桜の時

一ノ瀬 愛結

第1話

満開の桜の下。


少女は背を向けるようにしてたたずんでいた。


春のいたずらな風が、花びらと共に少女の長い黒髪を巻き上げる。


「なんだよ、急にこんな所に呼び出して」


不意に投げかけられた言葉に、少女はゆっくり振り向いた。


「お前、今日卒業式じゃないのか?」


男がいぶかるような視線を投げると、少女は困ったような顔をした。


「どうしても、貴方に伝えたいことがあって」


「はぁ?そんなの式が終わってからでもいいだろ」


男には少女の行動が理解できなかった。


高校の卒業式の朝、いきなり電話で呼び出されたのだ。


『今すぐ会いたいの。あの桜の下で待ってる』と――――


「だいたい、お前。俺とは口ききたくなかったんじゃねぇの」


つい乱暴な言葉が出てしまう。


3日前、ほんの些細な事で口げんかになった。



卒業記念に何か欲しいとねだる少女に、男はコーヒーを啜りながら言った。


「お前の手帳、記念日だらけじゃねぇのか?誕生日にクリスマス、


 初デート記念に、ファーストキス記念、おつき合い1周年記念」


ちょっとからかうつもりだった…それなのに…


男の言葉に、少女は過剰反応する。


「記念日を大事にして、何が悪いの」


「なんで、そんなにムキになるんだ」


「デリカシーのない事言うからよ」


売り言葉に買い言葉。


「だったら、そんな男と一緒にいるなよ」


少女はいきなり席を立った。


帰り際に一言。


『もう、口もききたくないわ』


それから、一切連絡が取れなかったのに。


何で今朝になって、突然。



「怒ってる?」


少女がおそるおそる尋ねる。


「怒ってたのは、お前の方だろ?」


その言葉に曇っていた表情がぱっと明るくなる。


男は苦笑を浮かべて、自分の髪をくしゃくしゃと掻きまわした。


惚れた弱みか、どんなに少女に振り回されても、結局は許してしまう。


「で、話ってなんだよ」


とたんに、少女の大きな瞳に影が落ちた。


「あの…あたし、あやまりたくて…」


「その事ならもういいよ。ちょっとした口げんかだ…」


「違うの!」


男の言葉をさえぎるように少女が叫ぶ。


あまりの激しさに、男は唖然とした。


「けんかの事じゃなくて…あたし…」


黙って次の言葉を待つ。


「あたし…ごめんなさい。約束守れなくなっちゃった」


「約束?」


少女がゆっくりと頷いた。


唇を一文字に引き締め、まっすぐな視線を投げかける。


―――――きれいだ。


唐突にそんな事を思った自分に、戸惑いながら少女を見つめた。


「ずっと一緒にいようねって約束したよね。でも、あたし」


春風が少女の髪をなでる。


「約束守れなくなっちゃった」


「な、なんだよそれ」


あっけに取られていた男は絞り出すように言った。


声が少し掠れる。


「本当にごめん」


「まだ、怒ってんのかよ」


少女が首を横に振る。


「じゃあ、何だよ。他に好きな奴でも出来た?」


激しく首を振るたびに、少女の黒髪が揺れて乱れる。


「訳わかんねぇよ。はっきり言ってくれ」


男はため息をついた。


理由も分からず、別れを切り出されても納得できるはずがない。


うつむいていた少女が顔を上げた。


「ねぇ、覚えてる?」


その声は場違いな程、明るかった。


「あたしたちが初めて会った日のこと」


「あ?あぁ…」


忘れる訳がない。


あの時も、今日みたいに桜が満開だった。


男は遠い日に思いを馳せた。



少女の事は以前から知っていた。


というよりは、見ていたといったほうが正しいかもしれない。


歳も名前も知らなかった。


大学までの通学路。セーラー服の群れの中に少女はいた。


いつも輝くような笑顔を浮かべ、友達と楽しそうにおしゃべりしている。


一目惚れだったのかもしれない。


少女を見かけるたびに、男の胸は高鳴った。


気が付くと、いつも少女の姿を探していた。


声をかけてみようか?


