第4話 時食みの悪魔

「私は千殿払暁せんどのはらいあきら。普通科二年九組です」

「せんどの……?」

 聞き覚えのある名前だが、字が分からない。

 そんな考えが顔に出ていたのか、彼女は聖夜に向かって空中で文字を書いた。

 一学年一クラスしかない音楽科と異なり、普通科は十クラスまである。うろ覚えだが、九組と十組は付属大学ではなく、他大進学希望者だと聖夜は記憶している。

 ――ほんの数分前まで利用していた練習室に、聖夜は暁とともに戻ってきた。

 天井から上半身を生やしていた奇妙な男は、暁が「リヒト!」と叫ぶと霧が晴れるように姿を消した。唖然とする聖夜が口を開くより早く、彼女は言った。

「話を、聞いてくれますか」と。

 また聖夜の絶叫により、日ごろは、他人の存在を認識しないほどに練習に集中する音楽科の生徒たちが何事かと練習室の扉から珍しく顔を覗かせたのである。

 そして、こうして二人で向かい合い、聖夜は改めて相手の名前を知ることになったのだった。

「千殿払って理事長の?」

「……父は理事会メンバーの一人です。何度か理事長代理として、学校に顔を出していますが」

 わずかに声のトーンを下げる暁に、あまり触れられたくないのかと聖夜は思った。

 自分も祖父や母親関係で、周りになにかと言われるから、彼女も似たような気苦労があるのかと考える。

 練習室にあるアップライトピアノの椅子に腰かける彼女に、改めて聖夜は目を向けた。

 ミルクティー色のヴァイオリンケースが彼女の膝に置かれ、その両手は所在なさげにスマホを弄んでいる。

 なにから話し始めるか迷ったような表情を浮かべる暁に、聖夜は既視感を覚える。

 ――あの時と同じだ。演奏を終えた時の、夢から覚めたような顔をしている。 

 不思議なことに、これまで二つの泣き黒子以外が桜吹雪で隠されていた記憶が、暁と会話した途端に鮮明に思い出された。

 けれど聖夜は再会と呼ぶには、どうも自分の一方的な気持ちが強すぎる、というのも理解していた。

「君、ヴァイオリンは続けているの? 先生はどなただろう? それとさっきのアレはなんだ?」

 聖夜が再び声をかけると、暁はそれまでスマホに落としていた視線を上げた。

「その質問については、あとでお答えしますね。……黄昏さんが先ほど見たアレは、このヴァイオリンに宿る悪魔なんです」

「悪魔? チェリーニの?」

 ヴェネチア生まれの枢機卿の依頼で、楽器職人が作ったヴァイオリン。枢機卿は楽器職人の他に、彫刻家に装飾を頼んだ。

 彫刻家は弦を抑える棹に金、赤、青の唐草模様を施し、弦を留める緒留は青銅でできた人魚を表した。もっとも美しいとされるのは、楽器職人がヴァイオリンの頭部ともいうべき渦巻の代わりに彫った天使の頭で、その巻き毛の中に彫刻家は、緑金色の鱗をもった、歌声で漁師を惑わせるセイレーンを彫刻した。

 この世で最も美しく飾り立てられ、典雅なる音色を奏でた楽器は、同時に数多の弾き手を不幸に陥れ、「呪い」の異名がついた。

「呪い」に打ち勝ち、この楽器の最後の持ち主となったノルウェー人のヴァイオリニストの遺言により、現在もなお彼の国の博物館に寄贈されている。

 ところが聖夜は、暁がたとえでもなんでもなく、言葉通りのことを口にしているとわかった。

「オーレ・ブル博物館にあるヴァイオリンとは関係ありません。――――リヒト」

 膝上のヴァイオリンケースに、暁の声がぽつりと落ちる。途端、彼女の左肩から黒い影のようなものが現れた。高速回転する黒い塊はやがて人の形を成し、聖夜の前に姿を現す。

〈ごきげんよう、我が主。そして新たなる友よ。吾輩は時食みの悪魔、個体呼称はリヒト〉

 人を魅了するにふさわしい、甘やかさを秘めた男の低い声が聞こえた。

 金糸でできたかと見まごう短い髪は緩やかに波打ち、紅玉のごとき赤い眼と尖った耳殻、大きめの犬歯は人間離れしている容貌だ。空中に浮かぶ男は、頭頂部が天井すれすれのところに届きそうで、聖夜は男を見上げ、男に見下ろされる形となった。

