第20話 世界遺産しかないけれど

 「ねえねえ、今度、ウチ来る」

「行く行く。って、まだ芸能界入る前から、このフレーズ使う場面が来るとは思わなかったな」

清水 央司ひろしがテレビ番組さながらの身振りを交えて小笠原 広海ひろみの誘いを受ける。いつにも増して上機嫌だ。

「ん? 『まだ入ってない』って、オウジまさか芸能界入るつもりなの。いつから芸人志望に宗旨しゅうし替えしたの?」

「おいおい、勝手に芸人ってピンポイントで決めないでくれる。しかも、何でお笑いに限定するわけ。俳優かもしれないぜ。トレンディ・ドラマの」

「ないない。それにトレンディ・ドラマって、何時代の話。もしかしてジュラ紀? 死語だよ死語。最近のトレンディって言ったらエンジェルでしょ、トレンディ・エンジェル。で、広海、ウチって、あんたが下宿しているおばさん家じゃないよね。もしかしてチ・チ・ジ・マのこと?」

秋田 千穂は央司をからかうと、広海に確認した。

「下宿じゃない私のって、父島しかないじゃない。小笠原諸島の中では一番大きい島ですけど、何か文句でも?」

「ない、ない。常夏のリゾートアイランド」

オウジの頭の中には、青い空とエメラルドグリーンに輝く珊瑚礁の海。旅行会社のパンフレットのような鮮やかな風景が広がっている。

「いいの? 広海。広海ん家、ペンションやってるんじゃないの? 私たち“お邪魔虫”にならないかな。日帰りってわけにいかないんだし」

千穂は冷静に現実を見つめる。

「あったり前でしょ。何たって『おが丸』で片道25時間半よ。到着までに日付が変わってしまうんだから。滞在は…、そうね、みんな初父島になるから6日がいいわね、5泊6日。でも、道がないのに片道って面白いよね。日本語って」

『おが丸』というのは東京と小笠原・父島を結ぶ定期船・おがさわら丸のことだ。広海が自分からジョークを飛ばすことは珍しい。何か良いことでもあったのだろうか。

「卒業旅行、か。まだ全然早いけど」

「卒業旅行って言い方はやめてくれない、千穂。実家に帰るだけの私の立場はどうなるワケ? あんたの家族への口実は自由だけどさ。合宿よ、合宿。勉強会、夏季集中講座」

「分かった、分かった。もう分かったから」

広海の宣言に千穂が苦笑した。


 午前9時前、長崎 愛香あいかと秋田 千穂、大宮 幹太かんた、清水 央司の四人は、新橋で東京臨海新交通臨海線ゆりかもめに乗り換えて竹芝駅に到着。客船ターミナルへと向かう。岸壁におがさわら丸の大きな船体が見えた。快晴の空に白い船体が眩しい。乗船手続きを済ませた一行は、船をバックに記念写真を撮り合った。遊園地で手漕ぎボートくらいしか乗ったことがない愛香と幹太、そして央司にとっては初めての本格的な船旅だ。心が弾まないわけがない。家族と一緒に客船の飛鳥Ⅱで船旅の経験がある千穂は、三人に比べると落ち着いている。その時の行き先は北海道だった。

予約したのは、四人部屋の一等船室。船旅初心者の高校生としては大広間で相部屋の二等船室でも十分だったが、一昼夜の長い航海で周りに気兼ねすることなく話が出来るからという理由で、奮発した。正しく言うと、奮発したのは四人ではなく、それぞれの親ではあったが。

「ワーオ。二段ベッドがふたつ。テーブルもあるし、窓もある」

乗船すると早速、部屋へ直行。幹太がデイバッグを下ろす。

「思ったよりも明るいし、居心地よさそう。まぁ、1泊だけなんだけどね」

愛香は小型のスーツケースを壁際に寄せた。

「中学の修学旅行以来かしら。こういうの」

首を回して部屋をチェックしていた千穂。どこに腰掛けようか迷っている。

「修学旅行で男女同部屋はあり得へんで。ごっつ緊張しまんがな」

相変わらず、軽口を叩いている央司。デリカシーの欠片かけらもない。

「何で変な関西弁になるワケ。イヤらしい」

愛香に押された央司が大袈裟なリアクションでベッドに倒れ込んだ。

「姉さん、堪忍や。変な意味なんておまへんで」

「オウジ。お前、ちょっとテンション高過ぎ。あんまりはしゃぐと大部屋に追い出すぞ」

「兄貴、堪忍や~」

“気をつけ”姿の央司が、幹太に向かって大袈裟おおげさに頭を下げる。

「クッサイ猿芝居。先が思いやられるわ」

「広海がいたら、大部屋どころか間違いなく海に放り込まれてるわね」

「確かに」

こうして仲良し四人組の船旅が始まった。


 「めざましジャンケン、ジャンケン、ポン。ジャンケン、ポン、ポン」

たった1泊とはいえワンルームをシェアする思春期の男と女。マナーとエチケットは最重要項目だ。いろいろ悩んだ挙句、それぞれ二段ベッドの上段を幹太と央司の男子チームが、同じく下段を愛香と千穂の女子チームが使うことで一件落着した。視界に同性が見える方が安心できるという千穂の意見だった。


