五月の雨がもたらすもの

りっこ

五月の雨がもたらすもの

大学から駅までの一本道を少し外れたところに、その店はあった。いつもと同じように一般的な男子大学生の最短ルートで帰っていたら、知らずにいただろう。久しぶりに顔を出したゼミの後、寄ってくる友人たちを振りきるために学生街の賑わいを避けていた。

五月に限って窓際の席を探してしまう癖がとれない、今でも。流行に遅れまいとする街中のカフェにせよ、窮屈な路地に佇む隠れ家のような喫茶店にせよ、空っぽの椅子が誰かの訪れを待っているような時には、立ち寄らずにいられない。

正門を出た頃から控えめに降り始めた雨で、その店の窓が程々に濡れているのもよかった。細やかな雨粒は磨き上げられた透明なガラスを覆い、居並ぶ人々の表情を隠してくれる。外の世界から遮断されたその空間が、店内を秘密めいた空気で満たしてもくれる。どうせこの雨じゃ動けない。同じように傘を持っていない人間で、うつむき足早に通りを去って行く者もいるが、自分は急がなければならない理由を持っていない。予定外の休憩をとることは、そう悪いことでもなかった。水分を含んだ木々の若葉が艶を増していく様を眺める機会が持てるのだから。

そう思って席についてみるものの、ほんの少し居心地の悪い思いをする。注文通りに届いたコーヒーを飲みながら窓の外を見つめてはみるが、長いこと続けていられない。そもそも一人でこうした店にやってくることに違和感があるのだ。先ほどテーブルの端に追いやったばかりのメニューを引き寄せる。サンドイッチやケーキの写真は、どれも少しだけ色あせていた。

最初の音は店内に小さく流れるJazzのリズムに紛れていた。ガラス越しの視線に気づき顔をあげてやっと、少し前にも似たような音がしていたと気づく。まるで約束でもしていたかのように、彼女はそこに立っていた。あの頃と同じように。夏でも冷えに悩まされるような手が、傘からはみ出している。こちらの表情を窺い、小さく笑みを浮かべる間にも、その指先に細やかな雨粒がしきりに降りかかっていた。相変わらず、無茶なことばかりする。



人通りを避けるルートが好みなのは美優も同様だったから、いつかはこうやって再会していたのかもしれない。白い手のひらサイズのタオルで、彼女は濡らしてしまった左手を丁寧に拭いている。

「また雨の日なのね」

久しぶりに会ったと言うのにさ。伏目がちに、手の甲だけを見つめている。慎重な動きをするタオルが、何度も同じ場所を行き来していた。

「相変わらず雨に好かれてるのね」

うらやましいだろ、と応えてコーヒーカップに口をつけると、小さな笑い声が返ってくる。ホットミルクを凝縮して作ったようなこの店のカップは、厚みがあって、少し重い。

「何か言いたそうね」

「別に」

うそばっかり、と不満気に言うが、瞳は笑っている。窮屈そうに氷の浮かんだグラスが運ばれてきて、美優は通路側に掛けていた傘を窓際に置き換える。

「どうせ、またちゃんと拭けないだろうって思ってたんでしょ」

残念でした、と誇らしげにかざす指先に水滴は一つも見当たらない。

「変わらないのは、そっちじゃない」

すぐに手を引っ込めて、テーブルに身を乗り出してきた。

「天気予報はチェックしてこなくちゃ、ね」

「ところにより雨、だろ」

「そっか。見てはいるのか、あなたは」

身体を離し、くすくすと笑う。

「それで傘を持ってこないんだから、どうしようもない」

「降水確率三十パーセントって……」

「そこまで見ておきながら」

美優はいっそう楽しそうに笑った。両腕からテーブルへ振動が伝わり、グラスの水面がわずかに上下する。店内の話し声は、皆どこかに隠し事を抱えているような響きがする。雨音が気配を消しているのは、そのよそよそしさに遠慮しているせいかもしれない。

