第1話 桜の出会い

 ごぉん、となにかを打ち付けたような音が、藤美ふじみ学園高等部音楽科の練習室に響き渡った。

「ちょっとでいいので触らせてください!」

 茜色の空が窓の向こうに広がる放課後の練習室で、土下座する男子生徒がいた。

 彼の名は黄昏聖夜たそがれせいや。オーストリア人の父方祖父の血が色濃く出たためか、名前のわりに日本人離れした容姿をしている。

 聖夜は勢いあまって額を床にぶつけたが、じんじんとする痛みよりも、相手の返答を待つ心のほうが震えていた。

 そんな聖夜の頭上に、戸惑った少女の声が落ちる。

「……え、あの。なんかすごい音がしましたけど。大丈夫ですか、頭?」

「頭は大丈夫です、それで僕は、触っていいんですか、どうなんですか?」

 がばりと身を起こした聖夜の前に、困惑気味に立つ一人の女子生徒がいた。

 名前を千殿払暁せんどのはらいあきらという。

 ぐっと押し上げられた胸元で、毛先が切りそろえられた黒髪は青みがかっていて艶やか。無表情の時は冷ややかな美人という印象を与えるが、今は聖夜の言動を前にして、困惑と怯えが見て取れる。

 聖夜を見下ろす瞳は切れ長で、長い睫毛に囲まれた両目の下にある黒子が色っぽい。濃紺のジムスリップのスカートから覗く、黒タイツに包まれたすらりと長い脚は、f字孔に似た曲線を描き、足首のところできゅっと引き締まっている。

 綺麗な形だと聖夜は思った。両足とも形が良く、程よい筋肉がついている。おそらく体幹が良いのだろう。ヴァイオリンをやると姿勢が良くなるのだ。

 聖夜がさらに視線を上げると、赤くなった暁と目があった。彼女はスカートの裾をパッと押さえて、その場から飛び退く。

 一連の動作を正座した状態で眺めていた聖夜はしばし思案してから、警戒心を増してこちらを窺う彼女に言った。

「大丈夫だ、なにも見えてない。それに僕は君の下着よりもヴァイオリンに興味がある」

「――黄昏さんは、そうでしたね」

 暁はため息をつくとスカートの裾を右手で押さえて、その場に正座した。肩に背負っていたヴァイオリンケースを聖夜の前に置く。

 何気ないのに、流麗な仕草に聖夜は目を奪われて、だから彼女がなにをもってして聖夜を「そう」と表したのか、この時はわからなかった。

「先ほども申し上げましたけど、お断りです。私は黄昏さんに触ってほしくありません」

 これを、と顔を伏せたまま、暁は己の左手をケースの上に置いた。

 すると彼女の左肩から黒い靄のようなものが滲みでてきた。黒い影は天井まで渦巻き、風に流れる雲のようにちぎれ――空中から黒い外套に身を包んだ金髪の男が顕現した。

〈話は済んだか? 吾輩わがはいは飢えているのだぞ?〉

「リヒト、ハウス!」

 暁の鋭い一声によって、リヒトと呼ばれた「ソレ」は含みのある笑みを浮かべながら、再び姿を消した。

 古めかしい言葉遣いとともに、聖夜と暁の前に姿を現したリヒトは、この世ならざ るモノではない。

 通称を〈時食ときはみの悪魔〉、望んだ個体呼称はリヒトという。

 ほんの十分前にも、リヒトの姿を目にした聖夜だが、恐怖や困惑に陥らないのは、幼い頃から培った舞台度胸と、臨機応変、当意即妙な対応が求められる音楽家の卵だからだ。

 さらに暁はこの悪魔に取り憑かれて五年もの時を過ごしている。もっと言えば、聖夜の目には金髪の男、彼女の目には黒い犬に見えるのだ。

 もろもろの事情を暁から聞かされた聖夜のコメントは「悪魔だからな」とあっさりしたもので、異常事態に感覚が麻痺していたという暁からは「なんでそんなに平然としているんですか……」と八つ当たりに近いまなざしを向けられたのだが。

「ソイツが悪魔だろうが、君が天才だろうが、僕はとにかく君の演奏が聞きたいんだ」

 だって彼女は、千殿払暁は、聖夜にとって特別な演奏家なのだから。


 ――時は、しばし遡る。


 *


「弦楽器専攻二年 、黄昏聖夜君」

 アナウンスに従い、聖夜はヴァイオリンを片手に舞台袖から現れた。

 癖のある黒髪は白い額を晒すように整髪料で固められ、長い手足を包む燕尾服姿が様になっている。

 一礼の後に顔を上げ、聖夜は溌剌とした大きな目で暗がりに沈む客席を見渡した。己を照らす明かりのおかげで、舞台からでも客席はよく見えるのだ。

(コンクールじゃないんだぞ)