 船は東京湾を出て外洋へ。海の色が見慣れた青からどんどん深い藍色に変わっていく。おがさわら丸にはフィン・スタビライザーという横揺れ防止の装置が付いているので航行は安定していた。船内を一通り散策した四人は、砕ける波音を聞きながらデッキで潮風に吹かれていた。が、お調子者の央司にさっきまでの元気がない。

「おっかしいなぁ」

「何がおかしいんだよ」

「何か、ちょっと気分が悪い」

「船酔いだな」

「そんな筈はないんだけど…」

「そんな筈はない?」

央司は首をかしげて考えて込んでいる。

「いやさ、初めての船旅だから船酔いも一応覚悟していたわけ、想定内。だから念のために『車』って手の平に3回書いて飲み込んだんだけどな」

「ちゃんと漢字で書いたかよ」

と幹太。思わずニヤけてしまう。。

「言っても高校生だぜ、俺だって。漢字で書いたに決まってんじゃん」

我慢できずに、幹太が吹き出した。

「アハハハハハ。バッカじゃないの。今までのオウジのギャグで一番ウケたわ」

「笑うことないだろ、ギャグってなんだよ、ギャクって。人が初めての船酔いで苦しんでるっていうのに。しかも言うに事欠いてバカって何だよ、バカって」

「だって、これが笑えずにいられますかって。聞いた、なあ聞いた」

「聞いたわよ。手の平にちゃんと漢字で『車』って3回書いて飲み込んだのよね、オウジ。なのに効果がなくて、船酔いしたかもって話。あのおまじないって、3回で良かったんだっけ、千穂」

愛香も幹太の大笑いの理由はすぐに分った。必死に可笑しさに堪えている。

「もう、愛香も意地悪なんだから。回数の問題じゃないでしょ。気持ちの問題、気持ちの。ちゃんと気持ちを込めてお願いしたの、オ・ウ・ジ・様」

「ウチの女子チームは美魔女の素質十分だな。人が悪いのにも程がある。もしかしたら、シンデレラに出てくる意地悪なお姉さんたちより性格悪いかもよ。オウジさ、回数でも気持ちの問題でもないんだよ。おまじないが効かないのは、字が間違ってるからだよ」

「字? 車なんて小学生でも書ける漢字、間違うわけないだろ」

央司は気分が悪い上に、幹太たちに揶揄からかわれて半分、不貞腐れている。

「にっぶいわねぇ。まだ分からないの、オウジ様。今、この太平洋の大海原を父島に向かっている私たちが乗っているのはなあに?」

 どうやらさすがのオウジも気がついたらしい。気分が優れないで青白かった頬が、恥ずかしさでみるみる紅潮していく。船酔いがウソのようだ。

「広海にもメールしなきゃね。こんなオイシイ話」

愛香はオウジの困り顔と、満面の笑みでVサインを決めた幹太と千穂のスリーショットをスマホに収めると、簡単な報告とともに父島で待つ広海に送信した。


 夕方6時過ぎ。八丈島の島影の遥か先、太平洋に沈む夕日が美しかった。

「このファースト・クルージングが多分、オレ達のおがさわら丸のラスト・クルージングだな。正確には5日後の帰りの航海がっていう意味だけど」

つぶやく幹太の瞳に夕日が映り込む。

「どういうこと?」

夕日の写真を撮っていた千穂が振り返る。

「このおがさわら丸は、1997年に就航した2代目の船なんだ。初代の船は今頃プリンセス・オブ・ザ・カリビアン号っていう名前に生まれ変わって、フィリピンのセブ島周辺で就航しているっていう話。初代の船は、東京から父島まで30時間くらいかかったんだけど、今は所要時間で約4時間半短くなった。でも約20年の運行で船体も老朽化し、来年の夏には3代目の船が導入される予定なんだってさ。今よりも更に1時間半、所要時間が短縮されるらしい」

「私たちが生まれる前から働いてきたわけね。新しい船でも、たっぷり丸一日、24時間はかかる計算かぁ。まあ、東京から南へ1,000キロ。何しろ『海洋島』って呼ばれるくらいに、一度も大陸と地続きになったことがない世界遺産の島々だからね」

と千穂。まだ、父島まで半分も来ていなかった。

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