「なにか頼めば」

一旦もとの場所へ戻していたメニューに手を伸ばすが、彼女はそれを制して店員を呼んだ。宙ぶらりんになった左手を頬杖の格好で落ち着かせる。店の奥からやってきた店員へ、美優は半ばつっけんどんにコーヒーを注文する。遠慮がちに挙げられた手とは不釣り合いの口調で。

「飲めるようになったのよ」

店員がテーブルを離れるとすぐ、勝ち誇ったように口を開いた。向かいに座る相手が、予想外の単語に反応して眉をあげたのを見逃しはしなかった、と宣告するように。

「それはよかった」

相手の大げさな口ぶりに肩をすくめた後、彼女は目を伏せて微笑んだ。

「お砂糖多め、ミルクも欠かせないけど」

「たいした進歩だよ」

今度は心から。

二人で出かけるようになって何度目かの頃、彼女が唐突にコーヒーを頼んだ。

「同じものが飲めるようになりたいの」

強気に宣言したくせに、口をつけるなり思いきり顔をしかめ、何度も首を振った。砂糖とミルクの入れ過ぎで白く茶色に淀んだ液体の残りを飲まされて以来、頼んでいるのを見たことがなかった。

「進歩かな」

再び彼女は、目を伏せて笑う。



雨は一向に止む気配がない。その代わり、この店に入ったばかりの頃より強くなることもなかった。霧のように立ち込める、この時期特有の雨だ。美優の言う通りだった。あの頃、二人で会う日はいつもこんな天気ばかり続いていた。とりわけ五月は。初めて二人で会うことになった日も、前日までの快晴が嘘のような雨になったというのに、彼女は気にするそぶりなど少しも見せなかった。むしろその天候を楽しんでいるようにさえ感じられたことを覚えている。お互いへの緊張がほぐれて雨ばかり降ることを指摘したとき、彼女はこともなげに笑ったのだ。

「今頃気づいたの」

雨に好かれているのよ、私は。そう言って。

「でもここまでではなかったかな。そっちも相当雨に好かれているね」

そう言われてみれば確かに、大事な日に限って雨に降られていた気もした。

「でもね、いいんだ。私、五月の雨って割と好きなの。明るい感じがして」

それは気遣いの類ではなく。どこかのカフェで、ファミレスで。窓の外の雨模様を眺めている瞬間が、彼女は何より楽しそうだった。

「洗い流してくれそうだから。イヤなこととか、気分とか」

今、美優は同じように外の景色を眺めている。ただ、あの頃のようにただひたすら楽しそうにしているのとは様子が違う。

「何もこんな日まで、雨じゃなくてもいいのにね」

「雨の日、嫌になったのか」

そうじゃない、と問いは即座に否定される。

「でも、なんだかいろいろと思い出す」

彼女はおもむろにメニューを開く。

「自分が何にも変わってないことを思い知らされる」

決して商品名が目に入らないであろう速さで、ページが繰られていく。

「雨で全部流してくれればいいのにね。残るものがあるから、引き戻されそうになる」

肩に触れる長さの髪が少し茶色がかっているのは、生まれつきのものだと言っていた。

「何かあったのか」

「何も。そんな話、聞いていないでしょう」

元クラスメイトというだけなら、別れた相手の存在がコミュニティから縁を切らなければならないほどの重みになることはない。顔を合わせて話す機会こそなかったとはいえ、人づてに互いがどうしているかわかるくらいの距離は、常に保たれていた。誰よりも早く内定を獲得して順調に人生を歩んでいるというのは、いかにも彼女らしい。

「何かあったのか、なんて初めて言われた気がする」

美優はページを繰る手を止める。

「大人になったねえ」

一緒にいても、何を考えているのかわからない。彼女が親しい友人にそうこぼしていたという話を耳にしたのは、ずいぶん後になってからだった。

「俺だっていろいろあったから」

本当は、それほどの変化はない。つい数日前に卒業後の進路が決定したが、就職活動を通じて自分の内面が劇的に変わったとは思わない。敢えて言うなら、それなりの会話術を身につけたということだろう。