 聖夜の身体に無数の視線が突き刺さった。羨望、憧憬、嫉妬、確認、挑発――どれも身に覚えのあるものばかりで、聖夜は唇の端に苦笑を浮かべる。

 ――今度こそ、君に会えるだろうか。

 刹那、脳裏をよぎる感傷を、聖夜は愛器を構えることで封じ込めた。

 音楽家を志した以上、いるかもわからない「君」ではなく、 目の前にいる「彼ら」のために弾く。

 それが聴衆への誠意であり礼儀だ。

 聖夜の意識のすべては、楽器と最高の音色を届ける観客に向けられる。

 曲目は、パガニーニの二十四の奇想曲、第十三番。

「時間内なら、なにを弾いてもいい」という担任の言葉に合わせ、聖夜が在校生代表として、音楽科の入学式で披露したのは「悪魔の微笑み」の俗称を持つ曲だった。

 弓を持つ右手が、ひらりと舞い落ちる桜の花びらのように、時に鳥が羽ばたくように動き。

 四弦をそれぞれに押さえる左指が、黒檀の指板を滑らかに移動する。

 三分にも満たない曲を弾き終え、聴衆の拍手に迎えられた時、ようやく聖夜は自分を取り戻す。

 この曲を弾き終わるたびに思うのは、五年前に出会った少女の 演奏だった――。


 *


「いい加減、鬱陶しいのよ!!」

 祖母の家にある練習室代わりの蔵で、ひたすらヴァイオリンを演奏していた聖夜の手が、観音開きの扉を開け放ち、その場で仁王立ちする姉の登場によって、止められた。

「出かけるわよ!」

 絶好の花見日和だと告げる姉に対し、聖夜は拒絶の反応を見せた。

「花なんかどうでもいい。僕はヴァイオリンをやるんだ!」

「ハンッ! そんな根暗な音を聴かされる、こっちの身にもなりなさいよね!」

「聴こえるわけないだろ、防音されてるんだからっ!」

「女子大生なめんな、お姉様の耳には聴こえるのよっ!」

「えっ? ……嘘だっ!」

 一拍置いてから反論したのは「まさか」という気持ちと「姉さんならできるかも」という聖夜の十二年の人生で「弟」として叩きこまれた本能がせめぎ合ったからだ。

「お黙り!! たかがコンクール程度で、いつまでも落ち込んでいるんじゃない!!」

 コンクールと聞いて聖夜の身体がびくりと震えた。その隙をつかれて姉に愛器を奪われてしまう。

 聖夜は茫然とした顔で、丁重にケースに仕舞う姉の背中を見つめ、気づけば腕を掴まれて外に出ていた。

 この春から中学生になるというのに、悲しいことに聖夜の身長は前から数えたほうが早く、七つ上の姉にいまだ腕力で叶わなかったのだ。

「ねぇ、どこ行くの?」

 祖母の家を出て三十分くらい経った。

 行先も目的も、ついでに日頃の言動も聖夜には不明な姉の背中に問いかければ、振りむいた彼女から鼻先にはがきを突き付けられる。

「忘れたの? 今日はこれに行くって言ってたでしょ」

「藤美学園中等部入学者懇親会」という、読めるけど全部漢字で書くのは難しそうな文字が並んでいた。

「『懇親会』の『懇』って、どういうときに使うんだろう? ……『懇ろ』?」

 ネンゴロってなんだ、と思わずスマホで検索すれば、姉から「はーい、歩きスマホ禁止」と取り上げられてしまった。もはや諦めきった面持ちで聖夜は、他人のスマホで勝手にあちこちの写真を撮り始める姉についていく

