第2話 探している音色
春の嵐と報じられたものの、今年の藤美学園高等部音楽科の入学式はつつがなく行われ、明けて翌週の月曜日の昼休み。
朝から降った雨のせいで、窓ガラスには水滴模様ができた。
楽器によっては、この国の湿気はとてもつらい。
湿気に恐々したり、普通科にある食堂に行こうかどうするかと迷う初々しい一年生と違い、聖夜をはじめとした二年花組の生徒たちは、湿度計と温度計を確認した日直が、歴史ある校舎に嘆きながら空調ボタンを操作した。
音楽科は一学年一クラスのため、新しい人間関係の出会いにときめいたり、構築に悩んだりすることもないかわりに、深く濃い付き合いがデフォルトとなる。
教室前方には、 二段式の移動式ホワイトボードと、五線譜が印字された上下式の黒板。教卓よりも存在感を放つグランドピアノが鎮座している。教卓にはメトロノームが置かれ、壁には丸時計と温度計と湿度計が掛けられている。廊下側の壁際には、ヴァイオリンケースが収納できるロッカーが設置され、後方にはアップライトピアノと、学校が貸し出ししている楽譜と一部の生徒が勝手に占領している本棚が置かれている。
一足早く食事を終えた者が読み耽るのは、持参した文庫本や漫画の他に楽譜だったり、あるいはピアノを演奏する生徒もいる。他学年は知らないが、二年花組のルールでは、昼休みのピアノの使用権は日直にあるのだ。
音楽科では、教室にある二台のピアノの使用権の決め方は大いに揉めるが(名簿順か、ピアノ専攻者が優先か、ピアノ伴奏が必要なヴァイオリン専攻者が先か、など)、一部の生徒が本棚を占拠して、好きなキャラクターのフィギュアを並べて祭壇を築こうが、カバーもつけずに官能小説(男性向け・女性向け問わず)を広げようが、興味の埒外な人間が多い。
後方窓際の一角でクラスメイト達と昼食をとっていた聖夜に、斜め前に座る少女――
「へぇ、黄昏氏が探している子って、女の子だったんだ ……?」
「そうだ。八一の知り合いにいないか。ヴァイオリンやってる、男っぽい名前の女子」
昨夜の残り物であるひじきを混ぜ込んだおにぎりと牛乳パックを交互に口に運びながら、聖夜が「なぜ疑問符をつける」と問う。
金の七つ釦が並ぶ黒に近い濃紺の詰襟は、きちんと着ていても、着崩していても、なんとなく
生まれつきの癖毛とぱっちりとした大きな目はオーストリア人の父方祖父と同じ青緑色。高い鼻梁と均整の取れた長身は、華やかな容貌に恵まれた両親のそれぞれ良いところを受け継いでいるのだが、現在の聖夜は表情が優れないため、陰気な雰囲気を放っていた。
もっともクラスメイトは、そんな聖夜の姿を見慣れているし興味がないため、特に誰も何もいわない。
「やー、あたし、邦楽以外はちょっとねぇ」
三味線を専攻している八一は「地元の人に聞いてみるよ」と言う。肩先で切り揃えられた真っ直ぐな黒髪に、あどけない顔立ちと小柄な体格もあって、いまだに小学生に間違われるらしい。
そんな彼女の隣で、もきゅもきゅとバケットを咀嚼していた大柄な男子が口を開いた。
「んで、今年の一年にいたの? 黄昏が探している子は」
母親がイタリア人オペラ歌手というヴィンコは、恵まれた体格と声もあって声楽専攻と間違えられるのだが、当人は日本人の父親と同じティンパニ奏者を目指している打楽器専攻だ。なお今は日本でパン屋を経営している父の兄の元で下宿している。
付属中等部時代から付き合いのあるヴィンコに、聖夜は首を横に振った。
「いなかった」
春休み最後の金曜日に開かれた入学式に、聖夜は在校生代表として出席した。その際に、今年の新入生で弦楽器を専攻している生徒は八名いて、うち五名がヴァイオリンで、三名がヴィオラ他の弦楽器だと担任から教えてもらった。
式が終わり講堂から教室に移動した後輩たちがガイダンスを終えた頃を見計らって、顔見知りの後輩に声をかけたものの、結果は芳しくなかった。
――聖夜には会いたいと望む少女がいる。
五年経ったいまでもなお耳の奥に根付いたようによみがえる、春を現したようなパガニーニを演奏した彼女。
「それにしても毎度のことながら、君の行動力には驚かされるよ。さすがは〈
残念だったね、と顔に同情を浮かべるヴィンコの発言に、聖夜は「どの漢字表記だ?」と苦笑する。
去年の春に、「現役音高生の生活」と称して聖夜を含め何名かの生徒が音楽雑誌に取り上げられた。『音モダチ』という業界売上ナンバーワンの人気雑誌だ。
