第3話 桜雨のち再会

 藤美ふじみ学園は幼稚園から大学までを擁する学校法人である。

 東京山の手、戴東たいとう区西部に構える中等部と高等部二科の校舎は同じ敷地にあり、俯瞰すれば、アルファベットの『E』に似た形となる。ただし横棒一画目と二画目の間は狭く、二画目と三画目はかなり離れている歪な形だ。

 音楽科の校舎は横棒一画目と縦棒一画目にあたり、真ん中の横棒は講堂と体育館、残りは中等部と高等部普通科の校舎となっている。

 薄緑の屋根と赤煉瓦でできた洋館を思わせる音楽科の校舎は、周りを桜の木で囲まれており、都内山の手という立地もあってか、存在を知らない者が見たら個人の屋敷と勘違いしてしまう佇まいをしている。

 それも道理で、藤美学園高等部音楽科の前身は、桜囲さくらがこい音楽学校という明治の御代に設けられた一個人の私設音楽教育機関であった。

 商売の分野に手を出して落魄する華族が多い中、貿易商として成功した桜囲伯爵は、とりわけ音楽教育への関心が高く、欧州留学への経験も手伝って、パリにある国立音楽学校をもとに創設し、卒業生の多くは今もなお日本や世界の音楽界で活躍している。

 ところが時代が変わるにつれ、学校は経営難の危機にさらされた。

 そんな桜囲音楽学校に、救いの手を差し伸べたのが、多角企業の藤美グループであった。もともと武蔵野に中学校と高校、付属大学のキャンパスを構えており、幼稚園と小学校の併設および中高の校舎移転を考えていた藤美グループにとって、桜囲音楽学校というブランドと敷地が持つ豊かな自然環境は大変魅力的だったのだ。

 そして十数年前に、桜囲音楽学校は藤美学園高等部音楽科として再誕した。もちろん音楽科としての校舎や機能は現在に引き継がれている。

 とはいえこうした事情から、普通科と音楽科では圧倒的に人数差に開きがあり、学校行事や授業カリキュラム、ぶっちゃければ、学費も大きく異なる。また校舎自体が隔離されているという物理の面もあって、両科の生徒同士の交流は統廃合されて十年以上経った現在も、ほぼない。


 *


 その日の放課後。「E」の字型で言えば、上の縦線。一番上の横棒にあたる音楽科の校舎と垂直の形で構える練習棟の一室を借りた聖夜は、八一の言葉が頭にこびりついて離れなかった。