 そうして、訪れたのが、聖夜が両親の母国で初めて学ぶ教育機関だった。はがきに書かれてある藤美学園以下略の看板を隣に、聖夜は姉に記念写真を撮られる。

「姉さん、ネンゴロってなに?」

「うん? 仲良くしようぜって意味よ」

「ふーん」

 青と白でできたコンクリートの四角い建物と満開の桜は、デジタル受験した時に見た学校のウェブサイトの画像と同じだと聖夜は思い出す。

 卒業生の姉は勝手知ったる顔で「こっちが中等部。せーちゃんはここに通うの。そっちが体育館ね」と似たような形の建物を指さしていく。

 そうこうするうちに姉は校舎から出てきた知り合いと思しき女性と出会い、聖夜を紹介するだけして放置した。

 女の人の話は長い、と幼いころから知っていた聖夜は、校内を一人で散策することにした。

 藤美学園の高等部には、音楽科がある。母や姉が過ごした学び舎に興味があったのだ。

 校内に植えられた桜並木を通り抜けた聖夜の耳に、ヴァイオリンの音が聞こえた。

 このまま前進すれば、音楽科の講堂があると学内の地図を思い浮かべる聖夜だが、春風に乗って流れる音色は、校舎と校舎の狭間から聞こえてくる。

 耳になれた音に導かれるようにして、聖夜は音源に向かった。

 校舎と校舎の狭間に、ひっそりと植えられ た満開の桜で、一人の少女が演奏をしていた。

 穏やかな風が枝を揺らし、薄紅色の花びらがはらはらと地面に降り注ぐ。

 舞い散る姿は儚く気高く美しく、けれど空へと伸びた無数の枝には、無限のごとき花が咲き誇っていて、薄茶色の地面を白く覆うにはまだ先のことだと思われた。

 晴れ渡る空の下で演奏する彼女に、聖夜の目も耳も――心も、奪われた。

 いつ終わるとも知れない、永遠にも似たその光景を音に例えるのなら、聖夜の目の前にいる少女のヴァイオリンの音色そのものだろう。

 両目を閉じて一心不乱に演奏する少女を見て、聖夜は無意識のうちに右手で胸の辺りの服を掴み、奥歯をぎしりと軋ませた。

 彼女がヴァイオリンを奏でる度に、聖夜の心には黒い染みが広がる。嫉妬と呼ばれる感情を、自己の内で処理する前に、今はただ目前の奏者に集中する。

 ――こんな風に、僕は弾きたかった。

 耳から伝わり、脳を揺さぶり、身体を震わせるこの音色こそ、聖夜が無惨な結果を叩き出した半年前の異国のコンクールにて、実現したかった音だった、理想とする音だった。

 曲目はパガニーニ、二十四の奇想曲が十三番。

 三分にも満たない曲が終わると、彼女はまるで夢から覚めるような動きで目を開いた。五歩ほど離れた正面に立つ聖夜に気づき、驚いたように切れ長の瞳を見開く。

 ――いつからヴァイオリンをやっているんですか? 先生はどなたですか? 素晴らしい演奏でした。

 矢継ぎ早に言葉を浴びせる聖夜だが、相手の困惑した表情を見て、羞恥に襲われる。

 まるで子供みたいに――事実、子供だけれど――中学生になるにしては幼い問いかけに気がついたのだ。

「僕は黄昏聖夜。ヴァイオリンをやっています」

「知っているわ」と澄んだ声が返ってきて、聖夜は相手を見つめた。

 音楽の世界は広いようで狭い。同門だとか、師匠の師匠だとか、師匠同士が同級生だったり、友人知人であるとか、「知り合いの知り合いの知り合いだった」とか珍しくない。

 とくに聖夜の父方祖父と母親は、現役の音楽家だ。

 オーストリア人の祖父、ヴァルター・フォン・シュテルンヒンメルは、欧州音楽界の重鎮であるヴェアン交響楽団で四十年間、指揮者を務め、母親の道玄坂吹雪どうげんざかふぶきは世界各国でコンサートを開き、日本で最も名前が知られたヴァイオリニストだ。

 けれど、聖夜には相手に見覚えがなかった。

 年の頃は十代。真っ直ぐな黒髪は両耳の下で結ばれている。

 ほっそりとした身体にまとうのは、黒に近い濃紺のボレロとワンピース。

 聖夜が春から通う藤美学園の制服だ。

 中等部と高等部の制服は同じデザインだと聖夜は耳にしていたから、相手が年長者だと推測するも、やはり見覚えはない。

 じぃっと大きな目で相手を見つめていると、先方に顔をそらされた。

 相手は言葉を探すような顔で空を見上げ、次にチョコレートに似た色の根本に置かれた、開き放しのヴァイオリンケースに、乱雑な手つきで楽器を仕舞う。

 その背中を見ながら、ヴァイオリンに触れる者として、今更ながらの疑問が聖夜に沸き上がる。

 ――そもそもなんでこんなところで演奏を?

 ――花びらが楽器に着いたらどうするんだ?

 あれほどの技量があるのだから、当然、楽器の知識も守り方もあるはず。

 弦楽器はさながら生まれたばかりの赤子だ。外界のあらゆるものから守るのが、親たる持ち主の使命なのだから。

「どうして、こんなところで演奏を? 練習室とかホールとかありますよね?」

 首をひねった聖夜と同じく、振り向いた彼女も小首を傾げた。

「音楽科は高校のでしょ?」

「音楽科の方じゃないんですか?」

 聖夜は混乱した。相手は制服を着ていて、あれほど見事な腕前があるのに、こんな風が吹いて埃が舞うような、ヴァイオリンにとって危険な場所で演奏するなんて。

「……私、あなたと同い年だよ」

「えっ」

 思わず声を上げた聖夜に、少女は「よろしくね」とふわりと微笑んだ。

 二度目の衝撃が聖夜を襲った。相手は、姉よりも背が低い聖夜より、拳二つは背が高かったのである。てっきり年上かと思っていた相手がまさかの同い年で――そうとわかった瞬間、聖夜は悔しさに襲われた。

「君の名前は?」

「……■■■」

 彼女の唇が言葉を紡いだ瞬間、花びらを舞い上げた風が音をかき消した。

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