 男の四肢は夜闇のごとき黒い外套で覆われ、暁の頭上を覆い尽くさんばかりに裾が広がっている。そのせいで、室内に黒い傘が生まれたようだった。

 目前で起きた現象に、聖夜は何度も両目を瞬き、声を上げた。

「さっきの変質者っ!?」

 ズルっとバランスを崩した暁の膝から楽器ケースが落ちそうになった。彼女は片手でケースを押さえながら言った。

「へ、変質……? まあ似たようなものですけど。でも、あの、黄昏さん。もっとほかにこう思うことはないですか?」

「手品か? それとも特撮?」

 欧州滞在が長かったが、KAIJUが出てくる日本の特撮映画は聖夜は大好きだ。特にガッディーラが誕生する音楽をよくヴァイオリンで演奏した。

「違います」

〈ほらのう。おぬしの反応が過敏なのよ〉

 くつくつと喉奥で笑うリヒトと反対に、聖夜は暁からどこか責めるような視線を送られた。

「悪魔ですよ、悪魔! このご時世に、高校生が悪魔が見えるなんて言ったら、どう思いますか? 良くて痛い子か、悪くて病院のお世話ですよ!?」

「……おお?」

「どうしてそんなに平然としていられるんですか?」

「いや驚いているよ、本当だって。でも舞台には魔物がいるし、音楽家たる者、臨機応変、当意即妙、いつでも求められた時に備えて万全の体制を整えているからさ。ただ、僕はまだ君の答えを聞いていない。その金髪と君のヴァイオリンは、一体どんな関係なんだ?」

「金髪?」

 眉根を寄せる暁に、聖夜は彼女の上空に浮かぶ〈悪魔〉とやらの外見を説明する。

「僕には、金髪、赤い目、胡散臭い芸人みたいなのが見えるんだけど。君は?」

「……黒い犬です」

〈吾輩は悪魔だもの。この身がいかように見えるかは、当人次第〉

「ふぅん。じゃあ、僕と千殿払さんが見えてる〈悪魔〉の姿は違うんだ?」

 悪魔の声にうなずく聖夜に、暁は「はぁ……」とため息を吐く。

「だから、どうしてそんなに順応性が高いんですか……」

 けれど聖夜の視線に促されて、彼女は「長い話になりますが」と前置きしてから語り始めた。

 製薬会社を継いだ暁の祖父は、早々に息子に社長の椅子を渡した後、悠々自適に趣味を楽しんでいたという。

 その趣味というのが、骨董品収集――そういえば聞こえが良いが、古今東西の曰くありげなものばかりを集めていたらしいのだ。

「それでも公私の別はあったようで、会社を傾けるようなことはなかったのですが……」

 屋敷の一室をガラクタで埋め尽くした祖父に、祖母や暁の父は最後まで理解を示すことはなかったそうだ。

「祖父は優しくて、私に面白い話ばかりをしてくれる人だったと聞いています」

 暁が幼い頃にはすでに引退していた祖父は、孫相手に自分のコレクションを細 かく説明していた。

「そのうちの一つが、このヴァイオリンです。ケースに錠がついていますでしょう?」

「……鍵はあるのか?」

「ありません。けれど祖父の手に渡った時には、すでに『選ばれた持ち主にのみ開けられる』という文言があったそうです」

 両手でケースの取っ手を掲げる暁の口調は、先ほどの荒らげた声が嘘のように恬淡としていた。

 元の性格なのか、努めて感情を込めないように話しているのか、聖夜にはわからなかった。

「この『選ばれた』という意味ですが、祖父の前に持っていた方が調べたところによると、いろんな意味があったようです。音楽的才能が誰の目にもある人、ない人。いつの時代の人間が見ても、幸福に包まれた人、そうでない人。……結局はアレが気に 入るかどうか、らしいのですが」

 暁の祖父はヴァイオリンケースを開けること自体ができず(元から弾けるわけでもなく、手に入れて満足するタイプだったらしい)、「こういう謂れがあるのだ」と孫に語るだけであったという。

