第8話 被選挙権と非選挙権
「みなさん、お早うございます。
広海は路上ライブの第一声を上げた。
ハンドマイクを握る両手が汗ばむ。意を決して発した声が震えているのが自分でもはっきりと分かる。まだ午前7時半過ぎ。平日のサラリーマンやOLが足早に駅へと急ぐ。歩道の端に立つ高校生には目もくれない、それでも経験したことのない緊張感で押し潰されそうだ。
「お早うございます。剣橋高校2年の長崎、長崎
いけない。愛香も初めての体験にドキドキしているのだろう。いつもの快活さ
の片鱗もない。自分の緊張が伝染しているせいだ。落ち着こう。広海は大きく深呼吸した。
「私たちは17歳。公職選挙法が改正され、誕生日が来れば来年夏の参議院議員選挙から投票ができるようになります。みなさんと同じ有権者です。『税金も払わずに、親のすねをかじりの分際で生意気な』『世間知らずの小娘が』とお思いの方もいらっしゃることでしょう。実際その通りです」
急ぎ足はそのままに、一瞥だけくれる通勤客から一瞬、笑いがもれる。広海は恥ずかしさのあまり赤面した。隣りで愛香も固まっている。こんなことじゃダメだ。分かっているけど、金縛りのように身体の自由が利かない。大丈夫。周りは知らない人ばかりだ。恥ずかしくなんかない。やっと私たちはスタートラインに立ったのだ。広海はぎゅっとハンドマイクを握り直した。
「18歳選挙権は決まりましたが、私たちは、まだまだ知らないことが多く、政治経済の教科書を引っくり返して勉強しています。あまり本気で読むことのなかった新聞にも目を通すようになりました。一日も早く、少しでも多くの知識が身につくように努力しているつもりです。どうぞよろしくお願い致します」
やっとの思いでここまで言うと、愛香と二人、深々とお辞儀をした。
恥ずかしさのあまり、顔を上げることが出来ない。学園祭か何かの罰ゲームとでも思ったのだろうか。足を止めて場違いな女子高生を眺めていた数人からパラパラと拍手が聞こえてきた。聞いてくれた人がいて、少しだけ安堵した。太陽はまだ昇ったばかり。日差しは暑くないのに冷や汗が背中を流れていく。広海は左手をそっと伸ばして愛香の右手を握った。お互いの火照った手の平が汗ばんでいる。ホッとして顔を上げると目が合った。愛香のいつもの笑顔がそこにあった。自分も笑えているだろうか。広海は思った。
次の日も、その次の日も広海と愛香は朝の駅前に立った。初日のような緊張感はなくなってきた。通り過ぎていく人の顔がはっきりと見える。路上ライブは政治活動ではない。自分の決意が本物か偽物か-。確かめる舞台と考えていた。そんな広海のわがままに愛香は付き合ってくれた。人前でしゃべることを続けていると、あんなに緊張していたのが不思議に思えてくる。とても演説なんていえる代物(しろもの)ではないが、話しかける言葉にも力を込めた。ふだん何気に使っている若者言葉は、当然NGワード。「18歳の誕生日を迎える私たちの初めての選挙は、来年夏の参議院議員選挙になる予定です。みなさん先輩方に恥ずかしくないように、候補者を選べるように勉強したいと思います」
愛香がここまで言うと、広海が続けた。
「ただ、勉強していく中で、残念なこともありました。私たちだけではありませんが、24歳までの有権者が政治に参加できるのは投票する権利だけ。私たちの参政権には、立候補する権利はありません。被選挙権です。衆議院議員の場合は25歳になるまで、参議院議員や知事の場合は30歳になるまでは立候補できません」
そそくさと通り過ぎていく人波。その中で、数人が足を止めるのが分かった。「社会経験や常識、教養が足りないだろ、とツッコまれれば、その通りかもしれません。でも、私たちの世代にも、社会経験はともかく大人の皆さんに負けない常識や教養を兼ね備えた人材だっているはずです。いきなり18歳からというつもりもありません。ただ、なぜ25歳にならないと衆議院議員になれないのか、なぜ30歳にならないと参議院議員になれないのでしょうか。なることができないというか、立候補さえ許されない。24歳はダメで25歳だったらいいよ、という論理は素直に納得できません。参議院は良識の府なので、衆議院より5歳上の30歳からということです。授業では何も疑問を持たずに数字だけは覚えました。情けないけど、受験勉強ってそんなんです。でも、選挙権年齢の引き下げで、少しは政治を分かりたいと思うようになりました。そうしたら次々と疑問が出てきました。同じ国権の最高機関なのに、参議院だけが良識の府で、衆議院は良識の府ではないのでしょうか。腑に落ちません」
