第5話 少年と少女と悪魔

 額をさする聖夜と同じく、暁も床に正座すると彼の前にケースを置いた。挑むような眼差しを聖夜に向ける。

「アレが宿るこの楽器を、黄昏さんは演奏したいのですよね? であるのならば、どうぞ。ご自分で開けて、触ってみてください」

「いいのか?」

「ええ。開けられるのならば、ですが」

 開けてみせる、と勢い込んで聖夜は慎重な手つきで楽器ケースに手を伸ばした。見慣れた留め具を外し、上蓋を持ち上げようとして――――

「開きませんね。残念です」

 明るい声色の暁に、思わず悔しい顔つきになる。聖夜は両手をケースの上に置いた。

「この案件は、持ち帰らせていただきます」

「ダメですよ、なに人のものを持って行こうとするんですか」

 自らのもとにケースを引き寄せようとする聖夜と同じく、暁も両手を載せた。

「代わりに僕の相棒をお貸しします、担保代わりになると思う! グァルネリだよ!? 証明書は、家だけど!」

「ぐぁ……なんですか?」

「ストラティヴァリウスの弟子が作った、この世で素晴らしいヴァイオリンの一つ! 時価総額はたぶんゼロがいっぱい!」

 力強い音色を放つストラティヴァリウスと比べて、グァルネリは甘やかな音色が特徴とされる。聖夜にとって一番付き合いの長い相棒だ。

「そんな大事で、たぶんお高いものを担保にしないでください! 困ります!!」

「それでも、一曲だけ! なんなら音合わせだけでもいいので! 僕はこの楽器で演奏したい! あ、君が楽器を取り出せばいいんじゃないか? ダメなのか?」

 互いにケースを自身の側に引き寄せようと力を込める。

「ダメです。さきほどは言いませんでしたが、このヴァイオリン、私以外が持つと弦が消えちゃうんですよー。昔、知り合いの子が演奏しようとしたら弦が消えてしまって」

 不可思議な現象に驚く知人の記憶を、悪魔の力で消した暁は、だからこそ一人で楽器と向き合い、今に至るという。

「それはすごい! ますます興味がわいた、だからお願いします、僕のために君の愛器を貸してください!」

「愛器じゃありませんってばっ! 何度もアレに水をかけると脅したことかっ!!」

「なに? 君、楽器を壊そうとしたのか!?」

「思い入れがありませんからね! 正直、壊そうと思ったことが何度か」

「クライスラーか!」

「え――――っ!?」

 言い返す暁から力が抜けた。膝頭に楽器ケースが当たった聖夜の右肩は同時に軽い衝撃を受け、温かさと良い匂いに襲われた。

「……千殿払さん?」

 暁の上体が聖夜の肩にもたれるようになっている。左手はケースに触れたまま、聖夜は右手で暁の腕をつかみ、揺さぶった。

 反応は、ない。

(まさか、あの黒いのが……?)

 悪魔。光を意味するのは髪の色だけで、あとはほぼ真っ黒けのアレ。

 ――彼女はなんと言っていた? 持ち主の記憶を奪う? 命は? 生きているのか?