指揮者を務めるオーストリア人の祖父と、ヴァイオリニストとして著名な日本人の母を持つ聖夜の紹介文は、〈四弦の貴公子〉だったのだが――なぜか、雑誌本体では〈奇行子〉と誤字になっていた。
誤字については、すぐさま担任を通じて、編集部から謝罪の連絡が入ったものの、クラスメイト達は「間違ってないわな」「出版業界にも魔物っているんだ」と深くうなずいていたのが一年前のこと。
「僕のどこに奇行があるんだ? お前たちだって、似たようなものだろう! 普通科目の授業中にいきなり五線譜に作曲したり、『今なら最高に弾ける気がする』と言ってピアノの使用順番を守らなかったり、昼休みが終わっても合唱したり! 人間としてどうなんだ!?」
「「「「「反省してまあっす!!」」」」 」
音楽科の生徒の多くは、職業音楽家を夢見ている。華やかで煌びやかなイメージを抱かれる職業だが、ただ歌い、楽器を奏でることに生涯のすべてを捧げただけで、生活できるのはほんの一握りだ。
音楽家とは、他者――聴衆の評価なしに成り立たない商売である。
たとえその音楽家が技量に優れていても、チケットが売れなければ、あるいは満席であっても観客が不満を抱けば、すぐに舞台から引きずり降ろされてしまう。
演奏は、できて当たり前。ポスターに映る己の容姿や恩師の名前や出自で彩って、ようやく観客の目に触れて――。
それでも、光を浴びることができるのは、ほんの一瞬だ。
八一が疑わしそうな目を聖夜に向けた。
「いまさらなんだけどさ。黄昏氏が探している子って、本当に女の子なの? というか実在するの?」
「いまさらだな」
高校入学時に説明したにもかかわらず、再度、件の少女について八一から再びの説明を求められたのだった。
「だぁって黄昏氏、制服着てるあたしを男って間違えたじゃん。ぶっちゃけ、その思い出もかなり怪しいよ?」
ひどいよねーと八一はヴィンコに同意を求めた。
音楽科は、聖夜やヴィンコのような内部進学組と八一のように受験する生徒で構成されている。もちろんどちらもペーパーだけではなく実技試験が課せられており、いくら付属中等部で学業優秀でも、専攻楽器による演奏――実技試験が芳しくないと不合格という場合もある。
去年、聖夜は高等部から入学した八一を男子と間違えた。彼女が背負っていた三味線ケースが件の少女の物と同じミルクティー色だったのである。
ところが形状も大きさも異なるヴァイオリンと三味線のケースを間違えるという、ヴァイオリニストとしてあるまじき失態にすぐさま気づいた聖夜が、頭上に疑問符を浮かべる八一を前にして(なにせ聖夜の第一声が「パガニーニ弾いてくれませんか?」である)「あっ男子か」と落胆を露わにするものだから、彼女が困惑と怒りにかられるのも無理はなかった。
「あの時は……楽器ケースの色しか見えてなかったんだ。本当にすまなかった」
「まっ、昔も謝ってもらったからそれはいいよ。おかげでヴィンコと仲良くなれたしね」
「ねー」と、ヴィンコが声をそろえる。八一は言った。
「黄昏氏が人の顔を覚えないで、楽器や演奏で判断するんだっていうのもわかったし」
「覚えないんじゃない 、得意じゃないだけだ」
聖夜は音階を覚えるのは得意だが、人の顔を覚えるのは昔から苦手だった。この短所はいまのうちにどうにかしないといけないと思っている。
それで 、と八一は明るい声で話題を変えた。集中力があるとか、熱血だとか、言い換えれば他の話は聞かないし、粘着気質のある音楽科生徒にしては珍しく、彼女は尾を引かないタイプだ。
「その子について、ほかに覚えていること ないの?」
「両目の下に黒子がある」
即答する聖夜を見て、「ほーん」と頷いた八一だが、こてんと首を傾げた。
「……それだけ? それしか覚えてないの?」
「そうだが」
「名前は?」
「……残念ながら記憶にない」
聖夜は気まずそうに顔をしかめた。
思い出そうとする度に、桜吹雪で彼女の顔が覆い隠される。手がかりとなる相手の名前も定かではなく、目の下に黒子があることと映画のタイトルっぽい名前だったという印象しかない。
「うーん。黄昏氏が探している子って、ヴァイオリンやってる女の子なんだよね? もっとこう……ほかにないの?」
「ほかって?」
「可愛かったとか、美人だったとか!」
