第22話 デザイン・ファーストの新国立競技場

「五輪関連予算を組み直すに当たって、国は東京都に『五百億円負担してよ』と相談したわけよ。そうしたら 当事の舛添要一知事が『冗談じゃない。そんな話聞いていない』って激怒したわけ」

舛添知事と自民党の間には、知事就任前の国会議員時代に自民党を除名された際の確執がしこりとして残っているら。言葉の真意を読み解くのは難しそうだと千穂は思う。

「そりゃそうよ。阪神の岡田じゃなくても、そりゃそうよ。十分な説明もないままに、知事が言われるままに五百億円まとめてポンと出してみ。東京都民だって黙っちゃいない」

と央司。五百億円というのは、東京都知事の辞職に追い込まれた猪瀬直樹氏が借りたとされる現金五千万円が入ったバッグに換算すると千個分だ。

「五百億円なぁ。デザインのキモになっている「キールアーチ」だけで一本四百億円はするっていってた、専門家が」

「ってことは、キール・アーチたった1本分かぁ」

幹太も新国立競技場の建設問題には関心がある。それにしても、大人も高校生も関係なく国民が連日、生活とは無縁の千三百億とか二千五百億とか億単位の話をする日常になると誰が想像したことだろう。

「七百六十五億円っていう試算もあったわ」

愛香はまた別の数字を口にする。2倍、3倍は当たり前。試算とは言え、これではバナナの叩き売りだ。

「でも、ザハさんは二百三十億円って言ってたらしいよ」

二百三十億でも七百六十五億でもとてつもなく高額という意味では大差ないと、千穂は思う。高額を超えて巨額という言い方が正しい。

「単純に、そのアーチをやめれば千八百億円じゃない」

「おいおい。そう簡単に『千八百億円じゃない』なんて言うなよ。三千億円の後の千八百億円だから、感覚が麻痺しても無理はないけどさ。何か千八百円位に感じてしまう自分たちがコワイよ。半額近いから、めっちゃ安そうに聞こえるんだけど、千八百億円って」

思わず広海が口にした金額に央司。ドキッとさせられる的確な指摘だった。こういう感覚は大事だと広海は思う。

「それってさ、天井のデザイン変えればいいだけの話でしょ。選手は何も天井見てプレーするわけじゃないし、観客だって選手のプレーを応援に来るんだから。天井を見るために来る人なんていないでしょ」

「天井が開閉式っていうのも高額になる理由よね。元の国立競技場は、みんな知ってる通りドームと違って屋外施設だから開放されていたし。今度のデザインは天気の悪い時には雨風の侵入を防いでさ、晴れてる時にはフィールド部分の天然芝には屋根を開放して太陽の自然光を取り入れたいって発想なんだって。雨が降ったら天井の屋根を閉める仕組み。でも、キールアーチ自体は、施設全体の屋根部分を支えるために必要不可欠なものじゃないの。アーチがなくても開閉式の屋根は作れるし、構造上はあってもなくても関係なくて、完全にデザイン優先のシロモノらしいわ」

千穂が父親の正博から聞いた話だ。

「大黒柱って、家屋を支えるのに必要不可欠な重要な役割を持っているわけだけど、このキールアーチはその役割がない上に、アーチの中間部分を支える柱がないから、地面に深く掘った土台部分が必要で、更にアーチの両端を引っ張って、変形しないように支えるための鋼材も必要なんだって」

「何だか難しそうだけど、つまり、アーチを支えるために相当大掛かりな工事が必要ってことよね。景観第一を優先するために」

両手で下敷きをたわめながら幹太がキールアーチの構造を解説する。広海が、その両端をガムテープで止めた。

「丁度こんなイメージ。実際には当然、こんなに幅広じゃないけどね。そのアーチの設置が終わってから、やっと競技場本体の建設が始まるから、時間もお金もかかるってわけね」

「それって完全に見映えだけのアーチで、意味ないじゃんね。建設段階からフィールドとか客席よりも優先しなくちゃならない上に、お金も時間もかかるって、ただのお荷物よね。無用の長物」

