第26話 漢字の読めない大臣と安易な収入計画
コンドミニアムのダイニング・テーブルに、母島産のレモンとハチミツで作ったレモネードとパッションフルーツジュースが並ぶ。小笠原広海の実家の父島で、政治への関心を高めようと開いた夏休みの勉強会。4日目の昼食は、前日のカメ煮の残りでカメカレーを作った。肉も柔らかく、手足のゼラチンもトロトロになっている。順応力が高く、好奇心旺盛な高校生だけに、不慣れなウミガメ料理にも抵抗がなくなった。ただ一人を除いて。秋田千穂は、四角豆の天ぷらに地元産の塩をちょっとだけつけて頬張りながら、浦島太郎の昔ばなしを思い出している。頭の中では、カメカレーをお代わりした清水央司と長崎愛香がお爺さんとお婆さんになっていた。どうやら「浦島太郎」と「千と千尋の神隠し」がごっちゃになっている。男子、女子に分かれて他愛のない話が飛び交う。何気ない愛香と広海の会話に、釣り針の先のエビを見つけた鯛のように央司が食いついた。
「何? ミゾユウの麻生さんって。秘密のアッコちゃんなら知ってるけど」
「♪麻生さーん、ダメ、ダメ。秘密のアッコちゃんより、トイレの花子さんだろ。世代的には。マジ、知らないオウジにもやってみようか、漢字テスト」
大宮幹太がアッコちゃんの主題歌を口ずさみながら、“オウジ”こと清水央司にダメ出し。
「前に、総理だった頃、官僚の原稿を読み間違えたわけ。未曾有(みぞう)をミゾユウって。未曾有の他にも何だっけ」
うろ覚えの広海の脇で、愛香がスマホを操作している。
「2008年11月12日のことでございます。学習院大学の日中青年交流行事で、卒業生で当時総理だった麻生大臣があいさつされたのです。その中で「頻繁(ひんぱん)」を「ハンザツ」、「未曾有」を「ミゾユウ」と誤読してしまったのです。更に麻生さんは国会でも「踏襲(とうしゅう)」を「フシュウ」と誤読されたということです。ちなみに「有無」は「ユウム」。ミゾユウと同じ」
「総理の仕事が煩雑過ぎたってことかな。まあ、煩雑っていうのも大学入試の読み書き問題でよく出る頻出(ひんしゅつ)漢字だけどね」
「頻繁に出題されるからの、頻出。漢字を覚える基本だろ、類語のチェック」
嫌味な幹太に麻生大臣を弁護する気はない。総理の仕事以前の問題だろう。
「まあ、大臣の読む原稿って基本、官僚とかの取り巻きが用意するもんだから、 たまにこういう形で表面化しちゃうわけ。だからさ、今では大臣用の原稿、漢字には念のため全部ルビが振ってあるらしいわ」
と千穂。“大臣あるある”だろうか。事実かどうか、一度原稿を見てみたい。
「学習院大学の入試問題。漢字の読み問題でも、この3つ出題頻度が高いらしいわ、最近」
「それって、学習院あるある? もしかして今、シュツダイハンドって言った?」
珍しくジョークを飛ばす千穂に広海がジョークで返す。
「趣味悪い冗談やめてよ、ったく。都市伝説なら分からないでもないけど」
「案外、マジやってるかもね、入試問題。“シュツダイハンド”って書くなよ、オウジ」
幹太のイジリに挫ける央司ではない。どこ吹く空で、新国立競技場建設の財源にtotoの売り上げを充てるという話を切り出した。
「漢字の話は置いといて、totoで充てることができる上限は、売り上げの5%まで。これを10%に変更するんだってさ。そして、何とtotoをプロ野球にも採用する案も浮上しているらしい」
「はぁ?」
と眉を寄せる愛香。素っ頓狂なな声を上げて、ゆっくりと央司の方に向き直る。どうやら愛香の逆鱗(げきりん)に触れてしまったらしい。
「だからさ、プロ野球の勝ち負けにもtotoくじをやるって」
「オウジ。お前、地雷踏んだな」
恐る恐る繰り返す央司だが、愛香は聞き返したわけではない。
「聞こえてるわよ。プロ野球って昔、野球賭博とか八百長疑惑とかあって大問題になったことがあるの。大相撲だって、八百長疑惑とか“かわいがり”とかいう暴行問題とかあって、大変だったでしょ」