「私がリヒトと会ったのは小六のクリスマスでした。何の気はなしにケースに触れた途端、アレの姿が見え、声が聴こえ――そして、ヴァイオリンが弾けるようになりました」

「……弾けるように、なった?」

「私は現在、そこに浮かんでいる黒いのに取り憑かれています」

 そういって暁の両目が天井に向けられた。はぁ、とうんざりとした様子を露わにして、彼女は扉の脇に立つ聖夜に顔を向ける。

「正確に言えば、アレに取り憑かれたことで演奏できるようになった、と言うべきでしょうか。私の左肩と楽器に半分ずつ、アレの魂が取り憑いていて、私はアレが望む音楽を奏でる奴隷となったのです」

「うん? ――つまり君は、特に誰かに習ったわけではないと。ヴァイオリンを?」

 暁の発言が事実ならば、聖夜と出会うまで四か月もしないうちに、彼女は超絶技巧の演奏ができたということになる。

 だが今から二十数年前には、イギリス人の少年が初めてヴァイオリンに触れてから六週間で歓喜の歌を演奏したという記録があるし、ガッディーラの作曲家もヴァイオリンは独学だった。

 そうした聖夜の説明に対し、暁は整った眉をかすかに寄せた。

「――そんな方がいらっしゃるんですか。すごいですね……」

「だから、君もそういう人なんじゃないの?」

 聖夜の問いに、暁は「違います」と冷たい印象を残す顔つきで一蹴した。

「アレは自称を〈時食みの悪魔〉、望んだ個体呼称はリヒト。目的は至高にして究極の音色を得ることだと言いました。そして、そのための力を持ち主に与えると」

 さらに、と暁は続ける。

〈時食みの悪魔〉は、持ち主の時間――記憶を食らうことで、持ち主やその周りにいる人間に干渉するのだという。

「記憶を……?」

 言われて聖夜は、これまでの会話で彼女が「らしい」とか「ようだ」などの 伝聞形式で語っていたことに気がついた。

〈吾輩は美食家よ〉

 ゆらり、と身体を前傾させたリヒトとやらの悪魔が暁と聖夜の間に割って入る。

〈人の美しい記憶を主食としている〉

「美しい、記憶」

「――アレが言うには、どうやら良い思い出のことらしいです。私は家族との思い出をアレに食べられました」

 彼女の両目に後悔の色が現れ――すぐに消えた。

 アルバムや動画で「母親」と認識できるものの、テレビドラマの役者を見ているようだと暁は説明する。

 なんと言うべきか迷う聖夜の前に、上体を逆さまにした悪魔が口を挟む。

〈言い方の問題よ。吾輩を得た今迄の友人たちは、己が望みを果たすために喜びむせび泣いて、その身を捧げた。だというのに、そなたは母の記憶も、己の記憶も失いたくないという――〉

「ちょっと待ってくれ。意味がわからない――――」

「黄昏さんは、音楽のために、自分の名前も思い出も、なにもかもを忘れることはできますか?」

 どこか諦めたような表情の暁に問われ、聖夜は答えに詰まった。彼女は続ける。

「私はアレのせいで、強制的にヴァイオリンを弾いて……弾かされています。そうしないとアレは私の他の記憶まで食べてしまうから」

 悪魔の飢えを満たすには、持ち主の美しい記憶と己の半身が宿った楽器の美しい音色だという。

 ところが悪魔の誤算は、今の持ち主である暁は、音楽に関する記憶もほとんどなければ、演奏技術もなく、「美味い」と感じる記憶が少なかった。そのため悪魔は暁の下手な演奏で常に飢えをしのいでいるとも。