愛香もアーチ不要論に一票。

「アーチ、チ、アーチ、燃えてるんだろうか~」

と立ち上がった央司。エアーで郷ひろみのジャケットプレイを真似てみせる。

「ネットでもとっくに大炎上さ。話は簡単で、最初から設計を変えれば良かっただけ。デザイン優先か、機能優先かさ」

火消しのようにクールに幹太。

「それに、開閉式の屋根を設置した施設には笑えない実話もある。開閉式の屋根って、教室の窓を開け閉めするみたいに簡単にはいかないんだ。閉まった屋根を開くのに何十分も掛かるんだって。当然、雨が降ってきたからって開放した屋根を閉めるのにも同様に長い時間が必要になる。屋根が閉まったら雨も上がったなんてことにもなりかねない。ウケるよね。多分、電動だろうけど故障も多くて、どこの施設だったか忘れたけど、開閉式のドーム施設なのに、天気に関係なく屋根は開放したままになっている所もある。これがホントの閉まんない話。それに、開閉式の施設では肝心の天然芝の生育にも問題があるって指摘もあるんだ。やっぱり日照不足になるんじゃないかな、基本的に」

どこからか、笑い話のような本当の話を央司が仕入れて来た。

「でも、担当の文部科学省は一度は決定しちゃった」

と愛香。当時の下村博文(しもむらはくぶん」)文部科学大臣の憮然とした顔を思い出す。

「正確には、JSC。まあ監督官庁なんだから文部科学省も同罪よね」

千穂が付け加えた。

「国際コンペで決めたメンツもあったしね。プライドだけは高そうだから。キール・アーチの値段並みに二千億円は下らない」

「高いねぇ、大臣のプライド」

広海の言葉尻を取って批判したのは央司だ。

「白紙撤回までの道のりも長かったわ。未練タラタラで、もう本当に往生際悪いったら」

「だって、あのまま作るにしても、二千五百二十億円で完成する保証なんかなかったんだよ。だって、机上の計算しかしていないのに、千六百億でできるとか、二千億かかるとか好き勝手言ってる感じで。ザハさんが設計したロンドンオリンピックの競泳会場。“クジラ”って呼ばれる流線型が特徴のデザインなんだけど、これだって、設計段階の建設予算はおよそ百六十億円。それがどんどん膨れ上がって建設段階の見積もりでは六百億円近くに跳ね上がったんだって。約4倍よ、4倍」

JSCや文部科学省の不手際を具体的に批判する千穂。

「で、ロンドンはどうしたの」

広海の質問に千穂が即答した。

「もちろん、デザインを変更したわ。当然と言えば当然。常識的な判断ね」

「日本政府も遅まきながら、ようやく重い腰を上げたってわけか。白紙撤回」

幹太が持ってきた新聞記事に、白紙撤回の大きな文字が躍っている。

「組織委員会会長の森元総理は『三千億かかっても四千億円かかってもやらなければいけない事業だ』って自信たっぷりに豪語していたけど、あの勢いはどこに行ったのかしら。言葉にだって責任持ってもらいたいわ」

空気の読めない無責任な元総理の言動に、千穂は相当にあきれていた。もちろん、どうしても必要な事業だなんて、これっぽっちも思っていない。

「賢明な政府なら、イギリスのようにそりゃ変更するわな。当然の判断」

幹太の発言に答えたつもりの央司。

「でも時間が掛かったわよね、決断するまで。結局、自分のお金じゃないから千三百億円も二千五百二十億円も正直関係ないってこと。官僚や政治家にはね。みんなさ、仮に自分で家を建てるとするでしょ。設計会社が『天井はキールアーチでいきましょう。ソーラー発電とかは別料金で工期が予定より長引きますが素敵なデザインですよ。ただし、建築費の見積もりが二倍になってしまいました。完成時には四倍になっているかもしれませんが、ザハ・ハ・ハ・ハ』なんて言われてキールアーチにする?」

広海が周りを見渡す。

「宝くじで十億円当たらなきゃ絶対無理」

大げさに首を振りながら央司。もちろん宝くじなど買ったことはないから当たるわけもない。

「オレなんか、十億円当たってもやらないね」

もちろん幹太にも宝くじの購入経験なんかあるわけがない。

「それがジョーシキってもんよね」

愛香も二人の意見を肯定する。

「どっかで完全に金銭感覚がマヒしているのね。だってね、これまでの各国のオリンピック開催都市のメイン会場の建設費、知ってる? 通称“鳥の巣”って呼ばれた北京の会場がおよそ五百億円。ロンドンのメイン会場が五百三十億円位。それが二千五百二十億円って、最近の開催都市のメイン会場が三つも四つも建設できる計算よね。足元見られてるのよ。政府は『日本は人件費が高いし、物価の水準も違う』って金額の妥当性を説明するけど、日本の人件費や物価って外国の3倍も4倍もするわけないじゃない。コンパクトな大会が聞いて呆れるわ」

確かに金銭感覚がどうかしてる。政府はその工面に裏技を用意していた。正確には官僚の悪知恵ではあったが。

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