 今は疎遠になってしまったが、中等部時代の同級生――高等部普通科二年生が当時、中一だったころに、聖夜は各クラスを訪ね歩いた。

 ウィーンで生まれ、十二歳までヨーロッパのあちこちを、ヴァイオリニストとして活動する母とそのサポートに回る父と過ごしたせいか 、聖夜は物怖じしない性格に育った。

 同級生には、音楽科への進学をとくに考えていないものの、ヴァイオリンを趣味でやっている子がいた、辞めた子もいた。興味がない子もいた。からかう連中もいた。

 それでも聖夜が「こんな演奏」とその時の能う限りをもって「彼女の演奏」を再現すると、ヴァイオリンやクラシックに興味を持ってくれる人も大勢いたのだ。

 ――だから、もしかして。

「今年の普通科一年にいるかもしれない……!」

 考えを声に出すと、なんだかそうなんじゃないかと思えてくる。

 ヴァイオリンが上達するには練習が必要不可欠で、つまりは行動しなきゃなにも始まらないのだから。

 聖夜は楽器を仕舞った。楽譜を鞄に入れて、両手に荷物を下げたまま、練習室を出る。

 廊下の窓から射し込む光は優し気なオレンジ色で、昼間のような欝々とした空ではなくなっていた。

 二階建ての練習棟は、学内演奏会で使用される講堂と渡り廊下で結ばれている。

 いそいそと聖夜が練習棟の無駄に重たい木製扉を開けると、一人の少女が胸に飛び込んだ。 

 楽器を持って講堂を出入りする構造のためか、聖夜の位置からだと扉は引く形になる。そのせいか、外側から扉を押した相手はたたらを踏んだらしい。

「あっ、ごめん」

 直前になってお互いが無意識のうちに身を引いたためか、ぶつかることはなかったものの、鼻先をかすめる甘い匂いに、聖夜は一瞬だけたじろいだ。

「こちらこそ、すみません」

 澄んだ声が返ってきた。

 ずいぶんと背が高いな、と聖夜は思った。

 相手は、同世代の平均身長より指五本分、上背がある聖夜とそう目の高さが変わらないように思える。

 だから――聖夜は彼女の顔を視界に入れることができた。

 胸元まで届く毛先は真っ直ぐに切りそろえられ、青みがかった髪は艶やかで、前髪は桜を模したヘアピンできっちりと留められている。長い睫毛に縁どられた涼し気な瞳と通った鼻筋、形の良い唇。

 綺麗だ、と聖夜は思った。

 美少女ヴァイオリニストとしてテレビに出たら、低迷するクラシック業界の人口を百万人くらい増やしてくれるかもしれない。

 そして聖夜の視線が縫い止められたのは、彼女の両目の下にある小さな黒子だった。

 さらに視線を落とせば、彼女の右手にあるヴァイオリンケースが真っ先に目に入る 。

 今時珍しい木製でできたケースは、 柔らかなミルクティー色。黒革の持ち手と肩紐が光輝く金属で留められているだけでなく、錠までついている。

 スマホを握った左手首は夕焼けを吸い込んで黒っぽくなったボレロの袖と対比して白く細い。

「――――アキラ?」

 まるで落雷に打たれたかのような衝撃に襲われる。突如、口から飛び出した己の声に、聖夜は狼狽した。

 木材でできたヴァイオリンケースは、二十一世紀も半ばを過ぎた今でも珍しいが、まったくないわけじゃない。ミルクティー色だってよくある。施錠できるケースだって世の中には存在している。

 ――アキラ、あきら。どんな字で表すのだろう? 漢字? ひらがな?

 けれど聖夜の胸を占めるのは、手を伸ばせば届く距離にいる相手の名前だった。

 しかし瞬時に、世間の常識という理性と、彼女と同じように、楽器ケースを持っていた自分の右手によって動きが押さえられた。

「いきなり失礼しました。僕たち、五年前にお会いしませんでしたか?」

 最高の演奏ができた時と同じように、彼女に向かって微笑を浮かべる。

「えっ?」

 しかし、相手の反応は聖夜の都合の良い理想と程遠かった。

 口からするりと言葉を出した聖夜も気づいた。第三者の視点なら、自分のセリフが「どこのナンパだよ」と呆れるようなものであったか。

 柳眉をひそめる彼女を見て、すわ人違いかと不安に襲われた聖夜は早口で言った。相手の顔を何度見ても、やっぱり左右ともに小さな泣き黒子がある。

「中一の入学式の前の春休み。この学園の、あそこで」

 そう言って開け放った扉の向こうを指差した。茜色に染まった中庭の中心に一本の巨大な桜が直立している。連日の悪天のせいで花はとっくに散って、しばらくしたら青々とした葉が覆い繁る枝が広がっていた。

「……黄昏聖夜さん?」

 相手に名前を呼ばれた。戸惑いを含んだ、 けれど春 の陽気にも似た柔らかい声音は、確かに聞き覚えがある。

「そうです。やっぱり、会ったことがありますよね?」

 声を弾ませる聖夜と異なり、相手は戸惑いがちに答える。

「会ったというか……五年前に、フルスホルンのコンクールに参加されていましたよね」

「君は参加してないの?」

「参加というか、客席で聴いていました」

 ドイツとオーストリアの国境にある、翡翠の地と称えられる、森と川の町・フルスホルン。

 十二歳の時、聖夜は彼の地で開かれたコンクールに参加した。

 残念でしたね、という相手の言葉に聖夜は「あー……」と言葉を濁す。――生まれて初めて一位を逃したかのコンクールについては、それまでの自分を猛省した結果、黒歴史となって記憶の奥底に封印されて久しい。