何度かそんな事を考えたが、なかなか勇気が出なかった。


そんなある日…


午後からの講義に出席する為、桜並木を歩いていた男は


桜の下にうずくまる人影に気付いた。


セーラー服に、長い黒髪。


まさか、こんな時間に。


半信半疑で近づく。


セーラー服の肩が、激しく震えている。微かに漏れる嗚咽。


泣いているのか?


男は思い切って声をかけた。


「おぃ」


びくっとして振り向いた顔を見て思った。


やっぱりあの子だ。


涙でぐしょぐしょの顔のまま、男を見つめる。



「あの時は、本当に笑えたわ」


少女は遠い目をした。


「笑えた?何で?俺はただ声をかけただけだ…」


「その後よ。貴方何て言ったか覚えてる?」


「…」


「『腹でも痛いのか?』ありえないでしょ、普通は」


男は顔を赤らめて、そっぽを向いた。


もっと気の利いた台詞もあっただろうに、男が口にしたのは


そんな言葉だった。


「でも、その言葉に救われた気がしたのよ」


「?」


「あの時、大丈夫?とか言われたら、きっともっと泣いちゃってたから」


男には少女の言わんとする事が分からなかった。


ただきょとんとして、少女の顔を見つめる。


「だって、ぜんぜん”大丈夫”じゃなかったんだもん」



男の言葉に少女は笑った。


まるで子供のような無邪気な笑顔。


何で泣いていたのか?


その笑顔を見た瞬間、少女の涙の理由わけなど


どうでもいいと思った。


ただ俺の言葉で笑ってくれた。


それだけで良かった。



それがきっかけで付き合うようになったが


今でも、男はあの時の涙の理由わけを知らない。



「あの日ね…」


ゆっくり口を開く。


「あたしの親友が死んじゃったの」


男は目を見開き、息を呑んだ。


「自殺だったんだ。中学の頃からの親友だったのに


 あたしは何も知らなかったの」


少女の瞳がかすかに揺れた。


「彼女の悩みに気付いてあげられなかった。死ぬほど思いつめてたのにね…」


ふたりの間に沈黙が流れた。


何か言わなきゃ…


焦れば焦るほど言葉が絡み合い、声にならない。


ひときわ強い風が吹く。


少女は空を仰いで、ぽつりと呟いた。


「行かなくちゃ…」


男の方に向き直ると、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべた。


「我がままばかり言ってごめんね。今までありがとう」


「ちょっと待てよ。急にそんな事言われたって」


少女は目を伏せた。


「ごめん。もう時間がないの。あたし行かなきゃ」


男ははっとした。


「もしかして、何処かに引っ越すのか?親の転勤とか?」


少女がゆっくり顔を上げた。


「もっと、ずぅっと遠いとこ」


大きな瞳から大粒の涙がこぼれる。


「ごめん…ごめんね。たとえ会えなくなっても、あたしはずっと


 ずっとあなたを見守っているから」


「おい、お前何を…」


少女の肩をつかもうとした手が空を切る。


「!」


今まで目の前にいたはずの少女の姿が消えていた。


どういうことだよ。


心臓が張り裂けそうなほど、バクバクと音をたてる。


突然男の携帯が鳴った。


びくっと体を震わせ、あわてて着信名を確認する。


ディスプレーには少女の名前が浮かんでいた。


「…もしもし…」


口の中が乾いて、うまく声が出ない。


「もしもし」


聞いたことのない女性の声が聞こえる。


「…さんですか?私…の母です。


 …が今朝、卒業式に向かう途中車にはねられて…」


それ以上は何も聞こえなかった。


男の頬を一粒のしずくが伝って落ちた。


「まったく。本当に勝手な奴だな。ひとりで逝っちまいやがって」


男は崩れ落ちるように、膝をついた。


「これ、どうすりゃいいんだよ」


コートのポケットから小さな箱を取り出した。


『高校卒業したら、ピアスの穴あけるんだ』


そう言っていた、少女の為に買った”卒業記念”だ。


握りしめた箱の上に一片の桜が舞い落ちた。


『ありがとう…』


遠くから、少女の声が聞こえた気がした…

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