじいさんはふたりきりになる。おじいさんは女の子に頼みがあるという。自分の自殺を助けてほしい、と。

 真夏の海辺は陽光を跳ねて清潔に輝き、女の子は積乱雲のそびえる青空の下、車椅子を押していく。なだらかなコンクリートの下り坂。手を放すと車輪が回転し、おじいさんの身体は坂を突き進みやがて波間に沈む。いや、途中で浮力が働き首から下までは海水に浸かるのだが、肝心の口元や鼻元、呼吸を塞いでくれる高さまで海面が達しない。迫り来るおだやかな波は我知らずとばかりに寄せては引いていく。おじいさんは真剣な眼差しでもっと奥まで進もうとする。女の子はしばらくそれを見ていたが不意にスマホを取り出し撮影を開始する。三十秒ほどその映像が続く。なにも起こらない。やがて叫び声が聞こえてくる。ふたりの背後から慌てて駆け寄る息子と娘が映り込み、映画は終わる。

 実は冒頭と中盤でうとうとしていたので、見過ごした場面が少なからずあった。女の子の普通じゃない行動も――他人の自殺を撮影するのは普通の行動とはいえない――、心の闇とかなんとか理由はあったのだろうが、間の悪いことにそういう描写を見逃したようで、なにがなんだかわからないままに鑑賞を終えてしまった。

 1500円も払っておいて釈然としないので同居人に感想を尋ねた。

〈自殺にも誰かの助けが必要なのですね〉

〈よくわからない〉

〈助け合いというのは大切です〉

〈よくわからない。どういうこと?〉

〈助け合いは大切です〉

 なんだかなあと、のっぺりした夜空を仰ぐ。性能がどうとかじゃなくて、単にこいつのAIが壊れているだけなのだろうか。

 もちろん、その可能性に気づいたところで手遅れだった。今夜はリジーが打ち上がる日だ。

 鉄骨が剥き出しの螺旋階段を昇り、屋上へ辿り着く。のっぺりした夜空へ向けて焼却炉の煙突が突き刺さっている。先月、最後の餌のセットと抱き合わせで郵送されてきた導火線をほどきながら、ビニール紐で雑誌をまとめるようにしてシャーレの外側を十文字に結わう。なぜこの工場なのかはわからないが(ログを確認した限りではここで働いていたことをリジーも知っている)、なるべく広いところで行うべきと附属の説明書に記載があったから好都合といえた。ほぼ真四角な剥き出しの空間の対角線をイメージしながら、交差する中点を探ってうろつく。今月に入ってからまとまった降雨がなく、コンクリートが乾ききっているのは僥倖だった。砂埃を足先で払いながら見定めた地点にシャーレを置く。

 煙草は喫わないから初めて操作する百均のライターは想像よりずっと固い。就職先のことを考えれば健康を気遣うべきなので今後も喫う予定はない。右手の親指に思いきり力を入れるとようやく点火する。風が強まってきた。頬に吹きつける痛みをこらえながら歪む橙色を導火線の先端へ近づける。指先が焼けて、叫びながら手を放すとライターが転げ、同時に導火線がしゅわしゅわと音を立て燃え盛る穂先をシャーレへ運ぶ。火傷した箇所を口に含みながら、ジーンズのポケットをまさぐりスマホを握る。利き手ではないのでぶれるかもしれないがしょうがない。

 ぱりん、とシャーレが弾けるように割れて、透明な膜が一瞬浮かび上がる。四年前にマニュアルで読んだとはこれのことらしい。膜はすぐに光球に変わる。朱色を帯びた小さな太陽が放つ光量は想像以上で、自分の所業が衆目に晒されやしないかと動悸が増した。まるで線香花火の死に際の逆再生のように光球は垂直に夜空へ打ち上がる。俺はそれを動画で撮影し続けた。夜の縁、都会の汚れた空気の向こうで鈍く光る一等星と同じ高さまで上昇すると、ひときわ強く輝き、そして見えなくなる。足下から巻き上がる冷たい風がまだ鳴っている。鼻腔の高さまで砂埃を巻き上げ、反射的にくしゃみが出た。

 帰宅後、くぐもった発射音を聴きながら動画を再生しているとリジーからメッセージが来ていた。向こうから来るのは初めてだ。お別れのあいさつだろうと思った。違った。

〈来年度からもよろしくお願いします〉

 文末に笑顔の絵文字がついていた。スタンプも添付されている。何年か前に購入したものだ。購入したスタンプを勝手に使うことがあるとは聞いていない。

 来年度というのは国防軍に入隊している頃だ。防衛省に就職先を斡旋してもらう約束でこのバイトを始めたのだった。将来想定される特殊な同僚との共同生活を数年かけて差し障りなく行うのが内定の条件だった。すでに懇親会や研修にも出席している。就職したらさっそく海外に配属だ。そう聞いている。後方支援だから生命の脅威はないとも聞いている。同じ進路のやつは何人か知っている。下手に民間のブラックに入るよりは公務員のほうがいい。将来の転職でも有利になるし。

 スタンプの後に送信されたメッセージを確認する。Google Mapの位置情報だった。右手でアプリの地図を開き左手でテレビのリモコンを握りテレビをつけた。夜のニュースをやっていた。紛争がこじれているので〈リジー〉と呼ばれる肉眼では目視不能な超小型生物兵器およそ500匹を順次戦線に投入する予定だとアナウンサーが言った。アフリカ大陸の白地図に赤い点で紛争地域が表示され轟音を上げるヘリコプターの下で砂に頭を埋めたまま血を流して動かない国防軍の人たちの映像が表示され、顕微鏡で覗いたマダニの映像に切り替わると同時に〈リジー〉たちは同盟国と知り合いの就職先である大手企業との共同開発により実現されたという解説がなされ、そういえば最後までリジーと呼んでいたが犬猫じゃあるまいしダニに名前をつけるほうがおかしいと思い直しているあいだに手のひらのアプリはモガディシュの周辺地図を告示する。

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