第10話 夏の終わりは突然に

 乾いた金属音を残した打球は、一瞬にしてマウンドの投手のグラブに収まった。吸い込まれるように、という比喩がピッタリの光景だった。勢いよく球審の右手が上がる。剣橋つるぎはし高校野球部の27個目のアウトはあっけなかった。最後の打者は一塁ベースへのヘッドスライディングも許されないばかりか、バッターボックスから、ただの一歩も踏み出すことができなかった。ピッチャーライナー。九回裏二死二、三塁。同点、そして逆転サヨナラの二人のランナーもまるで金縛りにあったかのように動きを止めてうずくまった。

7対8。いわゆる「ルーズヴェルト・ゲーム」だ。野球で最も面白いと評される一進一退のエキサイティングな試合をこう呼ぶことがある。野球好きのアメリカの第32代大統領、フランクリン・ルーズヴェルトが野球の試合観戦に熱中するあまり、ディナーの約束を断ったというエピソードに由来する。都営球場のスコアボードは「1」と「2」の数字が入り乱れ、二転三転の激戦を物語っていた。勝利の女神は一体どんな顔をしていたのだろう。とにかく剣橋高野球部の夏が終わった。


 小笠原 広海ひろみは、その瞬間を三塁側の応援スタンドで迎えた。しかし、あっけない幕切れを目にしたわけではない。なぜなら、彼女はグラウンドに背中を向けていたのだから。ドラマのようにあっけない結末は、スタンドで声援を送る生徒や父兄の悲鳴と落胆で知った。彼女は剣橋高校の応援団長だ。ただ一人、真っ白い学ランに真紅しんくたすきと同色の長い鉢巻がトレードマーク。進学校でも応援団長は男子生徒が務めることが多い。しかし、広海の学年は男子部員がいなかった。3年生が引退すると、団長役が回ってくるのは必然でもあった。

黒い学ランの1、2年生八人を従え、大きな声と小気味の良いホイッスルで自在に生徒や父兄をリードする。そこにいるのは、放課後の教室でクラスメートと政治を語る広海ではない。通勤客で込み合う駅前で、慣れない演説に戸惑う広海でもない。身体をいっぱいに使って機械仕掛けの人形のように正確な動作を刻んで選手を鼓舞した。3対4。剣高ナインが1点ビハインドの五回終了時には学ランを脱ぎ、逆転を祈って頭からバケツいっぱいの冷水を浴びた。今年のバケツにはアイスバケツリレーよろしく、たっぷりの氷も入っていた。5対5の同点に追いついて迎えたラッキーセブンの攻撃の前には、ブラスバンドの演奏に合わせ、剣高けんこう応援団伝統の「剣の舞」も披露した。ハチャトリアンのあの「剣の舞」。鼓舞がナインに届いたのか一時は逆転もしたが、あと一歩及ばなかった。

「ありがとうございました」

ファウルグラウンドに整列した野球部ナインが、スタンドの観客に向かって帽子を取って深々と一礼する。「TSURUGI」と紺色に金糸で縫い込まれた胸のネームも汗と砂で汚れて読むことができない。激しい戦いの勲章だ。

「よくやった」「ナイス・ゲーム」

スタンドからはねぎらいの言葉が飛び交い、大きな拍手が選手の健闘を称えていた。帽子のつばに手をやり、肩を震わせながらうつむく選手たちの頬に涙が光る。

「応援ありがとうございました」

広海もスタンドの生徒と父兄に頭を下げた。

「ご苦労さん」「来年も頼むぞ、団長」

汗だくの広海たち応援団にも労いの拍手。

「カンちゃんたち、納得のいく試合は出来たのだろうか」


 広海は、野球部のマネージャー、吉野さくらのことを思った。去年も今年も二年連続で、ミス剣高に選ばれた学校一の美人だ。来年の投票でも3年連続のミス剣高は堅いだろう。女子にしては珍しく大の野球好きで、東京ヤクルトスワローズ一筋。外見に似合わず、天気の良い日も応援用のビニール傘を持ち歩き、たまに口ずさむ鼻歌はもちろん東京音頭。少ない時でも月に2試合は、神宮球場のホームゲームを観戦するためにライト側スタンドに繰り出す。広海も今シーズン、もう既に2試合つき合わされている。そんなさくらは「もしドラ」の影響で、入学早々、剣高野球部のマネージャーになった。「もしドラ」は、岩崎夏海のベストセラー小説「もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」のこと。あらすじを小論文的に100字以内でまとめると、病気で入院中の親友に代わって、野球部のマネージャーを務めることになった都立程久保高校2年の川島みなみが、勘違いで購入した経済学の本に学んだ独自の戦法でナインとともに甲子園を目指すストーリー。テレビアニメや映画にもなった異色の野球小説だ。そのさくらが、監督や幹太たち選手の理解もあって、この春から剣高野球部に「もしドラ」作戦を取り入れた。