 それまで、出るコンクールすべてにおいて一位以外の評価を得なかった聖夜は、子供ながらに自分のことを天才だと信じて疑わなかった。音楽科の生徒あるあるだ。

 ヴァイオリンもピアノも演奏を一回聴けば、すぐに楽器でも楽譜でも再現できた。「お爺様の教育の賜物かな」「さすがはあの母親の息子なだけある」とたまに指揮者の祖父やヴァイオリニストの母の名前が出されて比べられることに苛立つものの、とにかく大変、生意気なクソガキだったのである。

 そしてもってフルスホルンにて初めて得た結果に怒り、戸惑い、猛省した。今では当時の自分の素行を思い出すだけで床に転がりたくなるぐらいだ。

 黒歴史を一旦、記憶に封じ込めた聖夜は、相手の問いに違和感を覚える。

 あの時のコンテスタント達はほとんどがヨーロッパ出身者で、東洋人は聖夜以外にいなかった。一般公開という名目で、三千人の観客が舞台となるホールを埋め尽くしていたから、彼女も現地在住なり留学の下見なり観光なりであの場にいたのかと推測する。

 それはともかく。

 左右の泣き黒子、ヴァイオリン、声、女子。この四点がすべてそろった瞬間、聖夜の胸は今にも張り裂けそうだった。

「僕は、ずっと君を探していた!」

 会いたかった、と声を振り絞った聖夜が詰め寄ると、相手は同じ分だけ後ろに下がった。

 それを見て聖夜は冷静さを取り戻す。

(――引かれた!?)

 なんということだ、相手に拒絶されてしまったら 、あの演奏が聴けなくなるかもしれないのに。

 楽器が弾けなくなることの次に、素敵な演奏が二度と聴けなくなる、というのは聖夜にとっての恐怖だった。

「あの、よろしければ是非とも、あなた様のヴァイオリンをお聞かせ願えないでしょうか!」

「え、あの、無理です」

 にべもない相手の返答に、聖夜は緑がかった青眼を見開いた。

「なんでっ!?」

 同じ楽器を選んだ音楽家の定めとして、コンテスタントとして競い合い、ゆくゆくは商売敵になる可能性がある。そのため、同業者にはなんのメリットもなく演奏を聞かせたくないという音楽家もいることは聖夜とて理解しているが。

「黄昏さんにお聞かせできるものじゃないからですよ」

 失礼します、と相手は聖夜の背後に並ぶ練習室の扉に向かおうとするが、聖夜は反復横跳びに似た動作で彼女の前をふさいだ。

「いや、待って待って! 遠慮や謙遜はいらないし、僕は君の演奏が聴きたいのですけれど! あっ、もしかしてもう事務所に入ってる? 一番日付の近いコンサートはいつですかっ!?」

「……コンサートなんてないですよ。それに事務所ってなんですか?」

「音楽事務所。CD出してる? あ、名前。君のお名前は?」

 一方的にまくしたてる聖夜だが、ふと相手の左肩から黒いなにかがにじみ出ていることに気がつく。

 目の錯覚かと思い、何度か瞬くと――――

〈――ほう。なかなか見所のあるヴァイオリニストだな〉

 女子生徒の左肩から霧のような黒い影が天井まで渦巻き、風に流れる雲のようにちぎれ――天井から上半身をはやした金髪の男が、聖夜の眼前にいた。

 夕焼け空よりもなお赤い瞳に、聖夜は己の顔が映るのを見た。

「変質者――――っ!?」

「……黄昏さん、もしかしてソレ、見えるんですか?」

 聖夜の叫び以上に驚きがこもった声が、正面にいる少女からかけられた。

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