〈そなたの演奏には癖がある。これでは吾輩は干乾びてしまうぞ〉

「ええ、そのほうが私にとって都合がいいわ」

「ちょっと待って、君はどこでヴァイオリンを習ったの?」

「動画サイトです」

 憂鬱そうにつぶやく悪魔を見て、険悪さをあらわにする暁だが、聖夜の問いにはあっさりと答えた。

 現在、暁は自身の記憶を選別して、悪魔に餌として与えつつ、悪魔が満足する音楽を提供しているという。

「それじゃ、君がこいつにあげる記憶って……」

「記憶というか、時間です。睡眠時間を私はアレにあげています」

 たとえば六時間眠ったとすると、そのうちの二時間を「餌」としてリヒトに与えているのだという。ゆえに暁の体は「四時間しか眠っていない」 という認識になるそうだ。

 睡眠時間は八時間を確保したい聖夜にとっては驚愕しかないが、暁は短時間でも平気な性質らしい。

 そしてこの五年間、暁は悪魔本人や、動画サイトや音楽科の図書館を含めた教材で演奏方法を――独学で――学び現在に至るという。

 独学の場所は、ここの音楽科練習室で、暁は中一から利用しているという。

「音楽科の先生たちの許可は頂いています」

「ああ、そうなんだ。……じゃあ、音楽科の幽霊って君のこと?」

「幽霊?」

「そう。見覚えのない生徒が練習室にいるって」

 不思議そうに首をかしげる暁に、普通科と違い、音楽科は少人数ゆえに学年問わず顔見知りであることを聖夜は説明する。

 細長いガラス戸がはめ込まれた練習室の扉は、廊下を歩く者の目に留まる。どうやら聖夜が中等部時代に耳にした「音楽科の幽霊」は、中学生の暁だったらしい。

 けれど暁は納得できない様子で、上空を漂う悪魔に鋭い視線を送った。

「リヒト。あなた、なにかしたの?」

〈吾輩はなにもしておらぬ。吾輩ができることは、おぬしが美しい記憶と音色を捧げたときのみよ。それよりも腹が減った。早う音楽を〉

 驚きの連続で、実感がわかない聖夜だが、悪魔の言葉に我に返った。

「そう、音楽だ! 僕も君の演奏が聴きたい! というか、その楽器で演奏したい! 貸してください、お願いします!」

「――黄昏さん、私の話を聞いてましたか?」

「聞いてた! 君はこいつに記憶を食われないために下手な演 奏を聞かせている。演奏以外の餌は、特に影響がない睡眠時間だけど、こいつはもっといい音楽が聴きたがってる。つまり僕が演奏すれば、僕が望む最高な音楽が表現できて、こいつも満足できる!」

 音楽科の生徒として、音楽家の端くれとして、悪魔が宿っていようがなんだろうが、演奏者が望む最高の音色を奏でる楽器があるのならば――――

 聖夜はぜひとも弾きたい、奏でたい。自身の技量がどこまでの高みにあるのか、知りたい。

〈うむうむ。その意気やよし。懐かしいのう、吾輩の歴代の主人たちもみな似たような顔つきであったわ〉

「嫌です、ダメです。何度も言いますが、このヴァイオリンは、悪魔は持ち主の記憶を食べます。黄昏さんが、美しく最高に完璧な演奏をしたとして。自分の名前も人生も全部ぜんぶ、忘れてしまうんですよ? ――それでもいいんですか?」

「いいです!」と間髪置かずに聖夜が答えれば、まるで人でなしを見るかのような目つきで暁ににらまれて、聖夜の心臓が跳ね上がった。

「私はすべてを忘れてもいいと思えるほど、音楽への熱意はありません。でも、誰にもこれを渡したくありません」

「それじゃ、なんで今もそれを持っているんだ?」

 聖夜の視線は暁の楽器ケースに注がれた。

「未来ある音楽家を失わないためです」

 きっぱりとした声だった。彼女は、話は終わりとばかりに立ち上がる。

 けれど聖夜だって譲れない。これは音楽家の、時間芸術の表現者の性といってもいい。

「譲ってください、お願いします……!」

「丁寧に言ったって駄目ですよ!?」

 頭を深く下げる聖夜に、暁のぎょっとした声が落ちる。「む」と聖夜が眉根を寄せて顔を上げれば、彼女は一瞬、言葉を詰まらせた表情になったものの、楽器を両手で抱えたまま言った。

「駄目なものは駄目です。私は黄昏さんに、絶対にぜぇーったいに、コレを渡しませんからね!?」

〈なんともはや。あれほど吾輩を拒んだくせに〉

「そうだぞ、千殿払。君はプロの音楽家を目指しているわけでもないし、ヴァイオリンがなくても生きていけるんだろう?」

〈良いではないか。こやつは自らの記憶を捧げると言うておる。そして吾輩は飢えておる〉

 暁の右肩の上空を揺蕩うリヒトが悩まし気に言うのと加勢して、聖夜は両膝を床につけた。

 掌をぺたりと床につけ、上半 身を折ろうとする聖夜を暁が慌てた様子で止めに入る。

「え、あの」

 戸惑う暁に向って、聖夜は頭を下げた。

「ちょっとでいいので触らせてください!」


 ――そして、時は戻る。

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