どうやら愛香の守備範囲は将棋だけではなかったようだ。過去を遡って、選手を巻き込む不正を心配している。
「だから、八百長ができないように、購入者が自分で勝ち負けを予想するんじゃなくて。totoって基本、コンピュータがランダムに選んだ組み合わせで抽選する方式だから」
困り顔の央司に代わって幹太が援護射撃。だが、一度火がついた愛香の怒りは収まる気配はない。そもそも怒っているのは投票方式ではないからだ。十手も二十手も先を読んでいる。
「あのさ、コンピュータかなんだか知らないけれど、予想結果のプリントされたクジは試合の前に手元にあるわけでしょ。それ見てから八百長を持ち掛けることもできるわ」
「確かに」
まるで打ち合わせをしたかのように、幹太と央司が同時に頷く。
「ズルする方法なんていくらでもあるのよ。人間そういうことには頭使っちゃうんだよね。大体さ、totoって文科省の管轄よね、大相撲もそうだけど。プロ野球も監督官庁があって、それも文科省なの。だからそういう発想になるのね。相撲だって、もし国技でなかったら賭け事の対象になっていたかもよ」
愛香の推測だ。元々、農作物の豊作を占う儀式としての奉納行事からスタートした相撲は江戸時代に興行となり、歌舞伎と並ぶ大衆娯楽として定着してきた歴史がある。同時に力士も職業になった。大元は「古事記」や「日本書紀」に出てくる力比べの神話が相撲の起源ともされる。相撲が日本の国技とされる所以であろう。
「政府の案てさ、ファンを置いてけぼりの議論なんだよな」
核心を突く幹太に広海も続く。
「お金の工面だけできれば、それでいいって感じよね。スキームとかビジネスモデルってカタカナ語で言っとけばエブリシング・オーケーみたいな」
「大体さ、totoの売り上げから当てることのできる割合を5%から10%に変えるにしたって、倍にする根拠は何よ?。逆に倍で足りる根拠は何?。それで、もし売り上げが減少したらって考えないのかしら。どうせ賞金とか配当金とかに回す売上金の比率を下げるわけでしょ、きっと。もしもプロ野球にtoto導入して、ファンのプロ野球離れが進んだらどうするのかしら。ただでさえ、サッカー人気に押されてるのに」
愛香は、まだ決定していない「プロ野球toto」には断固反対だ。父島には来ていないが、大の野球ファンの吉野さくらなら絶対黙ってはいないはずだ。
「法律変えれば何でもできるって考え、短絡的過ぎるわ」
広海の結論に、愛香が駄目を押した。
しかも作るのは、超目の粗いザル法。抜け道いっぱいのね」
新国立競技場の建設はデザインから白紙撤回されたが、注目されるのは財源ばかりだ。
「金額の多寡じゃないの。責任感の問題よ。総理が計画を白紙に戻した後、誰も責任を取らないことが批判されたら、下村文部科学大臣はスポーツ担当の局長の辞任を発表したでしょ。それも『競技場問題の責任を取ったわけじゃない。定期異動で、後進に道を譲っただけ』って。政府はいっつもこの作戦。きょう日、高校生にも通じないロジックね」
と千穂。目の前の央司も愛香もデザートを頬張りながらウン、ウンと頷く。
「あの局長、定年までまだ1年8ヶ月以上残っていて、普通では辞任は考えられないって、テレビで言ってた。更迭だ、トカゲの尻尾切りだって集中砲火。ネットでも大炎上。そのうち大臣も追い込まれるね、きっと」
央司の推測は的中し、その後の内閣改造で文科大臣は交代。事実上の更迭人事だった。
「潔くこの辺で投了よね。どう先を読んでも詰み手しかない」
「この期に及んで、潔くはないだろ。頓死だよ頓死。しかも自分が詰んでいることに気がついていない。お前はもう、詰んでいる」
「グギャ~。愛香の拳」
追い込まれた政府を将棋用語で喩えた愛香に大袈裟に幹太と央司が続くと、仕上げに広海が総理の常套句でダメを押した。
「安倍総理は何かと存立危機事態とか国難って不安を煽るけど、責任のたらい回しの新国立問題こそ、正に内閣の存立危機事態よね」
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