第30話 憲法改正には反対しない
秋田家の夜の食卓。
「まいうー。食った、食った」
長野護倫が両手の平で自分の腹を大げさに撫でる。
「あれだけ食べれば、そりゃ『まいうー』でしょ。少しは遠慮って言葉を覚えた方がいいんじゃないの、ゴリン」
ニックネームで護倫に説教をしているのは広海。A4ランクの国産和牛が香るすき焼き鍋の向こう側で、千穂が笑っている。
「足りたぁ? おうどんで締める? それとも、まだお肉ががいい?」
キッチンの奥から声を掛けるのは千穂の母親、響子。食欲旺盛な17歳の胃袋を気に掛けてくれる。広海と護倫は招かれて千穂の自宅にやって来た。広海たち「チーム剣橋(つるぎはし)」の活動に興味を示した千穂の両親が一度話をしてみたいと誘ったのだ。大人数では申し訳ないので、広海と護倫の2人が誘いを受けた。
「もう、たくさんです。お腹いっぱい。ご馳走さまでした、ねっ」
広海は、響子の厚意にまだ甘えようとしている護倫の口を手で塞ぎながら、お礼を言った。立ち上がった千穂が鍋をキッチンへ下げ、カセット・コンロも片付ける。新聞社に勤務する千穂の父親はまだ帰宅していない。どうしても外せない予定外の会合が入ったらしい。
「さっきメールがあって、間もなく戻るっていうからもう少し待っててね」
デザートのアイスクリームをお盆に載せて響子が戻って来た。
「ねぇ、あなたたち、憲法改正ってどう思う。安保関連法案が大モメだけど」
フルーツソースが掛かったアイスクリームを頬張る3人を品定めをするように、響子が口火を切る。広海にテーブルの下から足で突かれた護倫が答えた。
「日本は立憲国家ですから、憲法を規範にして動くのが前提です。ですが、ボク個人は憲法が完全無欠な法律だとは思いません。ですから、場合によっては内容を見直すことだって、正当な手続きを踏むのなら基本的には構わないと考えています」
ここは学校や「じゃまあいいか」ではない。さすがの護倫も丁寧に答える。『ボク』なんて護倫の口から聞いたことがない、と広海は心の中で舌を出した。
「実際、制定から70年。憲法といえども、必ずしも時代に合わなくなってきているって指摘があるのも事実です。ご承知のように政府の主張もそうです」
「それは、安倍政権が日米安全保障条約の関係で、憲法第九条の改正とかしたがっているからなんじゃないの。69条の「衆議院の解散」もね。元々、去年の年末の解散総選挙は内閣の解散権の乱用とも評されたくらいだから。解釈変更も含めて、そんなに性急に論議する問題ではないと思うんだけど、私はね」
響子は憲法改正には慎重な立場にあるようだ。
「でも政府は、安全保障をめぐる環境が憲法制定当時とは激変しているって主張しているわ。朝鮮半島有事、一触即発の韓国と北朝鮮との緊張関係。それに北朝鮮の核開発とテポドンだっけ、ミサイルの射程圏内に日本が入っていることとか、最近の日中関係とか」
前々から、判断するには情報が不足しているというのは千穂の主張だ。
「政府与党の主張はいっつもそうなの」
と響子。日本を取り巻く安全保障の環境変化についても、政府の考えに疑問を持っている。日本海を挟んだ中国や北朝鮮との関係よりも同盟国のアメリカとの間の環境変化の方が大きいのではと考えている。
「長野クン的には憲法改正も考える必要があるのよね。政府にとっては、心強い応援団ね」
響子は護倫の意見を否定せず、先を促して聞いてみることにした。
「でも、逆なんです、実は。政府の考えとは違って、9条の戦争の放棄と69条の衆議院の解散については、文言も解釈も変更の必要があるとは思いません。改正の必要を感じるのは、憲法第49条の議員の歳費と、憲法第50条の議員の不逮捕特権。どちらも議員の特別待遇を事実上認めたもので、憲法の制定当時はもしかしたら必要性があったかもしれないけれど、21世紀の現代では根拠も薄いと思うんですよ」
護倫の考える憲法改正は安保関連の条項ではなく、国会議員の身分に関する条項に対するものだった。
「歳費って、高過ぎるって時々問題になるけど、不逮捕特権って確かにほとんど問題にならないよね」
広海も興味を示す。
「注目度、低いんだよね。大体、歳費も不逮捕特権も議員の身分に関係することだから、与党も野党もまず問題にしない。自分の身は可愛いからね。歳費を問題にするのは、市民オンブスマンみたいな団体とかマスコミくらい。でも、不逮捕特権って緊急性や優先順位の点でも、そんなに目立つ法律ではないから、クローズアップされないんだよ。議員特権なんて時代錯誤の代表格さ」