 高校野球では攻撃のポピュラーな手段で、最近はメジャー・リーグでも以前より頻度の増えた送りバント。「もしドラ」では、この定石ともされるセオリーを、相手にアウトひとつを攻撃側が守備側にプレゼントする消極的な作戦として否定する。剣高野球部も基本的に送りバントを使わない。消極的だからではない。単純に確率の問題だ。最近は高校生といえども140キロ超える速球を投げ込むエース・ピッチャーは少なくない。そんな投球を勢いを殺して正確にフェアグラウンドにボールを転がすのは意外と難しい。どんなボールにも迷うことなく遂行必至のスクイズ・バントの方が送りバントより易しいと、さくらは思う。送りバントを仕掛けるのは基本、投球がストライクの場合のみ。打者にとっては逡巡しゅんじゅんする要素が多く、プレッシャーも大きい。仮に小フライになったり、野手の正面に強いバントが転がれば走者が進塁できないばかりか、打者本人もアウトになる最悪のダブル・プレーも覚悟しなければならない。だから、剣高ナインは基本「送りバント」はしない。

もうひとつ、守備の際のノーボール作戦はどうか。投手がストライクしか投げないのだ。投球数が増えれば当然、肩にも負担が掛かるし疲労が溜まる。体力的な消耗を避けるために、意識的にボール球を投げない省エネ作戦だ。どうせストライクゾーンのギリギリを狙って投げても、思ったコースにはなかなか決まるものではない。ならば、アバウトな制球力でもストライクゾーンの低めを狙って投げる方が賢明だ。狙いよりも真ん中に入ることもあるが、逆にコースいっぱいのナイスボールになることだって期待できる。剣高野球部がノーボール作戦を採用する理由は三つ。第一に投手のスタミナの温存。投球数が増えれば当然、体力的にも疲れは溜まる。目には見えないが、打者や相手ベンチとの駆け引きも心理的な疲労を誘う。第二は野手の集中力。全球ストライクなら、相手打者も基本的には打ってくる。明らかなヒット・エンド・ランや盗塁、それにスクイズの場面以外に意識的にボール球を投げないノーボール作戦は、内外野を守る選手も打球に集中しやすいのだという。実際エラーも少なくなった。第三は、相手に考える時間、余裕を与えないこと。場合によっては相手の集中力も高まるが、時間的に余裕がなければ作戦も立てにくいはずなので、対応もしやすくなるとの判断がある。もちろん、得点差やイニング、走者の有無など状況によっては作戦を変えることもある。臨機応変というわけだ。

 しかし実は、剣高ナインには「もしドラ」作戦より大切にしている作戦がある。それがプレーボール作戦。野球は言うまでもなく球審の「プレ―ボール」の宣告とともにゲームが始まるスポーツだ。しかし、一年に140試合以上戦うプロ野球と違い一戦必勝、トーナメント方式の高校野球では、選手の重圧も半端ない。高まる緊張感の中で日頃の実力を出し切ることは容易ではない。で、プレイボール作戦だ。さくらはこう言う。

「グラウンドに立つ選手の力量には、基本的にそんなに差があるとは思えない。

運動神経だって経験値だって。持てる力を発揮できるかどうかは主にプレッシャーとの戦いよ。あのラソーダ監督も『野球とは90パーセントのメンタルと10パーセントの技術のスポーツだ』って言ってるほどの。だから、緊張感の呪縛から解放できれば、有力校とだってきっと十分戦える。審判の『プレー』の言葉の意味を考えてみて。『play ball』=『さあ、ボールで楽しもうぜ』よ。しかも、試合をジャッジする責任者が、グラウンドの外にまで聞こえるような大きな声でハッキリ高らかに宣言してくれているんだから、楽しまない手はないわ」

右手の親指を立てて、ニッコリ微笑むさくらの指摘にはリアリティがあった。多くの野球部員が“さくらマジック”にかかったのは想像に難くない。


 「オレ、野球観が変わったね。何で気がつかなかったんだろ、プレーボール」

小学校時代から野球を続けている幹太から聞いたことがある。どんなに猛練習して試合に臨んでも、守備に着いたら打球をひとつ処理するまでは緊張感で身体が固くなる。打席に入っても、ヒット一本打つまでは何となく自信が持てないものだと。その幹太が試合を楽しめるようになったという。ユニフォームがだぶだぶで、バットに振り回されていた子供の頃のように。チームメイトも一緒だ。去年の夏から剣高ナインのゲームは目に見えて変わった。緊張感の中で、選手が野球を楽しんでいる。笑顔が増えた。明らかにさくらのプレーボール作戦効果だった。

 それでも敗れた。準々決勝で。最後の打球があと10センチ上下どちらかにずれていたら。もう20センチ左右どちらかにずれていれば、ゲームは劇的なサヨナラを迎えていたかもしれない。しかし、野球に「たら」「れば」はない。大体、あの広いグラウンドに9人。フェアグラウンドの外で構える捕手を除けばたった8人しか守っていないのに、打球は不思議なくらい野手の守備範囲に飛ぶ。外野手が一歩も動かないままフライを捕球することだって珍しくない。必然か偶然か分からないが、野球はそんなスポーツなのだ。割り切ろう。ゲームが楽しめたのならそれで良い。全国の高校の野球部の数は4,000校を超える。そのうち、一試合も負けることなく、その夏を終えることができるのは、甲子園の全国大会で優勝する僅かに一校しかないのだから。

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