「そうだよね、何かは変わるよね」

先ほどと同じ店員が、コーヒーを運んでくる。既に自分の手元にあるのと同じ、白く重たいカップだ。店員が十分に遠ざかるのを確認してから、美優はミルクと砂糖に手を伸ばす。いろいろ変わっているのに、と彼女はつぶやいた。

「それなのに、肝心なところはいつまで経っても同じままなの。コーヒーが飲めるようになるより、重要なところはあるはずなのに」

砂糖が三つ、ミルクが一つ、続けて投入される。

でも、一緒にいて考えてることが全部わかれば満足するかって言うと、違う気もするの。彼女は、同じ友人にそう続けたのだと言う。全部、後になってから聞いた。



銀色のスプーンで、美優はカップの中を混ぜている。

「ほんとに無防備な状態で、雨の中に出て行ったら。全て流されちゃうのかな。経験も、記憶も、思い出も。それとも、何か残るものはあるのかな」

コーヒーの中に白い模様が溶け込んでいく。

「だめだな、せっかく久しぶりに会ったのに、こういうしめっぽい話」

いつもこういうわけじゃないんだよ、と彼女は言う。わかってる。しらじらしいと思いつつ、そんな返事をしてしまう。

彼女が自分の前で弱い部分を見せることは一度もなかった。きっとそれは、基本的に今も変わらない。例えば、砂糖とミルクを多めに入れてまで無理にコーヒーを頼まなくてもいいと言ったとして。彼女は強気な笑顔を作ってこう応えるのだろ。

「だって、全て昔と同じままじゃ、むなしいでしょう」

難しく考えすぎるのよ、あのコは。もう少しいい加減な性格だったら、続けられたのかもしれないけどね。彼女のことを聞かせてくれた友人は、話の最後にそう言って困ったように微笑んだのだった。

コーヒーを飲み終えた美優は、先に店を出ると言う。決してこちらも一緒に出るという選択肢を与えない告げ方で。この時間の終わりを先延ばしにするほど、お互いに話すこともなかった。雨はまだ続いている。

立ち上がりかけた彼女へかけた言葉に、特別な意味はなかった。

「雨で全部が流れないのは、その記憶が留まりたがるんじゃないかな」

記憶も思い出も。まだ、その人の中にあり続けたいと。呼び起こされる時に少しの痛みを伴うけれど。雨はきっと、生じた痛みの方を流してくれる。まだ得意とまでは言えないコーヒーを注文し、黙々と飲み干す美優を見ていたら、そんな考えが浮かんだ。

「だからたぶん引き戻されることもないし、押し流されることもないのでは」

しばらく考えていた美優は、そういうことなのかな、とつぶやいた。そして目の前に残された空のカップに手を触れる。「コーヒーが飲めるようになったことが必ずしも進歩とは言えないけど。飲めなかった頃に戻りたいとは思わないから」

彼女は何かを確認するかのように幾度か頷き、今度こそ立ち上がった。

「ありがとう、会えて、よかった」

傘を握りしめた彼女が最後に顔を上げる。

「雨、止むといいね」

「本当にそう思ってるわけじゃないくせに」

冗談めかして言うと、美優は笑って、

「じゃあね」

と手を挙げ歩き出す。「あ」の音が縮まった「じゃね」という言い方で。

店の外で、美優が振り返ることはなかった。雨粒で覆われたガラス越しで少しぼやけた後ろ姿が、すぐそこの角を曲がるのが見える。その様子を眺めながら、冷えたコーヒーを流し込む。

テーブルの上には、空になった二つのカップが残された。



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五月の雨がもたらすもの りっこ @riccoricco

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