秋田家での憲法改正の勉強会は、安保関連から議員の身分にテーマが方向転換。
広海は、自分が日頃から憤っている議員優遇の話だけに身を乗り出した。
「えー、教えて教えて」
4人がデザートを食べ終える頃、用向きを終えた千穂の父、正博が帰宅した。
「いやぁ、ごめんごめん。みんなを招待した張本人が遅刻しちゃって。食事は済んだようだね」
「あなた、ご飯はどうするの」
響子が声を掛ける。しかし、テレビでよく見るホームドラマのように、響子は夫からカバンを受け取ったり、上着を脱ぐのを手伝ったりしない。秋田家の夫婦関係の一端が見える。
「いや、軽く済ませてきたから大丈夫。ちなみにアルコールは一滴も入っていないからね。みんなの勉強会に混ぜてもらうんだから、まあ最低限のエチケットだな」
正博は濃紺のジャケットを脱いでダイニング・テーブルの椅子に腰掛けると、ネクタイを少しだけ緩めた。
「悪いが、オレにもアイスをもらえないかな。糖分を摂取して脳にエネルギー補給しないと、長野君や広海ちゃんの話についていけない」
もちろん、ジョークのつもりだ。護倫だけ名字で呼んだのは、単に初対面だったからだ。正博はフランクな外国人とは違う。まだ、護倫クンと呼ぶ距離感にはない。
「そうね。せっかくだからダブルにしましょうか」
と響子。夫婦の阿吽の呼吸で、広海と護倫の緊張もほぐれる。
「気持ちは有難いが、メタボも心配だ。みんなと同じシングルでいいよ。健康診断も近いし」
広海は、夫婦の仲の良さが垣間見えるさりげないやりとりを微笑ましく思うと同時に、千穂に少しだけ嫉妬した。ずっと親元を離れていると、たまに恋しいと感じることもある。
「それじゃ、続けていいですか」
護倫は、これまでの流れをかいつまんで説明した後、国会議員の身分に関する憲法の規定が不要であると、改めて述べた。
「優遇され過ぎの歳費や手当てについては、よく指摘もされているから後回しにして、まずは不逮捕特権が不要なワケから。国会議員の不逮捕特権の起源は中世のヨーロッパ。そうですよね」
護倫が何気に正博に話題を振る。
「そうだね。世界史を紐解くまでもなく、当時のヨーロッパ各国の多くの政治は民主政治ではなくて王政だ。国王による政治だね。議会はそれをチェックする役割だったんだけど、必ずしも対等な緊張関係というわけにはいかず、形式的に過ぎなかった。王様は自分の意にそぐわない議員を政治犯として逮捕して投獄したりしたんだ。独裁政治の名残りだね。魔女狩りなんて言われる宗教裁判の多くも、権力者が自分にとって都合の悪い学者や宗教家を排除した動きだけど、それと同じさ」
正博が説明する。アイスクリームの糖分が十分に脳を刺激したようだ。
「現代の日本においは王様なんていないから、独裁なんてあり得ない。象徴である天皇がそんなことするわけがないし、できない。万が一、内閣がそんなことしようもんなら、さすがにマスコミや国民が黙っちゃいませんよね。だから、基本的に現行犯以外の逮捕を禁じたこの特権の役割なんてもうない。むしろ、法の下の平等に反するくらいで。けれど、議員にとってはあって困る条文でもないし、自分たちとっては有利な法律だからダンマリを決め込んでいるだけだと思います」
と護倫。議員の怠慢を一刀両断する。
「でも、重要な法案審議の時に国民の代表の議員が逮捕されて、いなかったら困るんじゃないの」
と千穂。性格の真面目さが覗く。
「チーちゃんさ、国会議員って何人いると思っているの。衆議院で475人、参議院でも242人いるんだよ。これだって、先進諸外国と比べてみても多過ぎるって批判もあるくらい。一人二人っていうか、仮に五人十人逮捕されてもも無問題(もうまんたい)。十分審議できるって。だって、政治資金問題とか、いわゆる不祥事で雲隠れして入院の名目で病院に逃げ込んだり、マスコミから姿を隠す政治もいるくらいだよ。全然困らない。実際、採決を欠席して秘書と温泉旅行に行く議員がいても困らなかったじゃん。議場で居眠りしても法案の審議には困らないんだよ」
護倫の意見は国民の声を代弁しているのではないかと広海は思った。
「政治家が聞いたら、ずいぶん耳が痛い指摘だね」
と正博。響子も笑っている。
「政治家にも少しは緊張感が出るかもしれないわね」
千穂も頷いた。
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