少し言い過ぎただろうか。少しずつではあるが、足を止めて話を聞いてくれている人はいつもより多い。胸の鼓動が高まって、言葉に詰まる。日差しが暑い。続きを言わなければと思った瞬間、横から誰かにハンドマイクを奪われた。広海の横に立っていたのは大宮
「お早うございます。剣橋高校2年、小笠原と長崎の同級生の大宮幹太です。 僕たちは政治に参加できることをとても光栄に思っています。政治に僕たち世代の声も生かしてもらえるのですから。でも、衆議院議員になれるまで、いえ正確には衆議院議員選挙に立候補できるようになるまで最低でも7年。参議院議員に立候補できるまでは最低でも12年かかります。スポーツ選手はどうでしょう。テニスの錦織 圭選手、現在25歳ですが、24歳の去年USオープンで準優勝しました。世界で活躍し始めたのは十代からです。野球の世界では、メジャー・リーグ、ニューヨークヤンキースの田中
ざわついていた駅前の空気が一瞬和らぎ、拍手が起きた。やっぱりスポーツ、芸能の話題は人の心をつかみやすいのだろうか。現在ならをプロの将棋界でデビューから前人未到の29連勝を達成し、世間を驚かせた藤井 総太四段や男子卓球の世界大会で最年少優勝を飾った張本 智和選手。二人とも14歳だ。
「ありがとうございます」
初めてのスピーチなのに、幹太のこの落ち着き様は何だ。拍手のお礼まで挟む余裕に軽い嫉妬を覚えた。そんな広海の思いをよそに幹太が続ける。
「そして、残念ながら僕たちは生の感動を共有できませんでしたが、1992年のバルセロナオリンピックの競泳、女子200メートル平泳ぎで岩崎 恭子選手が史上最年少の金メダリストになったのは何と14歳でした。『今まで生きてきた中で一番うれしい』と優勝インタビューでコメントしたのを、みなさんは覚えていらっしゃいますよね。流行語にもなりましたから。最近では、卓球の伊藤
時間が止まったような静寂が拍手に変わる。スポーツ選手を引き合いに出したのが分りやすかったのかもしれない。幹太の話は通行人の耳に確かに届いた、
「ご清聴、ありがとうございました」
幹太が丁寧に頭を下げた。広海と愛香も深々と続いた。
「何で来てくれたの?」
「お前達にだけ、カッコいい思いをさせるのはちょっとなぁ。って言うか、ぶっちゃけ共感したってわけ」
幹太が汗を拭きながらペットボトルを口にする。
「共感?」
「ああ。圧倒的に実力不足なのに何か変えなきゃ、って無茶苦茶なところ、嫌いじゃないし。無鉄砲で無自覚な行動だけど、アクションを起こさなきゃ何も変わらないのは確かなんだよな。冷めて見ているのは楽だけど、自分だけ傍観者でいるのも同級生として何かな、って」
「『嫌いじゃない』なんて、何気取ってんのよ。どうして『大好き!』って言えないかな」
強引な愛香に、路上では堂々としていた幹太が顔を赤らめ、ドギマギしている。
「オレたち、来年から選挙権を持つわけだけど来年だけじゃなく、その先ずーっと持つ以上、遅かれ早かれ勉強しなきゃいけないし。お前たちに遅れを取るのもシャクじゃん」
努めて平常を装いながら冗談交じりの幹太。半分は本音だが、自分の焦りに気づかれていないか、そっちの方が気になった。
「でも助かったわ。ありがとう」
「俺なんかいたって、お前らにとっては頼りないCMに過ぎないだろうけど、まあ、いないよりはマシだったろ」
「何? CMって?」
「CM? クラスメート。同級生」
「DAIGOか、幹太は」
「だって、女子高生はJKだろ。女子大生だってJDって言うじゃん」
「クラスメートだからCMって、まんまじゃん。しかも、10人いたら9人はコマーシャル、って言うでしょ」
「ううん。10人いたら10人ともコマーシャル、って言うわよ」
「それって、全員じゃん」
大笑いする広海と愛香。けれど、広海たちにとって幹太の存在は百人力だった。
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