「見事な演奏だった。もうプロとして活動しているのかもしれない」
真顔で答える聖夜に、親切と野次馬が混在する表情で話を聞いていた八一ががっかりした様子を見せた。
「ほっんとうに黄昏氏って音楽のことしか頭に入ってないんだねぇ……!」
「まぁまぁ。それが黄昏の良いところなわけだし。友人として、彼が一目惚れならぬ一耳惚れの君に会えるように、祈ろうじゃないか」
「そんな日本語はないぞ、ヴィンコ。それに惚れたとか、誤解を招く言い方はやめてくれ」
八一とヴィンコは去年から付き合っている。どうも聖夜に性別を間違えられたことにより、八一が「女性らしさとは」という相談をなぜかヴィンコにするうちに、関係が深まったらしい。
この辺のざっくりとした経緯を聖夜は――周りは「惚気」と言っていた――二人から語られた。
友人として彼らを祝う気持ちが聖夜にはあるものの、同時に、いまだに他人を――音楽を抜きした感情で――好きになったことがない自分にも気がついて、自分の人間性だとか将来に不安を覚える。
音楽家とはすなわち音の表現者。喜怒哀楽をはじめとしたあらゆる感情を、季節の移り変わりを、あらゆるすべてを、楽器を通して表現するのだから、常にみずみずしく豊かな感性を保たなくてはならない。
そして聖夜は自分が探している少女に対して、けして恋情を抱いているわけじゃないと、八一やヴィンコに断言できてしまう。
憧れている音がある、焦がれている音がある。
――ヴァイオリンを続けていれば、また聴けるかもしれない音がある。
(……これだけじゃ、駄目なのか?)
ぼんやりと考える聖夜はヴィンコに名前を呼ばれた。
「思ったんだけど、その子って音楽科に入るって言ってなくない?」
八一が言った。彼女に聖夜とヴィンコの視線が向けられる。
「だって中等部に入る前の話でしょ? ならさ、あっちにいるんじゃないの?」
クラスメイトが窓を指差す。
聖夜がいる教室から狭い校庭を挟んだ先には、青い屋根と白い壁が眩しい体育館がある。八一の台詞は、さらにその向こうを意味していた。
藤美学園高等部は音楽科のみならず、普通科も存在する。
高等部だけで言えば人数の比率は、一対九。もちろん音楽科が一だ。
「まさか」という声を聖夜は飲み込んだ。
――だって、あれほどの腕前なのだ。
――なぜ、音楽をやらない?
入学式直前に開かれた懇親会に参加した、あの日。
聖夜は連日の無茶苦茶な練習による疲労のためか、その場で倒れてしまった。気づいたら入学前に保健室の天井を見る羽目になったのだ。
目覚めたときには「彼女」の姿はどこにもなく、聖夜は涙ぐみながらも容赦ない拳骨を弟の頭に落とした姉に、ヴァイオリンだパガニーニだと説明するも面倒くさそうにスルーされてしまった。
「彼女」との再会を心待ちにしていた聖夜だが、中等部の入学式で――正確に言えば、聖夜のように帰国子女や在留外国人を対象としている一年十組には――見つけることができなかった。
「ふざけんな」というのが聖夜の最初の感想だった。まごうことなき八つ当たり、というのも自分では承知していた。
あれだけ「また会おう」と思わせぶりなことを人には言っておいて、自分はいないとはどういう了見だ、と別に彼女自身がそう発言したわけでもないけれど、とにかく逆切れ状態で聖夜は教室を飛び出した。
偶然なことに、聖夜が入学した一年十組は、聖夜と同じく両親や祖父母が音楽関係の職に就いている子供が多く、高等部音楽科への進学を前提としている者が圧倒的に多かった。
音楽科進学希望者ばかりを集められた教室にいないのなら、他のクラスにいるかもしれない。
昼休みの度に、隣の教室から順に「ヴァイオリンをやっている女子はいないか」と外見の情報も付け加えながら訊ねて回り、ついには二年、三年と上級生の教室まで範囲が広がり、果ては当時の高等部音楽科にまで足を運んだ。
持てる人脈をフルに使い――音楽家という同じ道を志す人たちと出会えたものの(ついでに歴史ばかりある音楽科の校舎に幽霊が出るという噂も教わった)五年経った現在、いまだその夢は叶わずにいた。
かいつまんで中等部時代にも「彼女」を探したことを八一に告げると、「そっかぁ……」と残念そうな声が返ってきた。
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