 さすがの聖夜も焦った。両手で彼女の肩をつかんだ。ぐったりとした表情で目を閉じている暁に呼びかける。

「千殿払さん!」

「――はい」

 消え入るような、小さな声が返ってきた。影を落とす長い睫毛が震え、ゆっくりと目が開かれる。

 互いの鼻先が触れそうなくらいの近い距離に、聖夜は呼吸が止まったし、手が触れる暁の体が強張ったことに気がついた。

 慌てて彼女から離れる。

「ごめん!」

「すみません!」

 同じタイミングで謝罪した二人は、ケースを間に挟んだまま、その場からじりじりと後退した。

 ピアニッシモと表記されているのに、一人だけフォルテッシモで歌ってしまったような、気まずい空気が流れる。

 ただこの場はマエストロもオーケストラもソリストも合唱団も観客もいない、聖夜と彼女だけだ。会話の接ぎ穂を探す聖夜より先に、暁が口を開いた。

「いきなり驚かせてしまって、すみません」

「ああ、いや。いいんだ。……それより、千殿払さんは大丈夫?」

「悪魔に取り憑かれたという女が、大丈夫なわけないでしょう」

 自嘲気味に笑う暁だが、聖夜の説明を求める視線を受けて、表情を改める。

「アレはアレの半身が宿る楽器の音色と私の記憶を食べます。私は今日の零時から六時にかけての睡眠時間のうち、半分をアレに与えました」

 朝ご飯ですね、とペットの餌やりを告げるような、この状況と似つくかわしくない言葉で暁は説明する。

「そして夜ご飯。アレがうるさいので、楽器を演奏しようとしました。ところが――」

「僕に説明していたから、食事の時間が遅れた?」

「そうです。ですので、アレは私の残った睡眠時間三時間分とその前日の睡眠時間三時間分を食べました」

 今の自分は徹夜した状態と同じである、と暁は語る。よく見れば、整った顔にかすかな疲労が浮かび上がっていて、聖夜は胸が痛んだ。

「僕や周りも、練習とかで徹夜はするけど――千殿払さん。無理、してる?」

「してません。これもさっき言いましたけど、私、本当は三時間眠れば大丈夫なんです。ただアレに起きている時間を奪われるのが癪にさわるので、寝る時間を増やしてアレにあげているだけで」

「本当に?」

「ええ」

 かすかに唇の両端を吊り上げる彼女に、これ以上は踏み込むなと暗に告げられる。けれど聖夜は食い下がった。

「たとえばだけど。君が寝ている三時間と三分間の演奏時間は、どっちも、あの悪魔の餌になったりするの?」

「――答えたくありません」

「どうして? 君、さっき言ってたよね。知り合いに悪魔憑きの楽器を持たせたら弦が消えて、相手の記憶を消したって」

「……身勝手なことをしてしまったと、思っています」

 顔を伏せた暁に、聖夜は「怒っているんじゃない」と言った。

「僕が、君の知り合いの人なら、ヴァイオリンの弦がいきなり消えたらびっくりするよ。原因はなんだろうって、突き止めたくなる。でも君は、知り合いの記憶を消すことで、悪魔から守ろうとしたんじゃないの?」

 暁は顔を上げた。唇こそきつく結ばれているものの、目元が震えている。

 自らを〈時食みの悪魔〉といい、望んだ個体呼称はリヒト。

 悪魔の望みは至高にして究極の音色。この音色を奏でるための力を持ち主に与える。

 聖夜は暁を真っ直ぐに見つめた。

「――君は、この楽器について、いろいろ調べたんだろう?」

 そうでなければ、あんなに詳しく聖夜に説明できるものか。

 悪魔が宿る楽器で、なにができて、なにができないか――たぶん、聖夜や他の音楽家だったら、悪魔に同調して、至高と究極の音楽を求めていただろう。

 ――おそらく、暁以前の持ち主は、悪魔同様の音色を求め、なにを犠牲にしてもかまわないという人間ばかりだったではないか?

 そうせずにはいられないのだ、音楽家という生き物は。

 世界は音楽と、それ以外で明確に分かれていて、世界は音楽のために存在していて、自分は音楽のために存在していると信じているから。

 そして聖夜の前にいる少女は「それ以外」を選んでいる。

 だったら、聖夜がやることは。

「僕は君を助けたい。僕を、僕たち音楽家を守ろうとしている君を、僕は助けたい」

 ヴァイオリンとの付き合いは十年以上。自分とヴァイオリンだけの世界なら趣味の範囲で、自分、ヴァイオリン、演奏を聴く人の三つがそろった世界で生きていく覚悟を持ったときが音楽家の始まりだと、聖夜の師は言っていた。

 だから聖夜が目指している音楽家の世界は実にシンプルだ。

 自分と、楽器と、そして聴衆でできている。

 だから音楽家である聖夜が、未来の観客を守るのは当然だ。

「あの悪魔は言っていたね。君の演奏には癖があるって。 じゃあ、僕の演奏は? 僕が自分の楽器であの悪魔に演奏したら、あいつは君の記憶を食べないの?」

「……それについては、わかりません。やったことがないので」

 小声で答える暁を見て、彼女は長い間、一人であの黒いのと立ち向かっていたのだろうと聖夜は推測する。

「じゃあさ、千殿払さん」

 聖夜は笑った。

「僕を利用して、僕と一緒にこの楽器について調べようよ? ヴァイオリンの練習、一緒にやろうよ」

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恋色リチェルカーレ あらま星樹 @arama_h04k1

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