第19話 翼の折れたエンジェル

 喫茶「じゃまあいいか」のカウンター。アルコールランプで温められたお湯が、重力に逆らって一気にガラスの管を上昇すると、褐色の粉と混ざり合う。広海は繊細な曲線でできたサイフォンを見つめていた。静かな店内に低く流れるショパン。広海ひろみは先週、愛香あいかと交わした会話を思い出していた。


 「長崎三姉妹。まるで『3月のライオン』ね。あかり、ひなた、モモの中川三姉妹みたいな…」

「あのね、『3月のライオン』は確かに将棋がテーマの漫画だけど、主人公の棋士は三姉妹じゃなくて、桐山 零って男子。年は同じ17歳だけど」

「まあ、固いこと言わずに。マンガ読んでるとさ、愛香ん家の長崎家を連想しちゃうんだもん」


「お気に召しませんでしたか、お客様」

マスターの渋川恭一の一言で我に返った広海。恭一は、いつになく丁寧な口調で広海を覗き込む。アルコールランプにガラスの蓋を被せる。豊かな香りを漂わせながら、重力を思い出した液体が真空になっていた元のガラスの容器に戻ってきた。

「そんなことないわ。美味しいわよ、キョーイチのコーヒー」

「知らない客が聞いたら、ビックリするだろうな」

苦笑いの恭一。広海には恭一の言葉の意味が分からない。

「中年の店主と、その店主を呼び捨てにする女子高生。一体どんな関係だろうってな」

「そんなつもりで言ったんじゃないわよ」

「分かってるよ、冗談、冗談」

恭一は冷めたコーヒーを下げて、淹れ立てを広海の前に。

「はい、こっちがキョーイチ」

広海の睨む視線をかわすように、恭一は自分もコーヒーを一口。

「んー、間違いない。確かにキョーイチね」

ふたりは吹き出して笑った。

 愛香とギクシャクして二週間。なんだか元気も出ないでいた。理由は学校の『分断作戦』だ。選挙年齢の引き下げで俄然、政治に関心を寄せるようになった広海たち。仲間内での勉強会はともかく、街頭でのパフォーマンスが一部の教員やPTAの役員は気に入らないのだ。『高校生は高校生らしく』というのが常套句で合言葉。どうやら受験勉強に専念して、良い大学に進学するのが高校生らしさということらしい。『娘さんの生活態度が、内申書に響くかもしれませんね』と愛香の母親に連絡してきた。やんわりとしたプレッシャーだ。グループに直接働きかけても素直に引き下がるとは思えない。そこで、愛香にターゲットを絞って狙い撃ちに出てきたというわけだ。


「おいでよ、ア・イ・カ。じゃまあいいかに。おいしいア・イ・コあるよ」

広海は愛香にメールした。平仮名と片仮名が並ぶ暗号のような素っ気ない文面だった。どんな言葉をかけたらいいか分からなかった。愛香は来るだろうか。というか、もしかして既読スルー?。

理由の分からない不安が募る。残ったコーヒーをゴクッと流し込むと、広海はスマホを手に取った。呼び出し音が続く。六回、七回。広海の人差し指が画面に触れようとした瞬間。

「メールの確認?やめてよぉ、お母さんじゃないんだからね」

久しぶりの愛香の声。言葉とは裏腹に本気で怒っている様子はない。愛香らしい軽口だ。

「そんなじゃないけど・・・。やっぱ、メールじゃダメって思ってさ」

視線を上げた広海に、マスターの視線が優しい。少しの沈黙。

「分かったわ。ちょっと待ってて」

そう言うと、愛香は電源を切った。


「マスター、とびっきり美味しいアイスド・コーヒーをふたつ。ひとつは、こちらの辛気しんき臭そうなのために。もうひとつはア・タ・シ」

と広海。喫茶「じゃまあいいか」のカウンター。愛香の到着から三分。並んで座る広海と愛香に会話はない。

「翼の折れたエンジェルねぇ、私が。もうすぐ18歳-。なるほど、ため息覚える年頃ってわけか」

愛香がうそぶく。恭一だって、中村あゆみのスマッシュ・ヒットのフレーズくらいは知っている。というかリアルタイムで親しんだ楽曲だ。

「アイスド・コーヒーって簡単に言うけど、意外と難しいんだぞ」

細かいことだが、恭一は信念を曲げない。日本では卵かけご飯くらいポピュラーなアイスコーヒーも、一般に英語圏では通じない。アイスド・コーヒーと言わないと冷たいコーヒーは飲めないのだ。恭一が少し黒光りする豆を取り出した。ホットで抽出する時より深く焙煎ばいせんした豆。黒く光っているのは油分のせいだ。コーヒー特有の香りやコクを十分に引き出すための一般的なやり方。年代物の手動のコーヒー・ミルがガリガリと乾いた音を立てる。店内に低く流れるクラシックがよく聞こえない。恭一はサイフォンを使わない。薄いコーヒー色に染まったネルの袋にいつもより多めのコーヒーの粉を入れて、たっぷり氷の入ったティーポットにセット。沸騰させたお湯を少し冷ましてから静かに注ぎ始める。コーヒー特有の深い香りが漂い始めた。

 一般的にアイスド・コーヒー専用の豆はない。ポピュラーな品種はブラジルやコロンビア、マンダリンあたりだろうか。恭一が使っているのは、ホットと同じハワイ産のコナ。単純に、現時点で一番お気に入りの豆のひとつを選んでいる。コナが特別にアイスド・コーヒーに向いている豆だと思っているわけではない。アイスド・コーヒーは苦味が出やすい難点はあるが、香りが十分出るようにコーヒー豆はホットの一・五倍程度使う。最近人気の水出しコーヒーなら冷蔵庫で八時間~十時間かけて抽出する。一口で言えば麦茶を作るのと同じ要領だ。カフェインやタンニンが少なく、すっきりした味わいが楽しめるのが水出しの特徴だ。

「とびきり美味しいアイスド・コーヒーというには、まだまだ発展途上だな。試行錯誤で何度も挑戦しているけど、毎回香りにムラが出てしまう。ホットと同じ香りを出すのは本当に難しい」

「飲まなくても分かるの?」あいす「何回淹れてると思う。湯気の中の香りと、抽出したコーヒーの色で何となく想像がつくもんさ」


 カウンターには新しい十円玉のようにキラキラと輝く銅製のマグカップが二つ。大きめの透き通った氷の上から熱々のコーヒーが注がれると、静かな店内にカランと氷が解ける音が涼しげに響く。表面に結露した水滴が光るカップは想像以上に冷たかった。

「まあ、試しに飲んでみて。最初はミルクもガム・シロップも入れないで」

「んー、ヤバイ」

「アイス・コーヒーってこうやって淹れるんだね」

「アイスド・コーヒーだからね」

まだ高校生。喫茶店でアイスド・コーヒーを飲む機会も少ないので、広海の評価が正しいかどうかは分からない。

「おい、ヤバイはないだろ。ヤバイはさ。知ってるよオレだって。最近の若い子の“ヤバイ”が褒め言葉なことくらいは。でも、よりによってオレの淹れたアイスド・コーヒーに、よりによって広海がヤバイって言うとはな」

いつもと変らぬ広海と恭一のやりとりに、愛香が笑った。

「ゴメン、ゴメン」

ゴメンといっても本気で謝っているわけではない。もちろん恭一も本心で非難しているわけではない。場を和ませるための言葉のキャッチボールだ。日本語はアイスド・コーヒーを淹れるのと同じくらい難しい。広海も笑った。そして、恭一も。翼の折れたエンジェルの翼の傷が少しは癒えたかな、と広海は思った。







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